第1話 第一章 ―日常崩壊― 1
第一章 ―日常崩壊―
教室の中に、ひたすら文字を書き続ける音だけがしていた。ある者はその出来栄えに満足して自ら口の端を歪め、ある者は頭を掻き毟って唸っていた。その三十人ほどの個性溢れる者達は、只今ある一つの目的のために全員の心が一致している。
単純だ。単に学期末のテストなのだ。『良い点数を取る』。これだけが今、皆の心にある目標だ。
誰かの鉛筆の芯が音を立てて折れた。その音に彼女は反応し、ちらっと教室の反対側を垣間見た。綺麗な、全くいじっていないストレートの黒髪をし、メガネをかけた男。真面目な男だ。 普段はメガネはかけていないが、あまり視力が良くないらしく、勉強する時やテレビを見る時などはかけているらしい。彼は折れてしまった鉛筆にイラッときたのか少々睨み付けると、すぐに代わりの鉛筆を机からひとつまみして文字の羅列に向かうのだった。
――海斗君、ガンバってるね。
彼女は笑顔で男の名前を心の中で呟くと、再び窓の外に視線を走らせた。年の瀬も迫った十二月二十三日の今日。早く学校終わらないかなという風に上の空で、彼女は寒空を見続けるのだった。寒空の中、スズメが一匹飛んでいた。元気に。
彼女の得意な国語のテスト。どうやらさっさと終わってしまったらしく、今は終わるのを待ってひたすら外を眺めている。
綺麗な字で答案が綴られていた。名前の欄には、『神崎 陽詩』とある。彼女の名前だ。親は『温かな陽の当たる太陽の子』、という考えで付けた名前らしいが、いかんせん凝っている当て字の漢字で、平仮名で読み仮名を添えねば大抵の人は間違えて彼女の名前を読んだ。『ひうた』とか『ひし』とか『ようし』とか。同じ『ひなた』なら、素直に『日向』と書いた方が間違えないでもらえるとは思うが、漢字がイマイチ可愛くないと親は思ったらしい。
――明後日のクリスマス。イヤだな、またあの日が来る。
とその時、ようやくテスト終了のチャイムが鳴った。皆は、一気に疲れと開放感に襲われ、騒ぎ始める。
「ねぇひなひな、どうだった?」
ひなたの後ろの席に座っている女が声をかけてきた。
「まぁまぁかな、赤点にならなきゃいいし」
「いいわねー優等生は。私なんか必死になんないと補講だわ」
彼女は『杏条 沙鳥』。ひなたと小学校からずっと一緒のクラスで上がってきた親友。彼女もまた名前の漢字名があまり気に入っていないらしく、普段は平仮名で名前を名乗っていた。『杏条さとり』と。さとりは足を交差するように組み、欠伸を漏らした。
「はー、勉強ってストレス溜まるぅ。こんな日はアレに限るわね。ひなひな、帰りに寄っていきましょ」
「ま、また今日もー?」
「いいじゃない、ほら他の子も一緒に巻き込んでパーッとやりましょ! 明日から冬休みなんだし。ちょっと暴れても大丈夫大丈夫」
さとりは元気な声でテストを回収していた子に声をかけた。
「エリカ、帰りにあそこ遊びいきましょ」
「いいよー、ちょっとプリント片付けてからね」
さとりが帰りに寄っていくアレと言っているのは、ゲームセンターの事だ。彼女は昔からストレスが溜まると一人ででもゲームセンターに行っている。大きなぬいぐるみが景品のクレーンゲームと、画面に向かって銃の形をした物を撃って進むガンシューティング物が大好きだった。女の子にも関わらず。
ゲームなどが特別得意でもないひなたには、少し苦痛な時間だった。同じ屋根の下に住んでいるとは言っても、元々血が繋がっているわけではないのだから、趣味が似ていなくても不思議ではない。
ひなたはある理由から、戸籍上はさとりの義理の妹という事になっている。中学一年に上がる時に養子縁組をし、以来同じ家で一緒に住んでいるのだ。
いつの間にか、担任の先生が教壇に立っていた。体育の先生であり、その証拠にガッシリとした厚い胸板に、頼りがいのありそうな小麦色の肌をしている。
先生は教卓の端を太い両腕でつかみ、言った。
「明日から冬休みになる。あんまり遊びすぎて、警察のお世話になんかなるなよ。いいな、そこの杏条沙鳥さん」
「先生、なんで私を名指しするんですかぁ?」
明らかに面白くない様子で、さとりは眉をぴくつかせて反論した。からかう男子も数人いる。
「お前が一番、このクラスでハメ外しやすいからだ!」
どうやらさとりのお転婆ぶりには先生も頭を焼いているようで、やれやれと言った様子で黒板に向かって体を返していた。何かを書いている。
ひなたの目には、あまりその様子は映っていないようだった。先ほどのテストの最中から考えていた、クリスマスの事が頭から離れていないようだ。
苦い思い出。ひなたの人生の、最初にして最大のトラウマ。ひなたの誕生日は十二月二十五日。三月十四日のホワイトデーに仕込まれたのではないかと噂される、いわゆるクリスマスチルドレンである。
十三年前の十二月二十五日。神崎陽詩、当時三歳。彼女はその日、東京ユニバーサルランドという、世界的に有名な遊園施設に居た。大好きな母親と一緒に。
ひなたの母親は、昔からユニバーサルランドが大好きであったという。そこのマスコットキャラの猫は、ランドを代表するキャラクターであり、特に人気がある。ひなたの母は毎月一回は仕事の合間を縫って、一人ででも東京ユニバーサルランドへ遊びに行っていた。そして母親の影響を受けるように、ひなたも自然とユニバーサルランドを好きになっていった。
クリスマスバージョンの、『小さな世界』の音楽が流れ続けるアトラクションに乗り、ひなたは人形の踊りが怖く思えて泣いた記憶があった。だが外に出るとそんな事はケロッと忘れ、母親と二人で小さな世界を大声で熱唱した。
その日は、穏やかな粉雪がユニバーサルランドを白い世界に変えていた。それが幼い日のひなたには本当に夢の国に思えて、幸せを感じて、園内の街灯の明かりが幻想的に輝いていて――。いつまでもその景色が続くと思えていた。
お土産に、ひなたの母は『何でも好きな物を買ってあげる』と言った。ひなたはショップで一番大きな、マスコットキャラクターの猫のぬいぐるみをねだった。今となっては、結構な値段だったろうと思えた。だがあの時の母は、それを躊躇いなく、まるでひなたの笑顔を見たいからとでも思えるくらいに、気前良く買ってあげたのだった。
ひなたは喜んだ。飛び跳ねて喜んだ。大きくて車に積めないから、後日家に発送という形になった。ひなたは帰りの車の中で、「早くミッケちゃん来ないかな」と母にしきりに嬉しそうに言った。
母は、本当に嬉しそうな顔をしていた。口で語りはしなかったが、連れてきて良かったと、表情でそう言っていた。
その日の深夜ひなたが眠った後に、ひなたの母は忽然と姿を消した。母の帰りを待ちながら、届いた猫のぬいぐるみを抱き締めた。だが、待てども待てども、母は二度と姿を見せる事は無かった。まるで、猫のぬいぐるみが唯一残った母の形見だとでも言うように。それは大事に、今でもひなたの自室に飾り続けてある。
――やっぱり、思い出すんじゃなかった。
ひなたはふと我に返る。杏条さとりはまだ喚いていた。何だかんだ言って、彼女のエネルギーには普段からひなたは助けられていた。ひなたはあまり活発な子ではない。勉強はそこそこ出来るが、運動神経も並である。精神的にも未だに不安定だ。
ひなたはどこか自分の世界に入り込んだように、さとりの勧めるままに美容室で染めた赤紫に近いカシスレッドの肩甲骨までのロングヘアを、可愛らしいピンクのフレームの手鏡を見ながらとかしていた。まるで嫌な思い出を早く忘れようとしているかのように。
「ひなひなとデートしたい人、この指とーまれぃっ」
突然人差し指を突き出す。ひなたの事をダシにふざけるさとり。
「え? ちょっとさとり!」
先ほどまで話に興味無さそうにしていたひなたは、ドキッとして振り返った。
「マジで? デートしてーなー。よし俺一番乗り!」
立ち上がって本当にさとりの指に止まる男達。
「おれも、おれも!」
「神崎さー、誰とも付き合ってねえんだろ? だったらオレと付き合おうぜ。オレ、マジで絶賛彼女募集中なんだよな!」
「そんな事言ってるから彼女できねーんだよ、バーカ」
ふざけた男子達は止まらない。あっという間にさとりの指は何人かの男子の手で埋まってしまっていた。これではひなたに群がっているのか、さとりに群がっているのかまるで分からない。だが男子の様子からしてひなたを持ち上げているのは間違いない。
「ちょ、ちょっと……」
クラス中の男子からひなたをもてはやす声が上がってゆく。彼女は普段からあまり積極的な女の子ではないが、校内ではかなり人気があった。それもそうだ。今年の文化祭、友達の勧めでたまたま参加してみた歌姫コンテストで、彼女の得意のバラードを歌ったら優勝まで行ってしまったのだから。噂は噂を呼び、アイドルと呼ぶ者も出てくる始末で、一時期は一種のお祭り状態にまでなったほどだ。
「ま、また今度ね! ゴメンね」
これ以上もてはやされていると、クラスの女の子達を敵に回しそうなので逃げておくひなた。確かに、彼女は見た目だけなら女優にでも何でもなれそうな貫禄があった。まるで、おとぎの世界から飛び出してでもきたヒロインのような顔立ちをしている。大きくぱっちりとした幼さを残した瞳に、おしとやかさを感じさせる小さな唇。化粧などしていなくても色白で、ほんのりとピンクに染まった頬。純正な日本人であるが、どこか西洋人とのハーフのようにも見えた。彼女は別にそれを鼻にかけてなどいないのが、男から見ると更に魅力的に映るようだった。
「残念でしたー。実はひなひなには好きな人がいるみたいなのよ」
さとりは調子に乗って適当な事を言っていた。
「えー、誰だよソレ」
頭が茶髪の男子生徒が聞いた。
「これまた残念でした。私も知らないのよー。ひなひなケチだから教えてくれないの」
「本当はいなかったりしてな」
――いるよ。
「かもねー。真相は闇の中。本人にしか分からない!」
先生が振り返った。
「ほら杏条、いつまでバカな事言ってるんだ。さっさとプリント配って、冬休みにするぞ!」
「はーい先生!」
軽いノリで、さとりは着席する。早く終わるのを心待ちにしていた一部の生徒は、やっとかと声を漏らしていた。
――そういえばさとりって、昔こんな性格してたかな。
ひなたはふと疑問に首を傾げた。小学校低学年の頃のさとりは、どちらかというと大人しくて、引っ込み思案だった。高学年になってきた頃から、だんだん活発になってきて。
――年月経てば性格も変わるよね。
ひなたはそう解釈し、学級委員長の号令に合わせて起立をした。




