第一話 魔女先生の初講義
そんなにないけど書き溜め放出です。講義ということで魔術の説明ありです。
レイブリント魔術学院の学生は、基本的には貴族や政治家、企業幹部の子息などの上流階級出身の者が多いのだが、もちろん一般の人間が入学を禁じられている訳ではない。むしろ、帝国は奨学金などの援助を積極的に行い、魔術の普及を推し進めている。
そんなこんなで、魔術の学校にも苦学生というものが存在するのだ。
「……ふっ、白く明るい未来のために、今日も今日とてコッペパン。最早気分は修行僧、武士は食わねど何とやら。食事があるだけマシなのさ」
きっと値段と引き換えに文化という概念を失ってしまったのだろう。手の中のトレイに載せられた、パンと薄いスープという粗末な食事に視線を落とし、魔の物に憑りつかれたように現実逃避の呪文を繰り返す労働者階級出身の少年フレッドは、食堂全体を見渡して空いている席を探した。
全体を見渡すと言っても、平面的に視線を左右に滑らすのではない。前後左右、果てには上下まで、空間全体を把握するように目線を動かすのだ。
帝国からの援助を受けて巨大化を続ける学院は、いつしか、校舎の内部の空間をこねくり回して無理やり容量を増やしたそうだ。おかげで上も下も、自分がどこにいるのかも分からない複雑な構造になってしまったという。
見上げると、数多もの回廊が三次元的に入り組んで交錯しており、そして天井に接着剤か何かでテーブルや椅子がくっつけられたような異様な光景が広がっている。
そんな不思議いっぱいの魔術学院のクセに食堂の拡張は進んでいないらしく、連日席を取るのに一苦労なのだ。
「お、席空いてる。運がいいな」
一つだけ浮いたように空席になっている場所を見つけ出し、すぐさまそこへと向かう。取られてしまう訳にはいかないのだ。
少年がそこで目にしたのは何か白い塊だった。まあ、人っていうのは分かる。古風な魔女のつばの広いとんがり帽子に遮られて分からないが、金色の長い髪がテーブル上に広がっており、女の人なんだろうな、というのは簡単に想起できた。
「あの、失礼しま~す……」
対面席だったので恐る恐る反対側に腰掛けるが、彼女が動き出そうとする気配はなかった。何というか、休眠中の怪獣を目の前にしているような気分だった。
「……一文無し」
「ひえっ」
千切ってスープに浸したパンを口の中に放り込もうとした時、怪人魔女擬きが低く唸るように呟いた。驚いて放り出してしまったパン切れは床に落ちると思われたが、瞬く間にそれは消失してしまった。いや違う。目の前の女が目にも留まらぬ速度で奪取したのだ。
訳の分からない状況に冷や汗を感じながらも、彼女の言葉に耳を貸す。
「……朝から何も食ってないの」
「いや、今僕のパン食べましたよね?」
「……」
しかし、よくよく考えてみればパンくず一つでいがみ合うなど惨めな話である。少年は気を取り直して再びトレイのパンに手を伸ばそうとして、
それが忽然と姿を消しているのに気がついたのだ。
軽くホラーだった。
「いや僕のパン! ていうかスープも!」
そこで彼は気がついた。気づいてしまった。
不自然に空いていたこの席は罠だったのだと。学生たちはこの空席の存在に気がつかなかったのではない。その席で起こっている怪奇現象を目の当たりにして、意図的に座ることを避けていたのだと。
「何このパッサパサのパン、ちゃんとイースト菌入ってんの? というかナニコレ、塩コショウで味付けしただけのお湯じゃん。こんなのがスープっていう名目で売られてんの? 信じられない。さすが魔術の学校ね」
「売り物じゃなくて配給食だよ! というか、一日一食しか支給されない貴重な昼食をかっさらっておいてその言い草か! ぶん殴るぞ!」
「うぅ、ひどい。さっき来たヤツのは美味しかったのに……」
「酷いのはアンタだろうよ、何被害者面して泣きそうになってんの⁉ 泣きたいのはこっちなんですけど⁉ というか朝から何も食ってないって大ウソじゃんか!」
そこで彼女はむくりと起き上がって、真顔でこうのたまった。
「ありがとう、この恩はきっとどこかで返すよ。気長に、そして首をできるだけ短くして待っていてもらえると助かる」
「恩を売った覚えもないしさては返す気もないなアンタ」
今日は昼食抜きだなと、早めに切り替えて彼は席を立とうとした。その時だ。「待って」という言葉とともに、線の細い手がフレッドの手首を掴んだ。
心臓が跳ねるのを、彼は確かに感じた。
女性に手首を掴まれる。それ自体は何度も経験していることだ。腐れ縁の少女に強引に腕を引かれて何度も酷い目に遭ったものである。
しかしだ。今回のケースは何だ。
図式的に、彼は行き倒れの可憐な謎めいた少女に食事を与えたということになる。そんな少女に腕を掴まれ、極めつけに立ち去るのを制止しようとする言葉。
帽子の陰から上目遣いの表情を覗かせた。まじまじと眺めると端正な顔立ちで、咄嗟に視線をそらしてしまう。
心臓の音が鳴り止まない少年の耳に、可憐な唇から彼女の声が滑り込む。
「このことは内緒だゾ」
少年は魔女の細腕を振り払った。
「はあ、酷い目に遭った……」
することもないので午後一発目の講義室に早々に来てしまったが、色々な意味で腹の虫が治まらない。何とか気を紛らわすために教科書とノートを開くも、時たま空腹を自覚するたびにあの太々しく、厚顔無恥な魔女のことを思い出し、腹が立ってくる。
だが、あれは誰なんだろう、という気持ちもない訳ではなかった。教師というには若すぎるし、学生というにも腑に落ちない。
思考の堂々巡りは見知った顔が到着するまで止まなかった。
「どったの、下町のおじさんみたいな顔して。何か分からないところでもあった? 何なら一緒に考えてあげるよ!」
そう言って、こちらを覗き込むのは幼い頃から何かと付き合いの多かった少女、レスティナだった。笑顔が絶えず元気で明るい。まるで子供の標語のような少女だが、彼に言わせてみれば、勇んで蜂の巣を素手でつつくようなトラブルメーカーである。学院でできた友達と一緒に食事をしていたみたいだが、解散して戻ってきたのだろう。
幼馴染というのは普通の友人とはどこか違う気がする。良いところも悪いところも、気心もすべて知ったうえでそのまま受け入れているので、他人から親しくなったというよりも、家族の延長線という感覚が強いのだ。
「まあね。変なのに絡まれたんだよ、君も気をつけた方が良い。白い魔女みたいな格好をした女なんだけど、そいつと相席すると飯が消えるんだよ。怖いだろ?」
「さっきそんなこと言ってたのがいた気がするけど、フレッドも被害に遭ったの? 本当なんだ、アレ。おもしろ。そんなんやっつけて取り返しちゃえばいいんだよ!」
「簡単に言ってくれる……。それができたら苦労しないんだって」
「よおフレッド。今日も配給メニューだったのか? あんなもんずっと口にしてよく飽きねえな」
「食べたくて食べてる訳じゃないさ。というか今日は食べられなかった」
「だよな、たまには別のもの食べたいよな」
「違うよ、フレッドは愚かにも今日食堂から出てきた人たちが噂にしていた白い魔女の罠に引っかかったんだって」
「まじ? あれ本当だったの? こっわ」
友人たちも続々と集まり、取り留めもない雑談で時を浪費する。少年の生活は貧しくも、潤っていた。しかし、腹の虫も鳴りを潜めて、やっとぶつけようのない怒りが収まってきた時、ヤツはまたもや姿を現すのだ。
それは、学生が出揃って、講義開始のチャイムが鳴って少し経った後のことだった。
「やあ、新任講師の魔女先生だよ。以後よろしく。質問は受け付けるが、それ以外は面倒だからスルーするんでそのつもりで」
白いつば広のとんがり帽子に、白いマントのようなコート。それらを身につけた謎の少女が講義室に侵入してきた瞬間のこと。
間延びした声。明らかに同年代としか思えないその小さな姿は、百人近くを収容可能な講義室に困惑の波紋を呼び、それはざわめきとなって伝播する。
「ちょ、アレ、僕の昼食を持っていった……というかあの人って新任講師⁉」
「まじ? あの人なんだ」
「つーか子供じゃね?」
フレッドの周囲ではただのほほんとした笑い声が零れるだけだったが、問題だったのは名門の貴族の息子と噂されるロイ、そしてその取り巻き連中だった。
この場にいる人間の中でも特にプライドが高く、また、権力という後ろ盾があるからだろう、教師に反抗的な態度を見せることも多い。それを恐れてか強くものを言う者もいないために、その性質を助長させてしまっている。いわゆるボンボンの困ったちゃんであった。
「おい、この学校は俺たちの足元を見ているのか? どう考えても教壇に教団に立ってものを教える立場の人間じゃないだろうが!」
怒鳴り声に、講義室内は水を打ったように静かになる。しかしだ。確かに……と。フレッドを含め、ロイのことをあまりよく思っていない学生ですら、彼の物言いを否定せず、むしろ肯定してしまう思いであった。それに加えて、初日から早々学生の昼食を貪り食っていたという嘘のような噂も、フレッドの件で証明されてしまっていた。
彼女のスタートは芳しくない。
しかし、暗雲のように立ち込める疑念の空気など意に介さず、白い魔女は悠然と教壇に上がり、堂々と教卓に肘を突く。
「えーおほん。私が君たちに教授するのは、つまり実践です。理論は他のところでやってるらしいから実践をやってくれって学院長に頼まれました。多めにコマ数貰ったんで、マイペースにやっていくことにしまーす。……ハァ、この喋り方怠いな、やめよ」
ロイの主張などそよ風程度にすら感じていない様子で一方的に喋り出す魔女を見て、彼は頭に血を上らせたらしい。額に青筋を浮かばせて掌を机に叩きつけた。それでも魔女の注意が自分の方に向かなかったのに業を煮やし、終いにはずかずかと彼女の方へと降りていく。
「俺を無視してるんじゃねえよ、このやろ――」
そして教壇上に至る最後の一歩のところで、彼は届かなかった。
謎の力に阻まれたかのように、彼は突然床に倒れ込み、喉を抑えて息苦しそうにもがき喘ぎ始めたのだ。不遜で、しかし誰よりも強くあろうとしていた少年が呆気なく床に伏し、死にかけの虫のようになっていることに、恐怖すら感じる暇もなく、誰もが思考を停止させてしまっていた。
「か、は……だれが、だ……すげ、て」
その酷く弱々しい声に突き動かされて、ようやく取り巻きの学生たちが慌てて彼の元へと急いだ。見ると、普段の豪気な面立ちが、今となっては血の抜けたように青白くなってしまっている。習いたての回復魔術でどうにかしようとしても何もならない。
取り巻きの一人が叫ぶ。
「教師が学生に呪詛を放って良いとでも思っているんですか⁉ 大問題になりますよ!」
口調は荒げながらも敬語だった。格の違いを悟り、少しでもその心を荒げないよう、少しでも気に触れないようとする姿勢。まさに、災いをもたらす神に相対したような態度。それがすべてを物語る。
その時まで、大きな黒板に背伸びをして文字を書く魔女の表情は見えなかった。だが、やっと振り向いたその時、彼らは本当の恐怖というものを知ることになる。
笑っていたのだ。
「良い質問だ、名前知らないからそこのヤツ。そこの無駄な回復魔術を連発しているヤツらもよく聞いておけ」
無表情という訳でもなければ、怒っているのでもない。趣味の話でもするかのように、本当に屈託のない笑みを浮かべて、講義の一貫だとでも言うかのような話し方をするのだ。
彼女は本気で質問だと思っている。
目の前の人間は、理解の範疇を越えている。
「最初に言ったのはもちろん覚えているだろう? 私が担当するのは実践だと」
「そ、それがどうしたって言うんですか」
「ただの風の魔術の応用だよ、こんなの。呪詛なんて扱いにくいもの使う訳がないだろう。そんなのやってるヤツは大抵ろくでなしさ。それと、理解できないものに取りあえずラベルを貼るのは減点だ。後で名簿の確認しなきゃいけないらしいからその時に記録しておいてやる」
そして教壇を下り、苦しむ少年の下へと近づいた。その後、徐に取り出したペン先にガラス球を取り付けたような形状の小さな魔杖で、降りてきてしまったことで実験台に選ばれた少年の身体を指し示す。
「冷静に見ろ、脈拍と呼吸の増加、そして青白くなった顔色。ただの窒息だよ。君たちが最初に学び始めるとかいう元素魔術でできることだ。これは君たちの理解が追いつく程度の魔術に過ぎないんだよ。そして理解できれば中和もできる。判断ミスで誰かを死なせたくない軍隊志望の人間は理解できる魔術はすべて理解しておくのを勧めるぞ」
回復魔術に勤しんでいた学生はそれを聞くなり、魔術の中和に入った。すると、みるみるうちに症状が引いていき、身体に活力が戻っていくのが見て取れた。だが、レベルとしては死ぬ直前だった。やはりこの魔女はどこかおかしい。
彼らがホッとするのも束の間、魔女は軽いステップで再び教壇に上がり、黒板への書き込みに戻る。不慣れであるようで、あまりスピード感はないが、描く図形の形だけは丁寧だ。
「そして元素魔術とは何だ。まさか火、水、風、土、それらそのものを直接的に操る魔術だと思い込んでいる愚か者はいないだろうな」
正方形の四つの角を中心とした、赤、緑、青、黄の円。そしてそれぞれの円の中には火、風、水、土の意味を表す言葉が書き記されていく。
誰かが思い出したようにノートを取り出し図形を写し取る。それを皮切りに、波が広がっていくように、続々と面構えを変えた者が増えていく。体調が良くなり、席に着いたロイも大きな流れに抗わない。
基本的に、魔術学院の学生は真面目で努力家だ。知識に対して貪欲で、相手が誰であろうと学ぶ姿勢を決して崩そうとはしない。彼らは見方を改めただけだ。この少女は本当の魔術師であると。
「四元素とは、いわゆる物質を物質の状態で固定しておくための霊的な力に人間が与えた呼称だよ。元素と呼ぶからややこしくなる。四種類の力とでも呼んでおけ。君たちが炎を出したり水を浮かせたりして喜んでいるのは、ただ表面をなぞっているだけだ。そんなのは愚の骨頂、笑止千万、本質にはまだほど遠い」
彼女は続ける。
「本質は物質を支える力。あらゆる現象を魔術的に分解した末に残るもの。そしてこれらは互いに変換することができる。これがいわゆる錬金術と呼ばれる技術体系。今のところ未開の分野だそうだから、我こそはというパイオニアはどうぞそちらへってね」
そこで一旦話を区切り、百人弱の学生へと向き直る。もっとくれ。まだ足りない。そんな突き刺すような視線を感じる。正直言って、ソフィアという魔女にとって学生などどうでもいい存在だ。一年経てば契約が切れて関係が切れる程度のものでしかない。
思い出していたのは一人の魔術師だった。彼女に魔術の知識を詰め込むだけ詰め込んで、ふっとどこかへと消えてしまった魔術師の姿を想起している。その面影を追っているのか、彼女にも分からなかった。
まあでも、人気者になれば学院長は給金をはずんでくれるだろうと、そんな邪な思いを胸に、彼女は不敵に笑う。
「私が教えるのはこういうものだよ。精々頑張ってついてくることだね。そういう訳で、これから一年間、よろしく。教師をするなんて、恐らく私の人生初で人生最後だよ。光栄に思うがいいさ」
こうして、歪んだ白い魔女の初講義は大成功に終わることとなる。