秋から冬
キリギリスは、ある日からアリの前に姿を現さなくなった。「やらなければならないことが出来たから、しばらく来られない」と言い残して。
「歌に磨きをかけて、また会いに来る」とも。
アリは、決してキリギリスの歌が聞きたい訳ではない。最後に聞いたときですら、その良さが理解できなかった。
あの変わり者のキリギリスなら、言葉通りにいつか帰ってくるのではないか。そして、自分があの場所へ行かなかったら、キリギリスは死ぬまで待ち続けるのではないか。
そんな思いから、アリはキリギリスと会う場所へ、機会を見つけては足を運び続けた。
そして秋が暮れて冬も近づいてきた頃、アリはひどく傷ついた姿のキリギリスと再開する。
後ろ脚に傷を負い、胸の下が土で汚れている。跳ぶことはおろか歩くこともままならず、這いずってここまで来たのだろう。
今までどこに、どうしてそこまでして、アリの中にいくつかの言葉が浮かぶ。しかしそれらが口に出される前に、キリギリスの歌が始まった。アリが以前に聞かされたそれとは大きく異なるそれが。
その旋律はアリの中に、「理解できない」以外の情動を発生させる。
懐かしい。
安心する。
そしてそれを認識したことによって、連鎖反応のように心が波立つ。
やったじゃないか。
いったいどうやって。
なぜこんな気持ちに。
耳に届く歌が心を震わせ、歌は心に共鳴しているかのように激しさを増す。音自体は強く大きなものではない。弱ったキリギリスの体相応の強さでしかない、そのはずなのに。今までで一番激しいものに感じられる。
アリの中で想いが言葉に変わる直前に、歌は終わった。
そしてキリギリス自身の命もまた、歌と共に終わった。
突然の再開と、永遠の別れ。その混乱から立ち直ったアリは、二度と動かないキリギリスの骸を前に回想する。
「もしアリさんが冬を越えられたら、俺の歌のことを誰かに伝えて欲しい」
「できるかどうかは分からないけど、お礼はする。いらなくなった俺の体をあげる。もし受け取ってくれるなら、俺の歌を次の季節に連れて行ってよ」
仲間の、あるいは他のムシの死を見届けたのは、これが初めてではない。『いらなくなった体』を拝借したこともある。
頼みを聞くかどうかはともかく、このキリギリスの体も巣に持ち帰らなければならない。冬という季節は全ての生きものに厳しいものだ。生きてそれを乗り越えるためには、手段を選んではいられない。
アリが背負ったキリギリスの体は、これまでに運んだどんなものよりも重く感じられた。
冷たい巣の中で、アリは目を覚ました。
アリの冬眠は眠り続けるものではない。十数日に一度は食事を摂らなければ、永遠の眠りにつくことになる。食料の貯蔵が十分でなければ、冬を越せないアリの数が増えるのだ。
寒さで鈍った体を引きずり、アリは食料庫へと向かう。働かない頭にあるのは、また死から逃れたという安堵。
そして、眠りにつく少し前に看取ったキリギリスのこと。
「『冬』という季節があるんだってね。気になるなぁ、どんな感じなんだろ」
記憶の中での返事が、アリの口から零れた。
「……キリギリス、冬なんて良いものじゃないぞ」