16.本当に困った事態
「アンリ、着いたよ」
「……もう着いたの?」
「ぐっすり眠っていたからね。降りるよ」
「うん」
シル兄様に抱き上げられて馬車から降りる。
もう夜も遅いのか、あたりは真っ暗になっていた。
使用人たちに出迎えられて玄関から中に入ると、
パジェス侯爵が待っていた。
黒髪青目で体格の大きいパジェス侯爵に会うのも十年ぶり。
シル兄様と侯爵が黒髪以外は似ていないのはシル兄様が母親似だからだ。
「パジェス侯爵、お久しぶりです」
「ああ、アンリエット。久しぶりだね。
すっかり綺麗になって、もう立派な令嬢だ」
「ふふ。ありがとうございます」
「部屋に案内する前に話があるんだ。
執務室まで来てもらえるだろうか?」
「ええ、わかりました」
これまでの事情を聞きたいのだろうと思っていたら、そうではなかった。
「実はシルヴァンがいない間に困ったことが起きた」
「俺がいない間?何があったんだ?」
「二週間ほど前、ウダール侯爵家のカトリーヌ嬢が訪ねてきた」
「カトリーヌ嬢が?」
「見合いの話を断ったことが不満だったようだ。
だが、家に来られた時に私もコリンヌもいなかった」
「父上と母上がいなければ、帰ったのでは?」
「それがお前が戻るまでいさせてもらうと上がり込んできたそうだ」
「はぁ?」
他国なのでウダール侯爵家のカトリーヌ様がどういう令嬢なのかは知らない。
だが、侯爵夫妻がいない屋敷に上がり込むというのは礼儀知らずだ。
「同じ侯爵家とはいえ、とんでもないことだ。
使用人たちは侯爵令嬢を無理やり追い返すこともできず、
応接室でお茶を出して私たちが戻るのを待っていたそうだ。
そこに……ヴァネッサが出て行って」
「は?なんでヴァネッサが出て行くんだ?」
ヴァネッサとは誰だろう。
パジェス侯爵家に娘はいなかったはずだが、この十年で生まれたとか?
「私にもわからん。
お前には昔から約束しているものがいるからあきらめろと、
そうカトリーヌ嬢に言って、追い出してしまったらしい」
「……なんでそんなことしたんだ?」
「お前のためだと言っている。
さすがに平民がそんなことをすればただではすまない。
とりあえずヴァネッサは屋敷に近寄らないように命じた」
え……? 平民が侯爵令嬢を追い出した?
まさか、ヴァネッサというのは使用人なの?
さすがに信じられないことだが、パジェス侯爵の顔色を見る限り本当のことらしい。
「ウダール侯爵家も怒っているようで、
お詫びとしてお前との正式な見合いをするようにと言ってきた」
「……冗談」
「冗談ではすまないから、困っていたんだ」
いくら先に礼儀知らずだったのが向こうだとしても、
パジェス侯爵家に仕える平民が無礼を働いたのも事実。
そのお詫びとして正式な見合いをと言ってくるのも、
貴族であれば当然のことかもしれないけれど……
「そこでだ、アンリエット。
シルヴァンの婚約者になってくれないか?」
「ふぇ?」
「父上、急に何を」
「時間がないんだ。明日にでも向こうは押しかけてくるかもしれない。
責任をとって婚約者にしろと言われかねないんだぞ!
今すぐ、アンリエットを婚約者にすれば最悪の事態は免れる!」
「それはそうだが……」
「いいですよ」
考えるよりも先に言葉が出ていた。
「承諾してくれるか!ありがたい!」
「アンリ、いいのか?」
「だって、シル兄様を助けるためなんでしょう?
仮の婚約者になるくらいするわ!」
「あ、ああ」
「よし!すぐに署名してくれ!書類は用意してあるんだ!」
パジェス侯爵は私が承諾すると思っていたのか、
すでに書類が用意されていた。
だが、署名欄を見て私も平民になっていることを思い出す。
「あ、でも、ルメール侯爵家の籍は抜けていますが」
「それは知っているから大丈夫だよ。
ハーヤネン国は祖父母が貴族であれば平民でも問題ないんだ。
オビーヌ侯爵の孫娘だと書いておけばいい」
「わかりました。それなら大丈夫ですね」
シル兄様に座らせてもらって、なんとか署名をする。
身体に力が入らないから震えた文字になってしまうけれど。
オビーヌ侯爵の孫、アンリエットと署名する。
「よし、これでアンリエットがシルヴァンの婚約者だ。
部屋はシルヴァンの隣に用意してある。
まだ一人では歩くこともできないのだろう?」
「父上、準備が良すぎるようだが……」
「仕方ないだろう!緊急事態だ!
これもウダール侯爵家を納得させるための作戦だと思え!」
「はぁ……なんでこんなことに」
がっくりしているシル兄様に申し訳なく思うけれど、
私は仮の婚約者になれたことが少しだけうれしかった。
私が婚約者でいる間はシル兄様は誰のものにもならない。
「仕方ない、部屋に行くか」
「あ、夫人に挨拶していないわ」
「明日の朝でいいよ。母上は寝るのが早いから、きっともう寝てるよ」
「そっか。もう夜遅いものね」
抱き上げられて連れて行かれたのは、一度も入ったことがない区画だった。
侯爵家の家族が使う部屋がある区画。
十年前に来た時は客室だったから、ここからは離れている。
「ここだよ。ああ、もう改装までしている……」
「改装?」
「俺の隣の部屋とつなげたようだ。
ほら、俺が継ぐはずじゃなかったから、ここは夫婦用の部屋ではなかったんだ」
「夫婦用……」
どうやらシル兄様が一人で使っていた部屋と隣の部屋の壁を壊し、
一つの部屋に作り変えてしまったらしい。
シル兄様の隣の部屋だと言ったのは、なんだったのだろうか。
「ねぇ、そのカトリーヌ様が来たのは二週間前なのよね」
「ああ」
「この部屋、いつ改装したの?」
「わからない……」
少なくとも数日で無理やり造ったようなものではなく、
きちんと若夫婦用の部屋に造り変えてあるようだ。
「気に入らないなら別の部屋に……」
「ううん、気に入らないわけじゃないの。
すごく素敵な部屋だし、ここで問題ないわ」
「そうか。疲れただろう。湯あみは明日にしておくか?」
「うん……そうする」
今から湯あみの準備をさせたら、侍女たちが可哀そうだ。
もう夜中だからとっくに寝ているだろうし。
「あ、着替えが困るか」
どうしようかと思っていたら、ドアがノックされる。
「入って良いぞ」
入ってきたのはランとレンだった。
「ラン!レン!」
「アンリエット様、お疲れ様でした。
お着替えに困っているのではないかと思いまして」
「ええ、ちょうどよかったわ。着替えさせてくれる?」
「はい!シルヴァン様、少しお待ちいただけますか?」
「ああ、わかったよ。外に出てる」
にっこり笑ったランに追い出されるようにシル兄様は部屋から出て行く。
同時にレンも外に出て行った。
「今日からまたレンはアンリエット様の護衛に戻ります。
私もパジェス侯爵家に雇ってもらえたので、アンリエット様の専属侍女です」
「そうなの?雇ってもらったのならよかったわ」
パジェス侯爵家の屋敷でお世話になる以上、
勝手に侍女や護衛を置くことはできない。
シル兄様が何とかしてくれると思っていたが、
パジェス侯爵が先に雇ってくれていたらしい。
着替え終わるとランは廊下に出ているシル兄様に声をかける。
シル兄様が部屋に戻って来ると、ランは礼をして出て行った。
「安心したのか?すごくほっとした顔をしている」
「うん。ずっと十年も一緒にいたの。
離れたのは初めてだったから、落ち着かなくて」
「そうだな……これからはランとレンも一緒だ」
「うん、よかった……」
それが体力の限界だったのか、シル兄様の腕の中で眠ってしまった。
目が覚めたら、大きな寝台の上でシル兄様に抱きしめられていた。
「え?」
シル兄様がまだ寝ているのに気がついて、自分の口をふさぐ。
一緒に寝ているのに驚いて叫んでしまいそうだった。
そっか。若夫婦の部屋だから、シル兄様もここで寝るしかないのね。
シル兄様の寝顔を見るのは初めてで、どうしていいのかわからない。