12.ミネルバ婆さん
俺は〈天駆ける駿馬亭〉の椅子に座り、思い出していた。
エタクリの主人公たちの中で、リチャードだけは正式なパーティー加入の前に前日譚となるエピソードがあり、そちらがリチャードの初登場なのだった。
エタクリ時間で『村人A』やエマが初登場する五年前、まだ少し若かったリチャードが一人で依頼をこなすシーンがある。
それをプロローグに、五年後、エマとリチャードの冒険が始まるはずだったのだ。
俺が転生した『村人A』も、実は少し若かりしリチャード・ハンクスに似せた姿になっている。
そうして、プレイヤーが村人Aをリチャードだと勘違いしていたら、実は……
という展開になる予定だった。
女神も、ゲーム内での初登場の時点まではアクターの運命をいじくるなりして面倒は見てくれたんだろう。
そこから先はアクター達の自由意思に任せ、それでこうなったんじゃなかろうか。
「お、女遊びが好きだなんて設定、作らなきゃ良かった……」
後悔先に立たず。
ゲームの世界じゃ通用しても、元の世界でいう近世程度の文明レベルの世界だと、派手に遊んでいれば性病が原因で命を落とすことも、当然あり得るわけで。
「まずいぞ。リチャードがいなかったら、パーティーに壁役がいないってことになる。それじゃ、あいつらは物語の終わりまで絶対たどり着けない」
俺はデータベースを開き、『キャラクター』の項目の名前一覧から、リチャードの詳細情報を呼び出した。
「あぁ。やっぱり、本当だ。備考欄に【死亡】って書かれてる。……しかも、復活もできないのか。くそ。何のためのデータベースだよ!」
何度も備考欄の【死亡】の文字を消そうとしたが、無駄だった。
データベースの力じゃ、歴史の改変は出来ないらしい。
「チィ?」
自分の太ももを叩いて悔しがる俺を、オフィーリアが心配そうに見上げる。
「心配してくれてるのか? ……ありがと。オフィーリア。でも、俺もう、どうすりゃいいのか分かんないよ」
「おい、あんた! 何も飲まず食わずで、そこにずっと居座るつもりかい? 金はあんのか。冷やかしなら帰っておくんな」
落ち込んでいたら、つけひげの女店主ドリューに怒られてしまった。
金か……
まぁ、データベースがあれば金には困らないだろうけど。
住むところなんかも、これから考えていかなきゃいけないだろうな。
俺がぼんやり考えていると、ドリューが言う。
「ったく。そんな落ち込むなんて。リチャードのやつ、本当に慕われていたみてえだな……。なぁ、あんた。金がないならちょいと頼まれてくれねえか。駄賃ぐらいなら払ってもいいぜ」
ドリューなりに、心配してくれているのかも知れない。
俺も『あるイベント』が起こるまでしばらくはパンクラツで暮らしていく予定だから、町の人とも友好な関係を築いておきたい。
「まぁ、急ぎの用もないですし、いいですよ」
「そうか。すまねぇな。……何、頼みっつうのは届けもんだ。実は、リチャードが時々気にして、様子を見てやっていた婆さんがいてな。最近、具合がよくないっつうんで、たまに薬を届けてやってるんだ。あいつの遺言でもあってよ」
「あぁ、ミネルバ婆さんか」
「なんだ、知っていたのか。なら話は早え。門を出て壁沿いを左に行くと、町に注ぎ込むタペンス川の取水口に突き当たる。婆さんの家はそっからしばらく上流に行ったところだ。婆さんに受け取りのサインを貰ってきてくんな。駄賃は……そうだな、15トネルってとこでどうだ」
「分かった。行ってきますよ」
この世界は貧富の差が激しく、庶民向けの商品は驚くほど安かったり、物々交換が基本だったりするのに、上流階級向けの商品は目玉をひんむくほど高い。
そのため元の世界とは単純に比較できないけど、まぁ、1トネルは大体百円ぐらい……の設定。
15トネルもあれば素泊まりの木賃宿に一泊でき、ついでにパンや串焼きぐらいなら食えるかもしれない。
お使いにしては破格の金額だ。
俺は門を出て、言われた通りにタペンス川をさかのぼった。
このまま丸一日歩き続ければ、さっき復興したタペンス村にたどり着くはず。
だが、それよりだいぶ手前、三十分も歩かないうちに俺は目的の家を見つけ出した。
「お、あれかな? あの屋根の形、見覚えがある」
丁字の形の家が、広大な麦畑の中にぽつんと建っている。
「あの~。すみません、〈天駆ける駿馬亭〉のドリューさんから言われてきました」
すると、無言でドアが開く。
「こんにち……あれ? いない」
ドア先で戸惑っていると、服のすそを引っ張られた。
目線を下げる。
そこにいたのは、六歳ぐらいの少女だ。
猫の耳の少女はくりくりの目を見開いて、俺を見上げている。
「あっ、さっきの」
さっき、ドリューの店ですれ違った少女だった。
「お薬を持ってきてくださったのね。タビー。お客様を中へお連れして」
「ん」
すると、中から優雅なご婦人の声が聞こえた。
タビーと呼ばれた猫耳少女は俺の服のすそをつまんで、中へ引っ張っていく。
耳と尻尾以外はほぼ人間なのだが、ふと前髪が揺れた瞬間に、おでこのあたりまで産毛が生えて、うっすら虎模様になっているのが見えた。
なお、これは微妙な政治的配慮を要する問題なのだが、タビーちゃんの耳は人間の耳のあたりに付け根があって、そこから大きく上向きに耳が生えている。
つまり、猫耳少女の耳は二つなのだ! 少なくとも、この世界では。
「あ、あの。ミネルバさん……ですよね?」
「ええ。……タビー、ありがとね。そう、私がミネルバ・スミスよ。さぁ、こっちへいらっしゃい。お薬をいただこうかしら」
ミネルバさんは気立ての良さそうなご婦人だった。
だが、タビーちゃんのほうは俺はまるで設定していない。
元となった『エターナル・クリエイション』にはいないキャラ……いや、『人間』だ。
「あの、この子は……?」
「タビーかしら? 可愛いでしょう。お母さんが病気で亡くなってしまって、孤児だったそうなの。リチャードがどこかから拾ってきて、私に預かってって頼むもんだから、引き取ることにしたのよ。リチャードに、ずいぶん懐いていたんだけどねぇ」
そこには、俺の知らないリチャードの『人生』があった。
俺にとってのリチャードは単なるゲームのキャラクターだが、タビーちゃんにとってはそうではないんだ。
なんだか胸騒ぎがした。
と、その時、俺の脚の後ろから、オフィーリアがひょっこり顔を出す。
それを見たタビーの耳がぴくんと立った。
「あら、可愛い。そちらの子は?」
「オフィーリアって言うんです。そうだ、オフィーリア。タビーと遊んであげてよ」
俺がそう言った瞬間、タビーがオフィーリアに跳びかかった。
間一髪、オフィーリアが避ける。
ああ、そっか。
猫とネズミか。
「オフィーリア、魔法は使っちゃダメだからな」
「チチ、チイイイイイイっ」
脱兎のごとくならぬ、脱鼠のごとく家から逃げ出すオフィーリアを、目を爛々と輝かせたタビーが追いかけていく。
二人の姿が麦畑の向こうに消えたのを確認して、俺はミネルバさんに言った。
「リチャードのことを、聞かせてもらえませんか」