冬から春
長い冬が明け、暖かな日差しが春を知らせる。他の生き物たちと同じく、アリの巣も陽光に照らされ目を覚まし始めた。
入り口の近くで眠っていたアリたちは、一番に目を覚まし巣の外へ出る。日の光を全身に浴びながら、全身をマッサージして自分の体を完全に覚醒させる。
それが終わったら、彼女たちは巣の奥で眠るアリたちを暖め、起こしていく。最初に目覚めたアリたちのように、巣の外で暖まり、巣の奥へ温度を伝え他のアリを起こしていく。そうしてアリの巣全体に温度が行き渡り、アリの巣は完全な覚醒を迎える。
目覚めた彼女らには、食べものが必要だ。
外へ出て、手に入れなければならない。
まだ目覚めて間もないが、それは外敵も同じだ。誰かが取りにいかなくてはならない。
変わりもののキリギリスを看取ったあのアリも、無事に目覚め三度目の春を迎えていた。食べものを探す役割も変わらない。
変わったのは、彼女の心。
死を、強く恐れるようになっていた。
今の自分は、あのキリギリスの願いを預かっている。誰かに託すことは出来ていない。
歌に限らず、キリギリスの言うことは理解できないことが数多くあった。違うムシ、違う生きものだから。
それでも、「命が一つしかない大事なもの」だということに変わりはないはずだ。アリというムシも、時には巣のために命がけのはたらきをする。
だからアリにも、あのキリギリスの願いの重さが理解できた。
そしてだからこそ、その願いを背負っていることが怖い。三年以上生きられるのは、運の良いアリだけだ。次の春どころか、冬まで生きていられるかもわからない。
そんな自分の死によって、キリギリスの願いが無に帰ってしまう。そのことが、怖くてたまらない。
死を警戒し、重荷を託す誰かを探しながら生きる。そんな彼女に転機が訪れるのは、夏の近づく熱い日のことだった。
「アリさん、俺の話を聞いてくれない?」
こんな言葉が、頭上から聞こえてきたのだ。風を切る音が続き、目の前に降り立ったのは……。
「キリギリス!? お前、生きていたのか?」
そんなことはありえない。
そのことを理解していても、アリは自分の言葉を止められなかった。
「あれ、アリさん俺と会ったことある?」
冷静になれば分かる。似てはいても、別のキリギリスだ。
「いいや、ムシ違いだった。以前似たような形で声をかけられたことがある」
「見間違えるくらいに似てる?」
「行動がそっくりだ。私の知るキリギリスは、他のムシにも届く歌が歌いたいからと、アリに歌を聴かせ続けた」
「へぇ、気が合いそうだ。話してみたかったな」
「……自分の親、だと思うか?」
アリには、全くの無関係だとは思えなかった。しばらく会わなかった期間の内に、タマゴを残していたのだとしたら説明はつく。
「分からないなぁ、それだけじゃ。すごい歌が歌いたい、なんてみんな考えてることだし」
「アリにその手伝いをさせようとするのも、か?」
「まさか、少なくとも俺は偶然だよ」
他のムシに意見をもらいたい。そう思い立ったところにちょうどアリが通りがかったので、声をかけたのだと言う。
「……私がかつて出会ったキリギリスは、アリに届く歌を作り上げた。興味はあるか?」
「教えてくれるのかい?」
「どれほど参考になるかも、どれだけのことをつたえられるかも分からないが。私は、あの歌があの時限りのものになってしまうのは、惜しいと思う」
あのキリギリスの想いが、この出会いをもたらした。それが事実でなくとも、アリはそう思いたかった。
他の誰かに、キリギリスの願いを託すことができる。
「それなら、お言葉に甘えさせてもらおうかな。教えてよ、そのキリギリスがどんな奴だったのか」
あの日のキリギリスを思い出す。脚を傷つけてしまった彼は、なりふり構わずあの場所へたどり着いた。
再開できた瞬間のキリギリスも、今の自分と同じような状態だったのだろうか、とアリは思う。
重荷から解放されたような、ある種の清々しさを彼女は感じていた。
「さて、何から話そうか」
あれほど強かった恐怖はもう、彼女の中のどこにもありはしなかった。
昔から、『アリとキリギリス』の話は好きになれなかった。
小さいころはそれが何故なのか言葉にできなかったけれど、今なら言える。
アリの生き方が正しくて、キリギリスの生き方が間違いであるかのような内容が、嫌だ。
今回この話を書くにあたって、『アリとキリギリス』について調べものをしたが、その際に耳にしたことがある。
元々の『アリとキリギリス』という話の結末は、一片の慈悲も示さないアリに対して、キリギリスが「死んだ自分の体を喰って、次の春も生きればいいさ」と言う、というもの。
短命故に備えられないキリギリスも、弱い個の群れであるが故に慈悲を示す余裕がないアリも、どちらも悲しい在り方だという。
話の真偽は不明だが、この方が好きだ。
「根本的に違う者同士が分かり合う」ということは、奇跡以外の何物でもないと思う。同じ国に住み、同じ言葉を話している者同士でもすれ違う。あるいは「同じだ」という思い込み故に、ずれが生じるのかもしれない。
違うもの同士でも、分かり合って互いを尊重できる。そんなことがあっても良い。あって欲しい。
この作品自体が、そんな私の願い、のようなもの。
最後までお付き合いありがとうございました。