75 壁と海
日が沈むという概念のない世界でも、夕暮れは見えないというだけで存在はする。
真祖やその眷属にとっては朝も昼も夜もない。
ヤトが夕刻に寝室から出ると部屋の前で立っていたはずのマリーシャの姿はない。
彼女が部屋の前に立ち続ける義務はないもののヤトはその姿を視線を動かして探す。
その視線に彼女を捉えたのは横長のソファーの右隣にある1人用のソファーの上だった。
そのソファーは普段誰も使わない。あのエリーでさえも座ることがない。
どうしてエリーさえも座らないのかというと、ブラウン皮製であろうそのソファーはヤト専用の椅子だからだ。
黒のシャツに黒のスーツパンツのヤトは彼女に近づくとそっとその髪を触る。
その髪の毛の色や長さが彼に懐かしい感覚を思い出させている。が、その感覚は彼にとっても理解不能なものだった。
第8真祖は設定上"自由を愛し、惨忍な性格、全ては自分の物"という所謂ジャイアニズムの塊のような存在。
しかし、ヤトという人物がそれになりきると少し違う存在になっている。
自由を愛する――ではなく、自由を求め。惨忍な性格――ではなく、人や眷属にやさしい。全ての物は……それに関しては要素が少しも見受けられない。
記憶において彼は、"こうしていたからこうする"などという考えは持っていないのだ。
記憶では何人もの人をその手にかけている、彼自身それが事実だと理解している。
しかし、この世界が始まった瞬間からヤトはもうヤトだったのだ。
そんな彼でもやはり元通りとはいかず、喋り方や気位や真祖としての自覚は他の真祖となんら変わらない。
「……マリーシャ、そろそろ起きろ。私の椅子にいつまで座っている気だ?」
どうやら彼にとってこの椅子はジャイアニズムの要素だったようだ。
「……ん……ん――ん?…!ロノ卿!!こ、これは――」
目を開けたマリーシャは、自分が密かにヤト専用の椅子に座っていてウトウトと眠気に襲われ寝てしまった挙句、その様子をヤトに見られた事実に顔を真っ赤にする。
いつものクールビューティーな彼女とは違い、アタフタするその様子が可愛く見えないでもない。
「……椅子を譲ってくれると助かる」
「ひゃい!!も、申しわけありません!!」
飛び退いたマリーシャは金髪を手ぐしで整える。
そんな彼女の口元に手を近づけるヤト。
「!なんです?!」
「いや、口元が濡れているぞ」
マリーシャは顔を真っ赤にして口元を隠した。
ソファーに座ったヤトは紅茶を要求する。
ゆったりと背をソファーに預けるヤト。
暫くするとマリーシャが戻ってきて、そのソファーの左手側にある腰ぐらいの高さの小さい円テーブルにトレイごと紅茶を置く。
そして、カップに紅茶を注ぎそれをヤトの前に差し出す。
目を閉じたままそのカップを手に取るヤトは香りを鼻で楽しむと口元へと運んだ。
姫様は?という問いに、「まだ目覚めないだろうな……」と答える。
数分でカップの底に雫だけ残った状態になるとマリーシャがヤトに言う。
「おかわりは?」
「いやもういい、美味かった。それよりもあの包みを持ってきてくれ」
「包み?」
ヤトが言う包みとは、帰った直後に青みがかった髪に灰色の騎士風の服を着た男がソファーの上に置いた包みのことだ。
言われるままにその包みを手に取るマリーシャ。ズシリと重みが手に伝わる。
それを身長に扱う彼女はヤトの手元に差し出し、それを彼は片手で受け取った。
それは?と聞く彼女にヤトは語るよりということで布を取る。
露になるゴツイ鞘に収まった大剣。
それがガンブレイドであると理解するマリーシャ。
鞘から抜くとそのトリガーを引き剣から銃へと姿を変える。
大きさはヤトの身長より少し大きいぐらいで、その重量はそこそこのSTRの持ち主でなければ持ち上げるのも困難な大口径のガンブレイド。
「ハンターの忘れ物を私が見つけた。構造を知ろうと思って拾ったが、まったく別の用途に使うことになった物だ」
「"壁"ですね。それで、壁を上ることはできたのですか?」
「結論から言うと私は頂上に到った。そして、掛かった時間対する代価としては十分な事実を知ることができた」
ヤトが足を組んで眉を顰めるとマリーシャは息を呑む。
「その事実とは?」
「この世界の真。我々真祖-眷属-隷属-人-このサイデルという旧文明都市、それらの裏側が全て繋がる――」
「裏側?」
「真実……いや、"偽り"と呼ぶべきかもしれない。壁の外には逃げ延びた人類と広大な土地が広がっているという常識。だがしかし、私の目で見た限りでは壁の外は無限に広がる海があった」
その事実にマリーシャは目を見開いた。
「視界に広がる灰色の世界……壁の中だけに陸地が広がっている。それを目にした私はまずこの星の異常気象を疑ったが、記憶にある100年の間にそんな出来事はなかったと断言できる」
真祖は生まれた瞬間から成人している。
ただ単に、元となった人が既に成人した人物だったからだ。
人間の間の記憶はなく、真祖になって目覚めた直後からの記憶しかない。
その真祖の設定が今のプレイヤー全員に当てはまっているのは誰も思わない。
「つまり、この私の中の記憶でさえ今は疑わしい。私という存在が根底から揺らいだ――」
「それじゃ私たち…私の記憶は?」
「……どうだろうな…真祖は長寿で人は短命だ。記憶以前に世界の成り立ちがあるなら偽りなどないのだろうが……。実際私の記憶がどこからが本物かは分からない。それを探る手だ手もない」
ヤトはガンブレイドを鞘に収めると椅子の横に床に寝かせるように置く。
「世界が始まったのは一週間前かもしれないし、一月前かもしれない。よもや…ないとは思うが――数分前に始まったのかもしれない」
「それだけはありません!!」
マリーシャはそう言うとヤトの前に膝を折り彼の足に縋りついた。
「私は一月前にロノ卿と一夜を共にしました。一週間前にも一日中――――」
ヤトはマリーシャの頭に手を載せる。
金髪を触り、「この感触が私の記憶を疑わせる」と言う。
「それと同時にこの感触が私に懐かしい思いを抱かせるのだ――マリーシャ…」
「……ヤト様――」
マリーシャは暫くヤトの膝に顔を埋めていたが落ち着くと立ち上がって話し始める。
「これから…いかがなさいますか?」
「予定か?特にはないな――」
その後、2人がゆったりとした時を過ごしていると白髪長髪の眷属が慌てた様子で入ってくる。
「大変ですよロノ卿!!」
騒々しい奴だ、とヤトが思うが口には出さず態度で表す。
彼が右手を前に出すと男は一旦呼吸を整えてから話し始める。
「先ほど使者が参りまして"ロノ卿にコレを"と――」
差し出す黒い便箋。
その焼印には"S"の文字が押されてある。
「使者は?」
「コレを私に渡した途端、一目散という感じで逃げて行きました」
ヤトはそれを聞いて立ち上がる。
左手を横に素早く振るとマリーシャが顔色を変えて寝室へと入る。
数秒で寝室から出てきた彼女は黒の騎士服と黒いマント、鞘に収まったレイピアを手にしていた。
それらをヤトに装備させると、「身支度――整ってございます」と言う。
一分足らずで支度を済ませたヤトに白髪の眷属が、「どうなさるんです?」と言う。
「無論、その使者を捕らえてくる。他は足手まといだ…声をかける必要もない」
そう言ったヤトはエリーがいつも跳び下りる窓を開き半身だけ乗り出す。
左手を突き出すとこの世界で"クロー"と呼ばれる黒いカラスが彼の手元に止まる。
「相手は眷属だ。殺さず"捉えよ"――」
クローが羽ばたいて鳴き声を響かせると隷属下にあるモンスターたちが一斉に動き出す。
そして、ヤトは窓を閉めてエレベーターへ向う。
「あらら、跳び下りないんですか?」
白髪の眷属の言葉に鼻で笑うヤト。
「跳び下りる?そんなに急がなくとも私からは逃げられんよ」
エレベーターが閉まるその瞬間にオッドアイが偉容に光を放った。




