9 黒江乙子(くろえいつこ)
あれから3ヶ月後、あれから俺は小説を書く事が出来なかった。
俺はに救って貰ったのに、咲を救うどころかつき離してしまった。
そんな罪悪感が心の中で渦巻き、すべての物事に無気力だった。
なんとか会社には出勤しているが、明らかにミスが増えている。
いつも軽い調子で笑う西川は珍しく真面目な顔で
「大丈夫っすか?先輩。最近上の空とゆうか……悩みがあったら言ってくださいね。」
と心配してくれた。
ありがたいが到底話す気にはなれない。
咲とはあの日以来会っていない。電話やメールも通じない。パソコンでアートメイカーを開くと、SAKIの歌はすべて削除されていた。俺が救われた歌、「君の言葉」も無くなっていた事に、深い絶望を感じた。まるで俺と会った広瀬咲は死に、テレビに写る彼女は同じ顔の偽物の様に感じた。
咲はこの3ヶ月で飛躍的に人気が出た。圧倒的な歌唱力とキュートなルックスで評判だった。今となってはテレビにラジオ、新聞とどこへ行っても彼女の顔や歌声を聞ける。それがさらに俺を苦しめる。
テレビで見せる彼女の笑顔は、俺と音楽を話した時とは全然違う、どこか人工的で痛々しかった。
そんなある日……仕事帰りの電車をゾンビの様にふらふらと降り、改札を抜けた時、
「正樹君!」
後ろから女性の声が聞こえた。
咲かと思った。
しかし振り返って見るとスーツ姿のボブカットの女性が立っていた。咲では無かった。落胆を隠しながら俺は尋ねた。
「失礼ですがどちら様でしょうか?」
会社の知り合いだろうか?
俺には親しい関係の女性はいない。
どこかで会っただろうか?
すると女性は笑みを浮かべ
「分からないかな? 私だよ、黒江乙子よ。中学の時以来だね、小野正樹くん。」
今、目の前にいる女性は、中学時代の文芸部仲間、乙子の姿だった。




