夏から秋
キリギリスは今日も歌う。二本の前脚をこすり合わせて、新しい旋律を生み出していく。
そしてアリは今日も、キリギリスの歌をそばで聞いていた。
「……今日の歌はどうだい、アリさん」
歌い終えたキリギリスは、少し力の抜けた調子で感想を求める。
「いつも通り、としか言えない」
答えるアリの言葉そのものも、いつも通り。
甲殻の奥のどこかにあるはずの、心が動くことはない。
「我々にも響く歌、そんなものが本当にあるのだろうか」
「分からないから、今こうして探してるのさ」
アリは、自身の脚を見つめる。
アリもキリギリスも、耳は前脚にある。キリギリスのような歌うムシの耳は良い。細かな音の違いを捉えられる「歌を楽しめる耳」をしている。位置が同じというだけで、アリのそれとは違う。
彼女自身、これまで生きてきて音を楽しんだことなど無い。
脅威か、仲間か。
益か、害か。
周囲に存在するものが、どちらなのかを知るために耳を使ってきた。キリギリスと出会ってからは、違う。だが彼女には、キリギリスたちのように音を歌として捉えられるとは、どうしても思えなかった。
「……理由を、聞かせてくれないか」
「何の?」
「こんなことをする理由だ。あるかどうかも分からないものを探し続ける、どうしてそんなことが続けられる?」
少しの間を開けて、キリギリスは愉快そうに笑いだす。
「ハハハ。いや、ごめんね。そんなことを言われるとは思ってなかったから」
「どういうことだ?」
つい先ほどまでと何も変わっていないはず。それなのに、アリはキリギリスの中で何かが切り替わったように思えた。
「アリさんはさ、巣の外へ出る時『食べものが必ず見つかる』とか『必ず生きて帰ってこられる』って信じてる?」
「まさか、あり得ないことだ」
この世界はままならないことばかり。アリは今日まで命を失うことなくやってこれたが、明日もそうなるとは限らない。
「だよねぇ。……俺もね、そんな気持ちで毎日歌ってるんだ。この先に、俺が歌いたい歌があるはず、あって欲しい。もし道が違っていたとしても、前に進もうとせずにはいられない」
「……意外だったな」
「何が?」
「そういう風に見られていたことが、だ。他のアリも同じかは分からないが、少なくとも私はそれほど強い動機を持ってはいない」
「そうなの!?」
成果を得て、あるいは成果が無くとも生きて巣に戻ることを望んではいる。だが、キリギリスの言うように「それをせずにはいられない」という程、アリは自身の巣における役割を重いものと見ていない。
同じ仕事をしているアリは、数多くいるのだ。
「一つの巣は、それを構成する無数のアリによって支えられている。私はその中の一つに過ぎない。『せずにはいられない』のではなく、『しない訳にはいかない』のだ」
「いや、アリさん。違いがよく分からないよ」
「自らの強い意志に突き動かされているか、周囲に合わせて動くか。こう言えば分かるか?」
アリがそう言うと、キリギリスは考え込んでしまった。
「他のムシには分からない感覚かもしれないが、アリは『どこへ向かうのか』を女王が決定し、それに従って動く生きものだ。個々のアリがそれを決めることはない」
この言葉が呼び水となったのか、少しの沈黙の後にキリギリスの言葉が続いた。
「アリさん自身の、そういう何かって無いの? 全く?」
「無い」
少なくとも自分には、何も無い。心の中にあるものを見渡しても、キリギリスが言うような強い何かは、無い。
「アリとキリギリスの違いは、思っていたよりも大きいのかもしれない。多分そこのところを小さく見ていたから、今日までの俺はアリさんに届く歌が作れなかった」
「いつになく弱気じゃないか?」
「かもね。でも、燃えてきた。俺が目指していたのは、思っていたよりも高い壁だったみたいだ」
アリもまた、差異の大きさを実感していた。キリギリスが抱いた「燃える」という感覚も、アリには理解しがたい。障害が大きいということは、喜ばしいことではないはずなのだ。
アリは空を仰ぎ、陽の傾きを測る。そろそろ巣へ戻る時間だ。
「燃えているところに悪いが、今日のところは終わりで良いか?」
「おっと、ごめんね」
キリギリスは、演奏中傍らに置いていたタネをアリに手渡した。アリがキリギリスの歌を聞くことを、「巣にとって無益な行為ではない」と言い訳するための材料を。
「次もまた、よろしくね。アリさん」