相撲に関連する作品(相撲小説「金の玉」「四神会する場所」シリーズは、別途でまとめています)
力士 貴乃花光司論 我が行くは前人未到の境地
貴乃花が引退したときに書いた文章です。
筆者の推定に基づく部分がかなり含まれた文章であることを特にお断りしておきます。
貴乃花が引退したすぐあとくらいに書いたものです。
貴乃花が異例のスピードで昇進していった時期、私は驚異の思いで、彼を見ていた。
年齢も考慮にいれれば、奇跡的な昇進スピードであったというしかない。
さらに、人気大関貴乃花の次男、という境遇。
兄若乃花、後年のライバル曙との同期入門。
さらには、父貴乃花と千代の富士の関わり。
その千代の富士と、生涯唯一の対戦で勝利し、
(初日というのもよかった)事実上、引退を決意させた。
そして十九歳で、初優勝。
その優勝賜杯を伯父である二子山理事長から受ける。
今、こうやって書き並べてみても大変な、フィクションの世界でしか思い描けないような ドラマチックな背景のなかで、ドラマチックなことを次々に実現させていた力士だったのだな、と思う。
彼が番付を駆け上がっていく時期。私は興奮した。
大変な力士と出会った。
そう思った。
その取り口は、相撲の王道をいく、本格的なものだった。
私は、貴乃花は空前絶後の、史上最高の力士になる、と思っていた。
そして前人が到達しえなかった境地まで昇りつめる力士である。そう思った。
なぜ、そう思ったか。
彼は人気大関を父として、相撲部屋に生を受けた。
史上 幾多の強豪力士が存在するが、貴乃花は誰よりも相撲を始めた時期が早い。
彼の体には土俵というものが、しみこんでいる。
モーツアルトの例をひくまでもなく 、そのジャンルにおいて、真に天才であるためには、幼少時よりそれを始めていた、ということは実に大きいことと思う。
むしろ、そうでなければ、真に天才足り得ないであろうとさえ思う。
また、いかに才能に恵まれていたとしても、その道に対する志の高さがなければ 、天才もあたら才能を空費するしかない。
伝え聞く若貴の幼少時代。父の相撲が始まっても、兄の勝少年は自分がそのときやっていた遊びをやめることはなく、チラッと画面を見るだけであったが、光司少年は、正座して画面を凝視し、父を負かした輪島に対して、
「大きくなったら、僕がかたきを取ってやる」
と叫んだそうだ。
貴乃花にとって相撲は物心がついたときから、特別なものだった。
あれもあって、これもあって、そして相撲がある。
そのようなものではなく、ただ相撲だけが特別なものだった。
ハングリー精神は物事を達成するにあたって大きな原動力となる。
しかし、それ だけでは、あるレベルの成功をおさめ、ハングリーと無縁になった時期に、その成長は止まる。
ある分野で最高の境地まで到達するには、その道を究めようとす る志の高さが不可欠であろう。
例えば、大鵬は、千代の富士は、伯父の若乃花は、兄若乃花は、力士として最良のプロ意識をもっていたと思う。
しかし、貴乃花の相撲によせる思いはそれとは次元が違う。
貴乃花にとって相撲は、極めるべき道だったのだ。
双葉山も相撲を同様にとらえていた。
が、彼がそう志したのは 入門後である。
貴乃花は少年時代、もしかして幼年時代からそのことを志してい たのだ。
彼は支度部屋において、ほぼ無口なままでその相撲人生を通した。
また、後輩に稽古をつけることに熱心でもなかった。
それは、彼にとって関心があったのは 、おのれのみであったことに拠ると考える。
この相撲という道で、自分をどこまで高めることができるか。 どの高さまで到達することができるか。
それだけが彼の関心事であり、他人の相撲に対して、本質的に興味はないのだ。
平成7年だったと思うが、彼は雑誌「大相撲」に対して自分の相撲を、自分がどういうものを目指しているかを語っている。
それを読んで、私は
「この人は、やはり大変なことを考えている。大変なものを目指している」
と感じた。
だが、 私が知る限り、彼が自分の目指すべき相撲について、かくも饒舌に語ったのはあの時だけだったと思う。
引退直後も様々なメディアで、彼は自分の相撲を語ったが、本当の心の奥底までは語っていなかったのではないか、という気がする。
そのような精神の裏づけの元、彼の土俵態度は終始一貫、淡々としたものだった。
しかし、その彼が土俵人生において、唯一、仕切っている間から闘志を剥き出しにして勝負に臨んだことがある。
何場所も続けて負け、どうしても勝てなかった時期の曙に対してだ。
それまで、貴乃花が
「この人には勝てない」
と感じなければならない力士はいなかった。
たとえ今は力で劣っていても、いずれは自分が上回る。
その彼の信念がゆらぐ力士は存在しなかった。
しかし、この時期の曙だけは違った。
「この男は・・・」
貴乃花は思う
「自分がこれまで培ってきたものは、この男の圧倒的な体格とパワ ーには通用しないのか」
しかし、その時期を過ぎ、自分が曙をも上回ったことがわかったとき、貴乃花は曙に対しても他の力士同様淡々と仕切るようになった。
若貴の兄弟による優勝決定戦。その結果と評価については巷間伝わるとおりである。
この決定戦については、私はこのように考えている。
部屋における稽古により、さらに相撲における思いにより、貴乃花は、自分と若乃花の間には、強さにおいてはっきりと差がある、そのことが分かっていた。
そして、そのことは若乃花にも分かっていた。
そうであるなら、土俵の上での白星 、黒星など、貴乃花にどれほどの意味があるであろう。
もし、若乃花が貴乃花にとって
「勝ちたい」
と思わせる力士であったら、貴乃花は、たとえ兄弟であっても、もしかして生涯唯一になるかもしれない機会を逃すことはなかった、と思う。
あの優勝決定戦のあと。優勝したにもかか わらず、若乃花の表情はすぐれなかった。それは、結局、自分は貴乃花に「勝ちたい」と思わせる力士ではなかった、という ことをあらためて知らされたからではないだろうか。
さらに言えば、自分と兄若乃花では、相撲において目指しているものが違う。
この貴乃花の意識がのちの、兄弟不和の騒動につながっていったのであろう。
貴乃花の相撲の頂点は平成6年の秋場所と九州場所。その2場所であったと思う。
パワーで圧倒する雷電。太刀山の一突き半の突き出し。
栃木山の筈押し。
伝え聞く強豪力士の相撲は色々ある。
しかし、このときの貴乃花の相撲は何だろう。
淡々とゆったりととる。
下半身はくずれない。
対戦相手は一生懸命に動いている。
貴乃花は動かない。
しかし、いつの間にか、相手は土俵際まで下がっている。
その相手を貴乃花はそっと、いたわるように土俵の外に動かす。
隔絶した力量の差がなければ、このような相撲は取れない。
「なんなんだ、この相撲は」
私は背筋が寒くなった。
この男はなんという相撲を取るのだ。
貴乃花の相撲だけは正座して見なければならない、
私はそう思った。
一流の芸術は、それにふれる者に大きな感動とともに、大変な緊張を強いる。
もしかして伝え聞く双葉山がこのような相撲を取ったのかもしれない。それも69連勝の時よりも強さにおいてさらに増していた、と云われる4連覇当時の双葉山だ。
だが、そうだとすれば、双葉山が30歳にして到達した境地に貴乃花は22歳にして到達してしまったことになる。
さらに付言すれば、双葉山は、幕内力士の平均体重が100kgそこそこであった時代に130kgあった。
一方貴乃花は平均が150kg台であった時代において、当時140kg強であったと記憶している。
その九州場所の千秋楽。
曙に対してだけは、さすがに上記のような相撲は取れなかった。
その相撲は、貴乃花ー曙戦の中でも、最高の名勝負であったと思う。
しかし、その相撲においても貴乃花の下半身に乱れは感じない。死力を尽くすことを100%とするなら、曙の猛攻を全身で受け止める貴乃花の、その下半身には、まだ1~2割の余裕があった、と感じる 。
平成6年九州場所後、貴乃花は横綱となった。
私は
「貴乃花はもう負けることはないのではないだろうか」
次の初場所が始まるまで、そのような思いが頭から去らなかった。
新横綱の初日に武双山に負けた貴乃花は、私の予想とは違ったが、平成8年までは、超一流の力士としての成績を残していた。
その時点までは、空前絶後の力士になるという可能性はあったろう。
しかし、貴乃花に、あの平成6年秋場所と 、九州場所の相撲が戻ることはなかった。
引退した今、相撲史において、貴乃花の強豪としての評価を位置づければ、上には相当多くの力士がいる。
近年の大力士、大鵬、北の湖、千代の富士と比較しても、その残した生涯成績は、はっきりと下回る。
今、私は思う。たかだか22歳で、あそこまでの高みに到達してしまったゆえに、貴乃花の強さは長期的なものとはならなかったのだ、と。
持久力に結びつけるためには、その強さは最高の位置から少し下がった位置に留まることが必要なのであろう。スポーツに限らず、歴史の様々な局面がそれを教えてくれているように思う。
最高を極めたとき、下降が始まる。
貴乃花光司は、2場所30日間という時間の中において、空前絶後の力士だった 。
追記:
平成13年夏場所千秋楽。貴乃花は膝の故障をおして武蔵丸との優勝決定戦に臨み、勝利した。
鬼神の形相をのこして。
それは貴乃花の最後の優勝であり。この名力士の最後の栄光にふさわしい、語り継がれるべき名場面だ。
しかし、そこには、自らは動かずして相手を動かす。静かなる絶対者は既にいなかった。
貴乃花は死力を尽くして勝利したのだ。