願い事ひとつ
短めの恋愛小説です。お楽しみください。
※軽い暴力描写と性的描写が含まれます。苦手な方はお気を付け下さい。
2052年。私の国では紛争が絶えなかった。
発端は隣国による勘違い。私の国に成りすましたとある国家が隣国にサイバー攻撃を行ったことを隣国はまんまと私の国がやったものだと勘違いした。
最初は小さな戦争だったが、時がたつにつれその規模は拡大していった。一部地域では爆弾を使い始めているという。
そしてついに国家は、戦争に関するマスメディアによる報道を禁止した。もし負けそうな状況に陥ったことを国民が知れば、国民がうまく動かなくなると考えたらしい。
国民は、国のために死ぬことが国民にとっての一番の幸せだと頭に植え付けられた。
生きたいと願うものは非国民だと罵られ、戦争に行くことができない男はひどい仕打ちを受けた。
女性の仕事は戦争が長くなるにつれ、どんどん変化していった。
男が先陣を切っていた、工場や建設業、店の運営などもすべて女性がするようになった。
女性の労働条件はどんどん悪くなり、また若くから働かなければならないのである。
10代20代の若い女性の仕事には、男性の心のケアというものがあった。
使用人として男性のもとで働きつつ、その男性のストレスを解消させるのが仕事である。
心のケアといっても色々で、話し相手を求める男もいれば、おいしい料理を求める男もいる。もちろん夜の相手を求める男もいた。
私もまた、10代半ばになる前から使用人として働き始め、心のケアにも精を出していた。
しかし、今働いている場所は何と言っても主人の性格が悪かった。
その男は、話し相手や家事をする人間を求めているわけではなかった。
その男は、ストレスのはけ口に使う、殴れる人形が欲しかったのだ。
暴力は当たり前。そこで働く女性は皆、何らかの傷を負っている。
私は使用人として働くためにここに来たはずなのに、それらしいことはほとんどやらせてもらったことがない。
ただただ殴るための人形として使われることがどれだけ苦痛かわかるだろうか。
「ちょっと面貸せよ。」
まただ。こうやって一人ずつ自分の部屋に呼び出し、殴る、蹴るを繰り返すのだ。
私は逆らいたくても逆らうことができない。
逆らえば、働き場がなくなって、母に怒られてしまうだろう。
母は少しの期間でも私がお国のために行動しないことを許さない。母はほぼ国家というものに洗脳されきっていたのだ。
「…わかりました。」
気色の悪いおやじの部屋に入った瞬間、案の定思いきり殴られた。
お腹に、鈍い痛みが走る。
睨むような視線を主人に向ければ、また殴られた。
「生意気な目向けやがって!こっちは毎日真面目に働いてストレス溜まってるんだよ。今日だって、アドルフっつー若い男にことごとく俺の行動否定されてよ。癪に障る野郎だ。」
そのアドルフという男は間違っていないはずだ。
こうやって毎日毎日、女を殴ることでしかストレスを発散できないくずが、まともな仕事をしているなんて到底思えない。
「ああ…むかつく!」
腕を引っ張られ立ち上がらせられたかと思うと、頬を力任せに殴られる。
顔はだめでしょう。顔は。
心底、頭の悪い男だと思う。
その日も散々殴られた後、家に帰された。
死にたいと思ってもおかしくないような状況だ。
しかし、私はいつか絵本で呼んだ生きるために生まれてきたという言葉を信じている。まだ生き足りない。こんなバカみたいな状況の中で死にたくなんかない。
だから毎日、暴力に耐えるのだ。
家に帰るとまた、気の狂った母親が待っている。母は私の身体に残る傷やあざを見ると嬉しそうににっこりと笑う。そして主人のために暴力を受けるのはいいことだと、呪文のように言う。
父がいなくなってしまってから、母はおかしくなってしまった。
私にとって家はもう、落ち着ける場所ではなくなってしまったのである。
一つぐらい憩いの場があればいいと思う。
しかしそんな場所を作るチャンスは、今の私には存在しない。
毎日のように殴られる生活が始まって、もう5年。
その日も、殴られたせいで痛む身体を引きずって帰っていた。
すると使用人募集のチラシが、私の目に飛び込んできた。それは家の塀に無造作に貼ってあって、本当に人を探す気があるのかと疑問に思うほどだ。
でも、こういうチラシはすぐはがされしまうものなのだ。こうやって貼られたチラシに遭遇できることが珍しい。こんなチャンスはめったにない。
「仕事内容…掃除、調理。」
たいていの募集には、心のケアだの胡散臭いことが書かれているのだが、これは普通に業務が書かれている。
騙しかもしれないことは十分わかっている。しかし、今はこういうのに縋るほかないのである。
私はそのチラシの写真を、メールや電話の機能がなくなってしまった携帯電話で撮って家に帰った。
そして、母にばれないように書類を整え始める。チラシには、募集主が国の戦争に深く関わる偉い人なのだと書いてある。これまた大変胡散臭い。子供が描いたような文章だ。
悪い人ではないと信じて、縋る思いで一文字一文字、字を綴っていく。
まず、紙面で判断を下される。最低限の個人情報と写真で一度目の合否が決められてしまうというのは恐ろしいものだ。
経歴、容姿など人柄なんて関係なく、絞っていくなんてなんとも理不尽な話。しかし、それは仕方がないこと。一人一人の人柄を確かめていくことなんてできやしない。
書類に貼る写真には、顔にあざがなかった、今の職場に入るための書類に使ったものを使用した。少し古いが仕方がない。みすぼらしい写真をのせることはできない。
書類一式を封筒に入れるとこれも母にばれないように外に持ち出し、指定の場所に届けた。郵便局なんてものは人がもったいないとか言って国家がなくしてしまったのだ。だから、近くまでしか物は届けられなくなってしまっている。
書類が通れば次は面接らしい。それで最終の採用不採用が決まる。
せめて面接までぐらいは行かせてほしい。
書類が通るかどうかわかるまでにも、私は働かなくてはならない。
働くと言っても、殴られるのが仕事だけど。
書類が通れば、面接の日、一日だけでも仕事に行かなくていい。次の日どうなるかはわからないけど、一日でも、家や職場にいなくていい日があるというのは、一定期間だけだが心の支えになることは確実だ。
数日後、家に私宛の手紙が届いた。
運よく母がいない時に届いたので、母に咎められずに済んだ。
手紙を開けると、中には面接についてと書いてあった。
「書類通ったってことかな…。」
働くことが決まったわけではない。でも、1日だけでもあの地獄のような場所に行かなくていいうえ、家から逃げられることがうれしいのだ。
手紙が届いた二日後。一人、整った服を着て面接があるという場所に向かう。
今朝は母の機嫌が悪く、なぜか数回殴られた。
でも整った服を着ていても、面接に行くということはばれなかったのでよしとする。
…もし通ったら、今回の人は偉い人らしいからきっと待遇もよくなる。
前の主人にも何も言われないはずだ。
そう自分に言い聞かせ、歩みを進める。
会場とされる小さなビルに着けば、美人と言われる部類の人がたくさんいた。
書類は容姿重視だったのかもしれない。自分の顔が整っているとは思わないが、あざや傷がなければまともに見えるようだ。
辺りをぐるりと見回せば、顔にあざがある人間なんてもちろん私だけ。彼女たちはきっとまともな場所でぬくぬくと育ったのだろう。
こんな滑稽な顔のやつがそもそも面接なんてやらしてくれるのか、今になって気になり始めた。
面接は20人中7番。終わったら、すぐにこの空間から出たい。
使用人を求めている本人だという偉い人がいる部屋の前で待機していると、部屋から出てきたそれこそひどく顔の整った人が私を見て、鼻で笑った。
場違いだというように。
そんなことはわかっている。でも、チャンスが欲しかった。
部屋からどうぞと声がかかる。
私は9歳の時にならった面接の手順で、部屋に足を踏み入れた。今頃の学校は男女別で今の国家に必要なことだけを習うから。
「顔の傷がひどいな。」
部屋にいた人の第一声はそれだった。
目の前にいる彼は、かなり若く見える。
有名な人だと聞いたから、ある程度年齢を重ねているのかと思っていた。
それにしても、随分顔が整っている人だ。
「今の主人の暴力がひどいんです。今朝は親に。」
嘘偽りなく答える。嘘をついても無駄だから。
「…気の毒だ。申し訳ないが、ここからは通常通りの面接を行う。」
「はい。」
私の淡々とした態度に彼は驚いているようだった。
珍しいのだろうか。
面接が一通り終わり、座っていた椅子から立ち上がり頭を下げる。
「ありがとうございました。」
「…マリーアといったか。」
「はい、なんでしょうか?」
「媚びないやつを初めて見たから、どうも私に落ち着きがなかった。申し訳ない。」
「いえ、お気になさらず。」
もう一度頭を下げて、部屋を出る。
部屋を出たときも、次に待機していた人にくすりと笑われた。
気にしたら負けだ。
面接が終わったら帰るものだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
待機場所で全員終わるまで待ち、あの人が結果を決めて、その場で発表するようだ。
早く働かせたいのかもしれない。
人にじろじろと見られたうえ笑われる場なんぞ、居心地が悪いに決まっている。でも、気にしたら負けだと自分に言い聞かせて待機場所に向かった。
待機場所でぼーっと座って待つ。
周りからは私を笑う声が聞こえる。
「何あの顔。ひどいけがね、あんなのでとおると思っているのかしら。」
アイドルのオーディションじゃあるまいし。顔を気にし過ぎだと思う。
「あの子、あれがおしゃれとでも思ってるのかしら?」
思っているわけないじゃないか。
今だって、朝殴られたところがなかなかに痛くて困っているというのに。
思わず、ため息をついた。
私の番が終わってから、2時間ぐらいたったのだろうか。
待機場所には今日面接に来た人が全員そろったようで、間もなく、私たちの今後を左右する人物が部屋に入ってきた。
「発表する。7番以外、帰れ。」
7番…私は手元の自分の番号が書いてある紙を見る。そこにはたしかに7と記されていた。
私は、動揺を隠しきれず、え、と小さな声を漏らした。
周りが7番を探している。
隣にいた人が私の番号を見て、大きな声を上げた。
「7番…!!!」
隠せばよかった。
周りの視線が私に集まる。
たちまち怒号が飛び交う。
「なんであの子なの!不細工なのに生意気!」
「ありえない!私の方が容姿いいのになぁ。」
そんな声を聴いた男は、一瞬顔をゆがめて大きな声で言った。
「聴こえなかったか。帰れと言ったんだ。」
その発言から彼から発せられる尋常じゃないオーラを感じ取ったのか、私以外はすぐに立ちあがり部屋から去って行った。
私は、顔を彼の方に向けることもできずじっとしている。
少しして、やっと口を開いた。
「あの…なんで私なんですか。滑稽ですよ?」
「見た目じゃない。そもそも、あざがなくなれば十分整った顔をしているだろう。見た目じゃないんだよ。…お前以外は、みんな媚びていた。」
「でも、美人揃いだったじゃないですか。」
「紙の一次審査は俺が選んだわけじゃない。使用人に頼んだら顔重視になってしまった。」
彼の一人称はもう、他人行儀なものじゃなくて、俺というなんとも普遍的なものに変わっていた。
「そう…ですか。」
「勘違いするな、同情ではないから。」
「ええ、わかっています。」
彼の言い方がなんだか可愛く思えて、少し笑ってしまった。
私の笑みを見た彼もまた、私の人間らしいところを見て安心したのか、少し口角をあげた。
「あと、マリア、お前は家に帰らなくていい。前の主人へのあいさつも不要だ。」
どういうことかと首をかしげる。
じゃあ私はどこで寝ればいいのだろうか。
「俺の屋敷の有り余った部屋を貸してやるから、帰らなくていい。前の主人は使用人になんとかさせる。…殴られるのは嫌じゃないか?」
「それは、嫌です。」
「ならいい。住み込みだ。ああ。俺には、暴力をふるう趣味はないから安心してくれ。それと、嫌がることを要求することは絶対にしない。」
そんなに良い待遇になってしまったら、罰は当たらないだろうかと途端に心配になる。
でも、少しぐらい幸せになってもいいだろうか。少しぐらい、生きることを満喫知ってもいいだろうか。
「わかりました。…あの、何とお呼びすればいいですか?」
どこにも彼の名前は書いていなかったから、私はいまだ彼の名前を知らなかった。
「アドルフと、呼び捨てで構わない。」
彼が国家においてどれぐらい重要な位置にいるのかわからないが、偉い人に対して呼び捨てをするのは大変気が引ける。
本当にいいのかという視線を向けると、彼はゆっくりうなずいた。
「はい、気が引けますがそれがお好みならばそのように。」
「自分の家の中ぐらいでは上下関係を忘れたいだろう?」
「確かにそうですね。」
「あと、敬語はどちらでもいい。好きなら使えばいい、そこは強制しない。」
なかなか個性的な人だと思う。それと同時にこの人についていく部下たちの気持ちがすごくよくわかる気がした。なんというか、心が広いと思う。
若くして高い地位につけたのは彼の人柄ゆえだろう。
そういえば、彼は自分の名前をアドルフといったか。どこかで聞いた…?
「アドルフ…、部下にカールという男はいませんか?」
「無駄に反抗心の強いカールというおやじがいるが。」
やっぱり。前の主人がアドルフの名前を出したことがあった気がしたのだ。
ということは、前の主人とアドルフは知り合いということ。
「その人、前の主人なんです。一度、アドルフという若い上司がいるという話を聞きました。」
「…あいつだったのか。あとで前の主人とやらを調べるつもりだったが…、あいつはつくづく救えない男だな。後でどうにかしておく。」
「でもまさかあのアドルフがあなたとは。」
思わぬ出会いだ。あの、救えない男を否定できる人だからきっとアドルフはいい人なのだと思ったことがあった。救われる…かもしれない。
「主人の地位が上がったな。さて、そろそろ移動するか。車がつくころだ。」
「車?どこに移動するんですか?」
ここが彼の屋敷だと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「俺の屋敷だ。自分の屋敷で面接なんてやったら、毎日人が玄関に居座りそうだ。」
言われてみれば。
顔が整っている上地位が高いとなれば、女が寄って集るのもうなずける。
面接会場となった建物の裏口から出ると、そこにはすでに車が待機していた。
長いと思っていたがそんなことはなかった。そのデザインは至って普遍的なものだ。目立ちすぎないためだろうか。
「乗れ。」
「あ、はい。」
促されるままに、車の中に乗り込む。
私は後部座席に、アドルフは助手席に乗り込んだ。
会話が途切れてしまったせいで、なんだか居心地悪く思っていると運転席に座る男性が声を出した。
「君がこれからうちの屋敷で働いてくれる子ですか?」
バックミラー越しにその人と目があった。
かなり若く見える。それこそ、戦争に行く年齢。
「はい、そうです。マリーアと言います。」
「僕はローレンツといいます。ローとでも呼んでください。どうぞよろしく。」
私は思わず頭を下げた。
落ち着いた声色に安心感を覚える。
「こいつは、身体が弱いから男だがこうやって俺の屋敷で働いている。」
「そうだったんですか。」
私が思っていたことを見透かしたように、アドルフは言った。
まあ、このご時世で戦争に行く素振りのない男性を見たら誰だってそう思うかもしれないが。
「そういえばマリーア。」
「はい。」
「マリアでいいか?」
マリーアというのが少し呼びにくいからだと思う。昔、学校に通っていた時は皆私をマリアと呼んだものだ。
「構いません。みんなそう呼びますから。」
「じゃあ遠慮なくそうさせてもらう。」
車の中から外は見られない。前の窓以外のすべての窓にカーテンが取り付けられているからだ。前の窓も外からは見えないようなもののようだ。
カーテンはもちろん開けることはできるが、おそらく、アドルフがいることをばれないようにするための物なので迂闊に開けるようなことはしない。
車のほとんどの窓がふさがれているだけで、案外不安を掻きたてられるものなのだと初めて知った。しかし、家や前の主人のもとにいるよりは幾分もましだ。比べるには状況が違いすぎるが。
ぼうっとカーテンの外に思いを馳せていると途端に眠気が私を襲った。
私は眠気に負けてしまい、そうっとまぶたを閉じた。
「マリア、ついたぞ。」
私を呼ぶ声で目を覚ますと、目の前にはアドルフの顔があった。
目を開けた瞬間私の瞳に映った整っている顔は、私をひどく驚かせた。
「わっ!」
アドルフは私の驚いた顔を見ると満足したように、あまり動かない顔を少しだけ動かして顔を離した。
「なんでこんなことをするんですか…。」
「出来心だ。」
彼は表情筋がかなり固まっているが、悪い人ではない。偉いといっても遊び心を忘れていない立派な若者であった。
アドルフの屋敷は結構な山奥にあった。周りに家なんて一軒もない。しかし、その分だけ屋敷が大きい。
まず家ではなく屋敷と呼べる時点でとても大きいのだ。そのうえ、お城のような豪華な外装がますますオーラをまとわせている。
使用人下男人いるのかはわからないが、このサイズの家なら数十人使用人や住む人がいても、部屋が余ることにうなずける。
アドルフに家について質問しようと思って周囲を見回すと、アドルフはもう玄関の先に消えるとことだった。
私が、周りを見回した行動を見て、ローレンツが私のしたいことを察したのか話しかけてきた。
「アドルフは多忙なので、すぐお仕事にもどられます。お困りですか?」
「ここにはどれぐらいの人がいるのかと気になったんです。」
「主人はアドルフのみです。使用人はマリアを含め、6人です。あなた以外全員男性ですが。」
驚いた。もっと人数がいるのかと思っていたのに、一桁だった。
「広すぎませんか?」
「広さに意味がないわけではないのです。物を置くというのが一つ。もう一つは万が一、怪しい人物が来た時に、これだけ広いとかくれんぼができるのですよ。もちろん、監視カメラがほとんどの部屋についているので、向こうに勝ち目はないのですが。」
ゆっくりとした足取りで、私を屋敷の中に入るよう促しながらローレンツは言う。その顔は笑顔だ。彼は計算が好きそうだ。
「随分楽しそうですね…。」
「ええ、僕には作戦を考えたりすることしかできませんから。運動は軽くしかできませんしね。ほかの使用人に体が強いものがいるので、その手のことは任せきりになってしまっています。」
玄関に足を踏み入れる。
中は外と違って、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
「ちなみに、かくれんぼをしたことはありますか?」
「それがあるんですよ。一度、タヌキが入ってしまいましてね。あれは盛大なかくれんぼでした。」
人間じゃ無くて安心した。
「そういえば私は何をしたらいいのですか?」
チラシには掃除や調理だと書いてあったが明確には記されていなかったので詳しいことは何もわかっていない。
一概に掃除といっても、場所によって勝手は違う。こだわりがある人ならやり方にも口をはさむだろう。アドルフはそういうタイプではなさそうだが。
「チラシに書いてあったとおりです。掃除と調理ですね。あとアドルフに優しくしてあげて下さい。彼、案外寂しがり屋なので。」
アドルフがさびしがり屋には全く持って見えないけれど、多分ローレンツはアドルフの扱いに随分慣れてそうだからそうなのだろう。
「詳しく教えていただきたいんですが…。」
「難しいことはないので詳しくすることも少ないのですが、掃除はアドルフに頼まれた時に彼の部屋を掃除してくれれば大丈夫です。使用人は自分の部屋は自分でやることになっていますし、使っていない部屋はアドルフが言えばやればいいです。調理については、朝昼晩、健康的な料理を作ってもらえるとうれしいですね。献立はマリアにお任せしたいのですが、料理は得意でしょうか?」
料理は母に毎日のようにやらされていたから得意な方だ。そもそも家事は、女子の場合学校で仕込まれるからできないといけないものである。
「はい。小さいころから仕込まれていますし、料理は好きなので、得意です。」
「それは良かった!今までは基本的に豪快な性格な男がやっていたものですから、量の加減や盛り付けの雑さが目立ってしまって大変だったんです。これでやっとまともな食卓を囲めそうです。」
心底嬉しそうに言うローレンツ。どれだけひどかったのか見てみたいものだが、仕事を受けた以上は抜かりなくやりたい。
「頑張ります。」
「材料は、買い出し担当の使用人がいるので彼に頼んでください。狩りで捕った新鮮な肉や釣りで捕ったぴちぴちのお魚がお好みならば、それも可能ですよ。そういうやつがいるので。」
なんて生々しい。さすがに動物のさばき方は知らないし、やりたくない。
「魚の方は検討しておきます。」
「鹿肉などはなかなかに美味なのですよ?さばき方なら狩りが得意な使用人が教えてくれます。見たくなければ、彼に何の変哲もない肉にして持ってこさせればいいのです。」
ローレンツはやさしい声色でかなり物騒なことを言う人だ。だんだん彼についてわかってきた気がする。
「…検討しておきます。」
「とりあえずあなたの部屋に案内しますよ。」
ローレンツ、多分言うのが遅かった。
気づけば足は前に進んでいなくて、玄関で靴を脱ぎスリッパに履き替えたところで立ち止まってしまっていた。
「そうですね。」
やはりゆっくりとした足取りのローレンツについていく。
彼は歩くのがとても遅い。
「そういえば私の荷物は…。」
「使用人の一人が、マリアのお家にお邪魔させていただいています。ある程度はそのまま、こちらに運ばせていただくので安心してください。」
抜かりない。彼らは私が行動する前になんでも済ましてくれそうだ。
しかし、彼らも同じ場で働く人間だ。早く同じ位置に立ちたい。
「そういえば、ローは体が弱いから戦争に行かなくてもいいんですよね?」
「そうですよ。」
「他の方は?」
さっきローレンツは他の使用人に体が強い人がいるとかと言っていたが、それなら何が駄目なのだろう。
「まあせっかくなので口頭ですがざっくりご紹介いたしますね。あとで会ったら顔と名前を一致させてください。一人目エッカルトは狩りができたりしてとても有能なのですが、戸籍がないのです。捨て子でしてね。おかげで戦争に行かなくていいのです。」
そういえば彼は戦争に行くことをいいことだとは思っていないらしい。国にとっては非国民だが、私も戦争で死にたいと思っている人間ではないしむしろ生きたいと思っている人間だから同じ考えの人がいて嬉しい限りだ。
「二人目ハイノは対人が苦手すぎて省かれてしまいました。戦場にコミュニケーションは必須ですからね。彼は、洗濯や軽いお菓子やスイーツづくり、紅茶を入れるのが得意です。
話すのが嫌いなわけではないので、気軽に話しかけてあげてください。」
「わかりました。器用な人なんですね。」
そう言った瞬間、ローレンツの後ろから白い髪の少年のような見た目をした人がひょこっと顔をだした。
「ああ、彼がハイノです。少年に見えますが、もう30近いですよ。」
ハイノは長い前髪の間からゆるい笑顔をのぞかせた。
「新しい人。僕、ハイノ。よろしく。」
「私はマリアです。よろしくお願いします。」
笑いかけると、ハイノもまた少しだけ笑った。その仕草は人見知りの子供のようで可愛らしい。言い方が悪いが本当にそんな感じなのだ。
そしてそそくさとどこかに行ってしまった。
「今日の晩御飯は彼が作るので、明日からよろしくお願いしますね。…さて話を戻しますね。3人目クルトは今あなたの荷物を取りに行っている男です。…いわゆるおねぇなので省かれてしまったようです。いたって普通に図太い男です。彼が買い出し係です。」
ずいぶん個性派揃いだ。しかし、おねぇだと戦争に行かなくていいとは初耳である。
「四人目ザシャは片足膝下がないので、省かれました。彼はインテリアやファッションに興味があるので、いろいろデザインなどを担当しています。服の仕立てや、髪を切りたいときなどは彼に頼んでください。」
「少ない人数ですけど、ちゃんと役割が分かれているんですね。」
「ええ、そうやって集められましたから。戦争に行けない男で、以下の特技を持つものって感じで。」
徹底している。本当にどこまでも抜かりがない。
無駄な人間が一人もいないのだ。
私は人数が多ければ何とかなるものだと思っていたが、こうやって少ない人数で役割を振った方が、はるかに効率がいいのだと思い知らされる。
情報を回すにも、人数が少ないほうが回りやすいものだし。
そしてアドルフという男は心底仕事というものに向いている人間だと思う。
「そして5人目は僕ローレンツです。僕は運転係といいましょうか。アドルフを職場まで送り、お帰りの際にはお迎えするのが仕事です。6人目はあなた、マリアです。誇り高く、仕事をやってください。」
「はい、早く慣れるようにします。」
「その意気です。よろしくお願いしますね。」
大きくうなずくと、ローレンツは私に微笑みを返した後、一つの扉に目を向けた。
「玄関からずいぶん入り組んだ場所にありますが、ここがあなたの部屋です。中に、地図が置いてあるので使ってください。まあ今日はゆっくりしてください。お疲れでしょう。あとで荷物が届けばじたばたしてしまうかもしれませんが、とりあえずそれまでは。」
地図があってよかった。なかったら多分屋敷の中で迷子になってしまう。
監視カメラで居場所特定してすぐに連れ戻されそうなものだけど。
「ありがとうございます。明日は朝から働きますから。」
「何かあれば遠慮なく言って下さいね。僕はアドルフの送り迎えの時以外は基本、自室におりますから。」
ローレンツは私に軽く微笑みかけ、去って行った。
私は彼が視界から消えるまで見送った後、部屋の中に入る。
「広い…。」
知らないうちに声が出ていた。
しかし本当に広いのだ。下手したら家の床を全部つなぎ合わせてもこの部屋の面積には及ばないかもしれない。
部屋には洗面所も風呂もキッチンもついており、食料さえあればここで生活できる。
口を閉じられずに呆然としていると、部屋がノックされた。
誰かわからないが、とりあえず扉を開ける。
扉の前にいたのはハイノだった。彼の横にはワゴンがあって、そこにはクッキーと紅茶が乗っている。
「クッキーと紅茶、いる?」
柔らかそうな白い髪の毛が首をかしげると同時にふわりと揺れる。
「いただきます。わざわざありがとう。」
私が笑いかけるとハイノもにこりと笑った。
こうやって軽く会話する分にはコミュニケーション力に問題を感じないのだけど、そんなにひどいのだろうか。
ハイノはワゴンを部屋に持ってきて、机の上にクッキーが乗った皿とティーカップを置いた。そして良い香りのする紅茶をカップの中に注いだ。
「どうぞ。」
「いただきます。」
私が紅茶を飲むのをじっと見守るハイノ。
一口口に含むと、絶妙な甘さが口の中に広がる。
「甘くておいしい…。」
私がそういうとハイノがふわりと笑った。
「良かった。口に合って。」
「本当においしいです…。」
紅茶は高価とされるから、母が今まで私に飲ませたことはなかった。
こんなにおいしいものがあるなんて知らなかった。
クッキーをつまみながら、紅茶を飲み進める。
「アドルフが休憩は必要っていうから、ほとんど毎日みんなに配ってる。」
「そうなんですか?」
ハイノはこくりとうなずく。
学校が男女分かれてしまっている今、年下の男の子と関わる機会というのはない。
ハイノは年下ではないけれど、年下のような、弟のようないじらしさがある。
「じゃあ、行くね。お皿とカップは、部屋の前に置いてある小さい机の上に置いておいて。後で勝手に回収するから。」
「わかりました。あ、ちょっと待って。」
とっさに呼びとめてしまった。ハイノはゆっくり振り返る。
「私のこと、苦手じゃないですか?」
ローレンツは彼は対人が苦手だから戦場のいかなくてもいいのだと言っていた。でも、彼に言葉が乏しいなんてことはないように感じられる。
「…あなたは優しそう。あとローが笑いかける人に、悪い人いないから。」
ハイノはにっこり笑って、ワゴンを押して部屋から出て行った。
苦手じゃないといってくれるならとてもうれしい。
しかし彼の言葉から察するに、やさしそうな人ではなかったらまったく口を開かないのかもしれない。
そして、ハイノがローレンツを信用していることがわかった。
紅茶とクッキーを平らげほっと一息。
少しぼーっとしたあと、ハイノに言われた通りにお皿とカップをハイノが置いたのだろう小さな可愛らしい机の上に置き、部屋に戻る。
なんど見回してもそこには今までの大嫌いな家の光景はなく、きれいな広い部屋が広がっている。
ここまで状況が一気に変わってしまうと、慌てたり不安に思ったりするのを通り越して不思議だとしか思えない。
私の物がまだ一切運ばれていない部屋にはほとんど何もない。中身のない大きな家具だけが並んでいる。
私はとりあえず、地図を眺めることにした。
この屋敷の構造ぐらいは理解したいものだ。
地図を眺めていたらなんとなく時間が気になり始めた。
時計を探せば、それはすぐに見つかった。
「4時…。」
朝家を出たのは確か8時だったと思う。そこから面接がある場所に行って、面接をして、車でここにきて…。
車の中で寝ていたせいで、あの面接をした場所からこの屋敷までどれぐらいの時間がかかったのかが分からない。
頭が痛くなりそうだ。もう、ここに来るまでの出来事が濃すぎて時間の感覚なんて大分くるっている。
時間のことを考えるのはやめにして今後のことを考えようかと、ぼーっとしているとまたもや部屋がノックされた。
「マリアちゃん、いるかしら?」
おそらくこのしゃべり方はおねぇのクルトさんだろう。
「はい。」
返事をしながら扉の方に駆け、急いで扉を開けた。
そこには長身でスタイルのいい、ロングヘアーの…男。
よく見れば男だとわかるけどパッと見はきれいな女性だ。
「初めまして、マリアちゃん。私がクルトよ。」
「こちらこそはじめまして。」
「それでね、荷物を運んできたのよ。ローちゃんには図太い男なんだから一人で行けるでしょうとか言われたけれど、力持ちをつれていったわ。」
なんというかローレンツがいいそうだ。
「…ありがとうございます。本当にわざわざすみません。」
「気にすることはないわ。これから同じ場所で働く仲間なんだから。今エッカちゃんが運んでるから、少し待ってね。」
エッカちゃんというと、あの狩りをする人か。エッカルトを訳して、エッカ。
間もなく、がたいのいい男がワゴンを押してやってきた。
その上にはタンスとクローゼットがまるごと乗っていた。
「まるごと…。」
「全部そっくりそのまま持ってきたわよ。あとお母様にも事情は詳しく説明してあるから安心なさい。…アドルフちゃんの地位を掲げて脅したわ。」
たぶん彼女…?彼は、少し私の母と会話しただけでまともな人間じゃないと分かったのだろう。地位を掲げて脅すぐらいしないと、あの人はなにかしら言ってくるはずだ。
「あ、ありがとうございます。」
やっぱり性格は男らしい。
「おめぇの私物は一応全部持ってきたぞ。人出が少ないもんで、少しずつしか運べねぇが許してくれよ。どこに置けばいい?」
エッカルトが大きなワゴンを押してやってきた。
「あそこにお願いします。」
部屋の中に入り指をさす。
「おう、了解。クルトちゃんそっち持って~。」
「レディにそんなことやらせるの?」
「よく言うぜ!お前ついてんだろ。」
「っな!それは言わないお約束よ!?」
クルトは渋々といったようにタンスの片方を持った。
そして二人で部屋の中に運んでいく。
「ここでいいよな?」
「はい、そこで。」
よっこいしょといいながら、二人はそれを配置した。
「クルトちゃんまだまだあるからよ。手伝ってくれよ?」
「はいはい、わかってるわよ。マリアちゃん、次の持ってくる…てあれ?」
廊下には家具やおそらく私の私物が入った段ボールが並んでいた。
「なんで全部あるの?怖!」
すると家具の後ろから、アドルフとローレンツ、そして消去法でザシャと思われる人が顔を出した。
「この人がマリアっすか?」
「そうですよ、ザシャ。」
ローレンツがザシャといったから、やはり彼がザシャらしい。
ザシャは珍しい顔をして私を見た。
「ものほんの女っすか!久しぶりに見たっす!」
ザシャは相当驚いているようだ。戦場に出る人間で女を雇う人じゃなければ、女性を見る機会は少ないのだろう。
「そういえば何故みんな集まってらっしゃるんですか?」
私はローレンツに聞いた。
「アドルフが突然部屋から出てきて運ぶのを手伝いたいと言い出したものですから、変だと思い、ハイノとザシャに連絡したのです。それで、4人で持ってきました。」
ローレンツ、その変だと思いっていうのはかなりの偏見だと思う。
「騒がしかったから早く済ませてやろうと思っただけだ。」
「有難うございます、アドルフ。」
にこっと笑いかけるとアドルフは目を合わせずに少しだけ笑みを見せた。
「アドルフにこんな表情できるのね…。」
クルトは恐ろしい形相でアドルフを見ていた。
思わぬところで全員集合してしまったので、顔と名前をすぐに覚えることができた。たった7人しかいない大きな屋敷の中だ。名前ぐらいしっかり憶えておきたいから。
そしてわかったことはクルトのことはちゃん付けで呼び、それ以外の人は基本呼び捨てで呼ぶということ。
クルトがちゃん付けしろと脅しているということをローレンツがこっそり教えてくれたので、しっかり守ろうと思う。
無事私の部屋に全部家具を運び終えた皆が、ワイワイと話しているのを微笑みながら見ていると屋敷内で音楽が流れ始めた。
「飯の時間だ。」
アドルフがそういうとみんなが一斉に動き出した。
「アドルフ?」
「この変な音楽が飯の合図だ。朝は7時。昼は12時。夜は6時に鳴る。今はこうやって集まっているがいつもはそれぞれ違うところにいたり、屋敷にいなかったりして連絡が回りにくいからな。一応一日のうちでどこにいるかというのは、だいたいお互いに把握してしまっているが。」
「抜かりなく管理されてますよね、この屋敷。」
「効率が悪いことはできるだけしたくない。しかし、ここまで役割がきれいにわかれるとは俺も思っていなかったけどな。」
そりゃそうだ。少しぐらいやりたいことやできることがかぶってもいいと思う。
私は特に目立ったことはできないけれど。
食堂は私の部屋からは割かし近いところに合った。
そもそも家の中で近い遠いというのがあるのがおかしな話なのだが。
食堂のなかには椅子が7個、きっちり並べられている。
ある程度座る場所は決まっているようで、みんな迷いなく椅子に向かっていった。
「マリア、お前はここだ。」
そこはアドルフのとなり。反対側のとなりにはそもそも椅子がない、要は端だということだ。
「アドルフ~なんでマリアを真ん中にしないんすか?」
ザシャがそう聞いたが、アドルフは何も答えない。すぐに彼の隣に座っていたローレンツがそっと耳打ちをした。
「あ、そういうことっすか。あ、なんでもないっす。」
ローレンツがザシャに何を吹き込んだのかはわからないが、ザシャは随分と納得した様子。ローレンツはつくづく人の扱いに慣れている。多分誰もローレンツには逆らえなさそうだ。
少し経つと、ハイノがワゴンに料理をのせてやってきた。
朝から仕込んでいたらしい料理を盛り付けていたようだ。
その見た目はなかなかに美しい。
確かローレンツかアドルフが男ばかりで料理がまともじゃないと言っていたが、十分ではないだろうか。むしろ高級料理のようなその出来栄えは見事だと思うが…。
手際よくそれぞれの前に並べられていく皿。食堂にいい香りが漂う。
「おいしそうです。」
「本当にな…見た目も味も最高なんだが…。」
アドルフは苦い顔をした。私は首をかしげる。
「何かまずいことでもあるんですか?」
「俺はあまり関係ないんだが、一度ハイノの買い出しのメモを見たことがある。そこには名前も聞いたことのない入手困難食材が大量に並ぶ上、出費が半端じゃない。だから基本はエッカに頼んでいたんだが、あいつが作るとすべての皿が山盛りになる。」
なんと極端な。料理に至ってはちょうどいい人物がいなかったようだ。
それにしても、この料理には何が使われているのだろう…。
皆で手を合わせて合掌し、料理を食べ始める。
料理は見た目通りおいしかったけれど、やっぱり何を食べているのかは謎である。
アドルフがいなければ何の接点もなかった人たちが食卓を囲んでいる光景は、だれがどう見ても平和で和やかだ。
この空間は自分の国が現在進行形で戦争をしていることを忘れさせた。
皆が食べ終わり片づけを誰がするかという話になっていたが、私はいろいろやってもらったからといって一番に申し出た。
彼らは来たばかりなのに申し訳ないというようなことを言ったが、気にしない。
一刻も早くこの場に慣れたいのである。
食堂のキッチンは部屋のキッチンでも十分だと思ったのにそれより大きい。
私は皆の皿を集め一枚一枚洗い始めた。
食洗機はあるのだが、食洗機はどうしても皿を傷めてしまうからそれなら自分で洗った方がいい。
皿洗いは好きだ。
7人分の皿を洗い終え、皿をそれらしい場所に片づけてキッチンから出るとアドルフが食堂の机で何やら仕事をしていた。
「ここでやってるんですか?」
「ああ、ここが好きだからな。」
たぶん、多分だけど私が部屋に戻れるようにここにいてくれたのだと思う。
アドルフの部屋が何処かはわかないけれど。
「お仕事ですか?」
「ああ。」
私は明確にはアドルフが何をしている人かは知らない。ただチラシに書いてあった、戦争に関わる人間であることと前の主人の上司であることとかなり偉い人だということだけはわかっている。
「アドルフの仕事って一体…。」
「俺の仕事は今は作戦を考えるようなことをしているが、一応は交渉するのが最終目標だ。」
「交渉って何のために?」
質問攻めのようになってしまっているが、知らないことが多いうちは仕方がない。遠慮なく聞かせてもらうことにする。
「このばかばかしい勘違いから始まった長い戦争を終わらせるための交渉だ。それを実行するために向こうと安全に連絡を取る方法を考えている。まあ基本は攻撃のことを考えているけどな、やりたくはないが。」
戦争をばかばかしいと思っているこの屋敷の人間たち。
ここはほとんどこの国の日常から隔離されているから、普通に戦争に行くために生活をしている人とは感性がいかなるのは当たり前だがそれにしても彼らは戦争というものにかなりの嫌悪感を抱いているようだった。
「アドルフは戦争を嫌いますか。」
「当たり前だ。勘違いから始まったとなればなおさら、意味のなさを感じる。今までに大量の犠牲を出しておいて、事が全くと言っていいほど進んでいないなんて異常だろう。」
確かにそうだ。
私は、戦争についての報道国家によって禁止されているために、戦争の今の状況などは全くわからない。
しかし男が家に帰ってこなくなることだけはわかる。
そして各家庭から男が消えていくのを幼少期から見てきた。
「しかし、俺がそれだけ戦争が終わることを望もうが交渉に成功しない限り、ことは進まない。それまでだって俺はいつ死ぬかわからないんだよな。俺がどんな役職に着こうが、今この国にいる限り死ぬために生まれてきたことに違いはない。」
そんな寂しいことは言わないでほしい。死ぬために生まれてきたなんて、言わないでほしい。
「それは違いますよ、アドルフ。人は死ぬために生まれるわけじゃないです。生きるために生まれるんです。」
私はずっとそう思って生きてきた。それを誰に言うわけではないけど、そう思って生きてきた。
私がしっかりとした口調でそういうのを聞いたアドルフは、少しの間驚いた顔をしていた。
そして、笑った。
「その、通りだな。弱気でいては、繋がる命も繋がらない。その言葉、覚えておく。ありがとう。」
意図的でなくても、私を辛い状況から救ってくれた彼に死んでほしいなんてことは思わなかった。
「そろそろ、部屋に戻るか。」
「そうですね、あの、アドルフの部屋はどこなんですか?」
「俺の部屋はお前の部屋の前だ。」
ずいぶんと近かった。これは誰が決めたのだろうか。
「いくぞ。」
「はい。」
アドルフの背中を追う。
部屋の前につき、アドルフと別れ自分の部屋に入る。
自分の私物が置かれたその部屋は、もう自分の部屋としか思えなくてなんだか落ち着いた。
とりあえずシャワーを浴びてしまおう。
シャワーを浴びて、ラフな服装に着替えるとどっと疲れが私を襲った。
本当に今日は一日が濃すぎた。疲れるのも無理はない。
私は大人しく、目覚まし時計をセットした後すぐに眠りについた。
次の日、私は目覚まし時計の音で五時半に目を覚ました。
昨日早く寝たからか疲れはなく、すっきりとした目覚めだ。
てきぱきと身支度を整えていく。可愛げのかけらもない仕事をするためだけにかった服をいて、長い髪の毛は後ろでしっかりと結ぶ。
紙を結べば、心が切り替わる気がする。
私はしっかりと仕事をしようと心に決め、地図を片手に食堂に向かった。
食堂にはもちろん誰もいない。
暗くて誰もいない食堂はなんだかとても寂しく思えた。
キッチンと呼ぶよりは厨房と呼んだ方が正しいのかもしれない、その場所にはいり、まず冷蔵庫の中を覗く。
おそらくハイノが要求したよくわからない食材は放っておいて、普通のものがたくさん入っていた。
これならなんでも不十分なく作れそうだ。
朝はそんなに重くないものがいい。パンとベーコンエッグは出すとして、問題は野菜だ。
昨日食事風景を見守っていたけれど、どうもエッカルトとザシャは野菜が嫌いらしい。二人は美容にいいぞなんて言いながらクルトに押し付けていた。
だから彼らにも問題なく食べてもらえるようなものをつくりたい。
少し考えた末、フルーツの味を目立たせた野菜ジュースを作ろうと決めた。
味が強い野菜は初めから入れると意識してしまうから、少な目に。だんだん慣れてもらおう。
朝食じゃあまり腕はわからないかもしれないが、喜んでもらえるだろうか。
7時になるまでには少し時間があったから、直前に作って温かいものを出せるようにある程度準備をしてから、私はキッチンの物色を始めた。物の位置を把握するためだ。
キッチンにある扉を片っ端から開けたり閉めたりしていると食堂の方から物音がした。
食堂を覗いてみると、そこには椅子に座ろうとしているローレンツの姿があった。
「ロー、早いですね。」
「マリアの作る料理が楽しみで早く来てしまいました。みんなが来るまで座ってじっとしていますから、気にしないでください。」
朝からきっちりとスーツを着込んでいる。見た目はまさに執事である。
昨日もスーツだったから多分この人はこれがスタンダードなんだと思う。
ローレンツと少し話していたら、料理を作るのに良いぐらいの時間になった。
ベーコンエッグを作りながら、パンを焼く。そしてミキサーにかけて冷やしておいた野菜ジュースを冷蔵庫から取り出して、コップに氷を入れてから注いでいく。少し味見したが多分、ローレンツ以外は野菜の存在に気付かないと思う。見た目は完全にミックスジュースだから。
すべてが出来上がり、ワゴンに乗せ終わった時、ちょうど七時の音楽が流れた。
私がワゴンを押して食堂に行くと、みんなそろっていた。
音楽が鳴りしだい来るものだと思っていたから驚いた。
それにひるまず、皿とコップを並べていく。
合掌したあと、エッカルトとザシャの様子をじっと見守った。
彼らは甘いものが好きなのか、すぐにコップに手をつけて、すぐに飲みほした。
「あの、マリア。これおかわりもらっていいっすか。」
ザシャが飲み終わりしだいすぐにそう言った。これは、気づいていない。
「マリア!俺もー!」
エルカットもすぐに声を出した。
「はい、すぐに持ってきますね。」
台所から残ったそれを持ってきて、彼らのコップに注ぐ。
彼らはおいしそうにのんでくれた。
パンは置いてあったものだが、皿に乗るそれらとコップの中身を、使用人たちとアドルフはきれいに平らげていった。
食事が終わればネタばらしだ。
やはりジュースに野菜が入っていたことに気付いていたローレンツは私に軽く合図を送ってから、ザシャとエッカルトに言った。
「野菜、摂取できましたね。」
「「は?」」
完全に気づいていなかったようだ。
「あのジュース、野菜を入れていたんですよ。わりと多目に。昨日二人が野菜嫌いなのに気付いたので。」
「まじっすか!俺、ずっと野菜食べれなかったのに!!」
「俺も肉と甘いもんばっかで野菜を邪険にしてたんだが…すげーなマリア。」
隣ではアドルフが震えている。
「アドルフ?」
私がアドルフを見ていると、クルトが言った。
「アドルフちゃんね、平然と野菜食べてるけど、野菜嫌いなのよ。」
「そうだんったんですか?」
アドルフはゆっくりうなずいた。そしてアドルフは私に言った。
「お前、料理係に向いてるぞ。」
そういってもらえるとうれしい。アイデア料理は大好きなのだ。
「これで理不尽な買い出しが一生なくなるのね…。」
買い出し係のクルトは生き返ったみたいに嬉しそうな顔をしていた。
「そんなに理不尽?」
ハイノがクルトに聞いた。
その場にいた全員が黙り、私以外の人は声をそろえて言った。
「理不尽。」
ハイノは自分が要求していた食材の希少価値を知らなかったようだ。それならなんでその名前を知っているのかが分からないが。
ハイノは首をかしげていたが、ローレンツがすぐにハイノをあやしに行った。
やっぱりローレンツとハイノは仲良しらしい。
今日の昼は、みんな屋敷の中にいるようだ。
アドルフは仕事が休みらしく出かけないらしいし、ほかの人も特に用事はないようだ。
冷蔵庫の中にはまだまだ食材があったので、買い出しを頼む必要もなさそうだ。
昼ご飯を作る時間まではまだまだ時間がある。
それまで何をしようかと、部屋に戻って考えているとドアがノックされた。昨日から、ノックがやまない部屋である。
「アドルフ、どうかしましたか?」
「埃がたまってきたから、掃除を頼めるか。」
私はうなずく。拒否権なんてものはないのだが。
アドルフに促されるまま正面にある、アドルフの部屋に遠慮がちに入る。
アドルフのことだから部屋の中はきっちりと整えられているかと思いきや、書類と思われる紙が散乱していた。
「埃っていうか、紙ですね。」
「掃除だけはできなくてな。」
効率の良さにはうるさいアドルフが掃除できないというのは、少し可愛く思える。
完璧な人間なんてこの世にいないのはわかっているが、アドルフはなんでもテキパキこなすイメージがあったから、少し驚いた。
「紙もどうにかさせてください。」
「ぜひそうしてほしい。掃除道具はそこの棚に入っている。」
「わかりました。」
まずこの大量の紙をどうにかしないことには何も始められやしない。
「書類の仕分けはできますか。」
「それぐらいなら…。」
自信がなさそうだが気にしないことにする。仕分けできなくても床に散乱しているよりはまとまっていた方が目的のものも探しやすいだろうから、まとめれば何とかなるはずだ。
紙の上にうっすらと積もった砂埃を払いながら、それらを集めていく。
下の方に埋もれた紙には結構な誇りが積もっていることから、長らくこの部屋が掃除されていないことを知る。
「ずっと掃除してなかったんですか?」
「そうだな。しばらくご無沙汰だった。あいつらに頼むと何されるかわからないから、迂闊に頼めなくてな。」
確かに彼らはかなりの個性を持っているし、それぞれ何かをしでかしそうだ。
私はまともに見られているのだろうか。
「そうだったんですね。」
掃除は心がきれいになる気がするから好きだ。
そして、仕事をしている気になれるから好き。
「マリア、質問いいか。」
「構いませんよ。」
アドルフは間を開けずにどんどん話しかけてくる。
その表情はあまり動かないが、そこに悪い感情はなさそうだ。
「好きな食べ物は?」
「へ?」
「だから、好きな食べ物だ。」
「…エビですかね。なんで突然?」
突然そんな初歩的な質問をされたらさすがに驚く。それをするのが、仮にも国家にとってすごい人だとなおさら驚く。
「別にいいだろう。気晴らしだ。」
「はぁ。」
アドルフもなかなかの変人だと思う。
類は友を呼ぶという。要するに私もたぶんずれている。
「好きな色。」
「青です。」
「場所。」
「今はこの屋敷の居心地が最高です。」
「趣味。」
「このご時世趣味を満喫する時間なんてあまりないんですがね。料理は趣味のようなものです。」
「確かにそうだな。好きな動物。」
「猫です。」
まるで10にも満たない年齢の人間同士の会話のようだ。
しかし、年を取ってしまったせいで人のプロフィールをあまり理解できないことは増えたと思う。そもそも人の機嫌をうかがって生きてきた私なんかは、人のことなんてほとんど知らないことが多かった。
「私も質問攻めさせて下さいよ。」
「構わん。」
集め終わった紙の束をアドルフが座っている椅子の前の机にドスンとおいて、聞くとあっさり返事が返ってきた。
私は棚から掃除機を取り出し、床のごみを吸い取りながら聞く。最近の掃除機は静かでいい。
「そうですね…好きな食べ物は。」
「イチゴ。」
さっそくアドルフの顔には似つかわしくないかわいらしい単語が出てくる。そんな言葉が出てくるなんて想像もしていなかったわけで、私は少し笑ってしまった。
「おかしいか?」
怒っているわけではなさそうで安心した。
「かわいいなと思っただけです。…嫌いな食べ物は。」
「なすとピーマンだな。」
これまた小さい子供みたいだ。彼と小さい女の子のプロフィールを入れ替えても違和感がなさそうである
さて、今晩から茄子とピーマンを集中的にご飯に忍ばせていこう。
「好きな色は。」
「クリーム色だな。」
この人私より女子力が高いんじゃないかと思う。
質問攻めをお互いにしていたら、大分掃除は進んでいた。アドルフのおかげで退屈せずにできたようだ。私は話し相手がいたほうがはかどるらしい。
床のごみはだいたい消えたんじゃないかと思う。
「大分きれいになったな。俺としては十分すぎるぐらいきれいなんだが…まだお前は満足してないか。」
私は手に雑巾を持っている。
「家具の上とか拭いた方がいいでしょう。床だけじゃないですよ。」
「それなら頼む。」
8時ぐらいにここに来たのだが掃除を終えたのは11時。
「そろそろ昼ご飯を作りにいかないと。」
「一時間でできるのか?」
「できますよ。」
大量に作っていたら時間がかかるだろうし、また凝っても時間がかかるはず。
それだけを見ていたら感覚も狂いそうなものである。
「見ていてもいいか。」
「いいですよ。」
今日のアドルフは私にべったり。そんなに新人の様子が気になるのだろうか。
アドルフを前に食堂の厨房に到着。
私は迷いなく冷蔵庫から食材を取り出していく。
「何を作るんだ?」
「オムライスです。」
「ほう。」
そしてピーマンも手に取る。
それを見たアドルフはゲッというような顔をした。
「ピーマン入れます。」
「さっき嫌いといったばかりだろう。」
「大丈夫です。アドルフでも食べれるようにしますから。」
ピーマンはかなり細かく刻んでケチャップライスに入れるつもりだ。
意識しなければ、そんなに味はしないはずである。
12時になる少し前に7人分の昼食が出来上がった。
アドルフは食堂にお皿を運ぶのを手伝ってくれた。
「手伝わせてすみません。」
「俺がやりたかっただけだ。」
アドルフはそういうけど、こういうところ優しいなと思う。
食堂にはローレンツとハイノがいた。
「アドルフ、マリアのお手伝いですか。偉いですね。」
アドルフを小さい子供のように褒めるローレンツ。その発言にアドルフはすこしだけ眉間にしわを寄せた。
「子ども扱いするな。」
「実際僕の方が年上ですよ。」
「そんなに変わらないだろ。」
そういえば彼らの年齢を私は全く知らない。
「あの、タイミング悪いですが年齢教えてもらってもいいですか。」
私が聞けば、二人の会話は止まり、アドルフはすこし笑い、ローレンツはすぐに口を開いた。
「アドルフは28、僕は30、ハイノは27、エッカは25、クルトは28、ザシャは22ですね。」
完全に頭に入っているのか、ローレンツはすらすらと言葉を並べた。
「みなさんほとんど20代なんですね。」
「マリアは…「19だな。」
私が答える前にアドルフが答えた。
「なんでアドルフが答えるんです。」
「さっき聞いたばかりだからな。」
ちゃんと覚えていたらしい。
「若いですね、マリア。11も違うと感性がずれそうです。」
「ローは物知りだしいいじゃないですか。」
「年寄りになると勝手に知識が入ってくるんですよ。悲しいでしょう。」
絶対嘘だ。年齢を完ぺきに把握している人がよく言う。
昼食が始まると、アドルフは苦い顔をしている。
「味はしませんよ。」
「だよな。」
アドルフは、自分が嫌いなピーマンが入っている主ライスをじっと眺めてからスプーンを手に取り一口食べた。
「うまい。」
「ね、食べれるじゃないですか。嫌いなものなんてアレルギー以外は食べ方次第でどうにかなります。」
「そうだな…。」
アドルフは黙々とスプーンを動かし始めた。
するとクルトが話しかけてくる。
「これピーマン入ってるのよね。」
「はい、そうですよ。」
私が普通に答えるとクルトは目を見開いた。もしやこの人もピーマン嫌いということではないと信じている。
「アドルフが実体の残ってるピーマンを口にしたの初めて見たわ…。やり手ね、マリアちゃん。」
「そうなんですか?」
「そうよ!もう、私たち健康になりそうだわ!」
クルトはケタケタと笑っていた。
食事が終わると皆、午後はやることがあるのかそそくさと食堂から去って行った。
私は食器洗いを始める。
なんとなく顔に触ると、頬に痛みが走った。
「あざがあるの、すっかり忘れてた…。」
皆は気を使ってなのか、ローレンツに言われたのか私のあざについて何も言わない。
腕や足のあざや傷は服で隠れるが、顔は隠しようがないのでみんな気づいているはずだ。
そのせいというのかおかげというのか、私は体中に残る怪我の存在をすっかり忘れていたのである。
体に残っていたあざがほとんど消えてきたころ、アドルフが7時になっても屋敷に帰ってこないことが多くなった。
送り迎えをしているローレンツに聞けば、事態が変わったらしいと言っていたとのこと。
私はアドルフの帰りが遅いと、死んでしまったのではないかと不安になる。
私が不安を顔に出すと、必ずと言っていいほどクルトが声を掛けてくれる。
「マリアちゃん、大丈夫?」
彼はずっと女として振舞ってきたからなのか、人の些細な感情の変化にすぐ気付く。
私は他の人には不安げな表情は見せないようにしていたつもりだったのだが、クルトにはすぐに気づかれてしまったのである。
「すみません、大丈夫です。」
「大丈夫って顔してないわよ。話聞かせてくれないかしら?こう何日も不安そうな顔されちゃこっちの気が気じゃないわ。」
クルトは心配そうな目で私を見ている。
「…いい、ですか?」
「遠慮しなくていいの。ほら言ってみなさい。言ったら楽になるわ。」
クルトは優しく微笑んだ。クルトのやさしさが心にしみる。
「アドルフのことが心配で仕方がないんです。」
「やっぱりそうだったのね。アドルフの帰りが遅くなってから、マリアちゃんが変わったから。」
「アドルフは私をひどい状況から救ってくれました。それにこんなに恵まれたところに置いてもらって、すごく感謝しています。」
クルトがうんうんとうなずく。彼の落ち着いた相槌は私のことも落ち着かせた。
「それに、アドルフと話すのは楽しくて。でも、たくさん話して分かったのが、彼が少し危なっかしいってことです。いつもなんでも平然とこなすけど少しずつ抜けているから。」
掃除ができないと困った顔をした彼の顔が浮かんでくる。
私は意識せず微笑んでいた。
「彼が返ってこないと、死んでしまったんじゃないかと不安になります。あと…さびしいです。」
ある程度吐き出し終わって、私はうつむいた。
うつむいていると涙がこぼれてしまいそうで嫌だった。
すると、クルトが私の目を見ずに、ぽんぽんと私の頭を撫でた。
「アドルフのことが好きなのね。恋ってやつよ。」
好き、そう言われてみればそうかもしれない。
こんなに人に感情を振り回されたのは初めて。今まで恋なんてしたことがないから、これが本当に恋と呼べるのかはわからない。
でも、そうかもしれない。
「恋、ですか。」
「そう、恋。…大丈夫よマリア。あの人は無駄死にしたりなんかしないわ。」
そうだ。彼に限って、突然死んでしまったりなんかしないはずだ。
顔をあげると、クルトが優しい笑顔で笑ってくれた。
ついにその日のうちにアドルフは帰ってこなくて、朝になってやっと彼の姿を見ることができた。
7時にはちゃんと食堂に来て、少し疲れた顔をしていたけれど、普通に食事をとっていた。
いつも通り、食器の後片付けを終えて、食堂に戻るとアドルフは椅子に座ったままじっとしていた。そして、私が出てきたことに気付いた瞬間私に言った。
「マリア、少しいいか?」
「はい、構いません。」
アドルフは何も言わずに立ち上がり、どこかに向かって歩いていく。私は遅れないように小走りで追う。
ついた場所は手術室のような場所。屋敷にこんなところがあるなんて知らなかった。地図には書いていない場所だ。
アドルフの屋敷には似合わない自動ドアが、私たちを迎え入れる。
「なんですか?ここは。」
「隠し部屋だがここであることに特に意味はない。ここなら、確実に誰も来ないし監視カメラがないからここにしただけだ。…話があるんだ。」
アドルフが真剣なまなざしを向けてくるので、思わずつばを飲み込む。
彼がここまで真剣な目をしたところを私は見たことがない。仕事の電話をしている時だって、ここまで真剣な目をしていなかった。
「俺は、明日死ぬかもしれない。」
「え…?」
この国でその言葉がさほど珍しいものではないことはわかっている。アドルフも前、自分がいつ死ぬかわからないと言っていたから覚悟はしていた。
しかし、アドルフへの恋心を自覚してしまっている今、私は動揺を隠せない。
「明日、隣国の戦争について一番偉いやつと会談をする。うまくいかなかったら、死ぬ。」
私が理解できる、業界用語のない簡単な文章で、大事なことを伝えた。
でもその文章は簡単で短くても、重い。
「…そう、ですか。でも、なんで私だけ?」
「ほかの奴らに行ったら力づくで止められそうだったからな。あと、…お前を、愛してしまったから、言わなければならないと思った。行く前に、お前の言葉が欲しかったんだよ。」
アドルフが私を愛しているといった。
私は目の前の整った顔をじっと見つめる。
「死ぬ前に、これだけは言いたかった。…死んだら、忘れていいから。」
「うまくいかないなんて、決めつけないで…。」
自分が明日死ぬと決めつけて、私を期待させないで欲しい。せっかく愛する人から、求めていた言葉をもらったのに。そんなの、忘れることができるわけがないじゃないか。
「うまくいくかもしれないじゃない!まだ…死ぬかどうかなんてわからないでしょう!忘れさせないでよ。私だって、アドルフが好きなの。」
敬語なんて忘れて、声を荒げた。
目からはいつしか涙がこぼれていて、止まる気配がない。
「お前…俺のことが…?」
「そう、好き。愛してる。だから、そんな寂しいこと言わないでよ。」
アドルフは今まで見たことないぐらい、悲しそうに微笑んだ。
「ごめんな。でも、周りはみんなうまくいかないという。成功しても生きて帰ってこれる保証がない。」
「0じゃないでしょ。」
涙が止まらない私を、アドルフはそっと抱き寄せる。
私の背中をさする手は温かいし、心臓は規則正しく動いている。
この手が冷たくなるなんて、信じたくない。
「ねぇ…アドルフ。」
「なんだ。」
「最後っていうなら、私を抱いて。」
アドルフは驚きからか、目を見張った。
「しかし…。」
「もう会えないなんて信じない。でも、あなたの存在を、私に刻んでほしい。」
懇願するような目を彼に向けると、彼は困ったような顔をしたが、少しして私に問いかけた。
「本当にお前はそれでいいのか?」
「…うん。…忘れたくないから、あなたの足跡を私に残して。」
アドルフは一瞬よそを向いて舌打ちをした。彼の眼には涙がたまっていた。
「死ぬことなんて、大したことじゃないと思っていたのに…。」
「私たちは死ぬために生まれたわけじゃない。生きるために生まれたの。」
「お前は、いつもそういうな。…申し訳ないが、余裕ができそうにない。」
私がうなずいて微笑むと、彼は私の服に手を掛けた。
彼がひとつひとつ私のボタンをはずしていくのが、とても長い時間に感じられた。
この時間がずっと続けばいいだなんて思っても、その願いは叶うことは絶対にないから願わない。
せめて、彼の命を奪わないでと、それだけを願う。
私の肌を露出させた後、彼は優しく微笑んだ。
「マリア、泣くな。」
「アドルフだって、泣いているじゃない。」
「泣いてない。」
そう言いつつ彼の涙は止まらなかったようで、一粒、私の頬に零れ落ちた。
アドルフは私を荒々しく抱いた。
それこそ、自分の存在を私の中に刻みつけるように。
脱力した私は動けないまま、すでに着替え終わっている彼を見つめる。
「行ってしまうのね。」
「…ああ。」
私は彼が行くのを止めることはできない。彼が決めたことだ。私はそれを否定しない。
「お願い、帰ってきて…。」
最後の言葉はうまく音にならなかったのか、彼は返事をしなかった。
アドルフはもう泣かない。
無機質な音を立てて開く自動ドアの向こうに彼は消えていった。
私はその後ろ姿を見つめながら、固いベッドの上で涙を零した。
しばらく動けなかった。
それは体が痛いからではない。現実を見たくなかったから。ここにいたら、時間が止まってくれるような気がしたから。
でもやっぱり時間は私のために止まってくれるわけはなくて、私がうじうじしている間にも刻々と時間は過ぎていく。
私はやっと服を整えて、自動ドアをくぐった。
アドルフはこのドアを泣かずにくぐったから、私も泣くことはやめよう。
少し歩き方がおかしくなってしまっているが、私は休むことなく足を進める。
とりあえず部屋に戻ろうとすると、廊下の向こうからローレンツが走ってくるのが見えた。
私の前に着いた時、彼は息切れがひどかった。体が弱いからあまり走ってはいけないはずなのに・
「走ったらダメじゃないですか!」
「それどころじゃないのです。アドルフが…アドルフがいないんです!車がなくて、近くを見回してももういなくて。」
ローレンツは泣きそうな顔をしていた。彼もわかっているのかもしれない。アドルフが彼に何も言わずに屋敷を出て言った意味を。
「ロー…。」
ついにローレンツは泣き出してしまった。
いつもなんでも冷静に判断するローレンツがだ。
「アドルフにはたくさん救われました。僕もここに来るまでは、あまり良い待遇ではありませんでしたから。」
「アドルフは、明日死ぬかもしれないと私に言いました。あと、みんなに言えば力づくで止められそうだから言わないとも。」
ローレンツはすっかり取り乱してしまい、泣きじゃくっている。
私は思わず、指で彼の涙をぬぐった。
「泣かないでくださいよ。私も泣きたくなるじゃないですか。」
せっかくもう泣かないと決めたのに。
「マリアはなぜ泣かないのですか。」
「アドルフは泣きました。でも私の前から消えるときには、しっかり涙を拭ってから行ったからです。」
アドルフは涙を流しながらも、笑った。
「彼らしい、ですね。…僕たちが泣いても意味ないです。僕たちは待つのが使命ですね。」
ローレンツはスーツの裾で涙をしっかり拭き取って、赤くなってしまっている目を、しっかりと細めた。
昼食のとき、ローレンツと私のうっすらと充血した眼を見て、不安に思ったのかクルトが私たちに何があったのかと尋ねてきた。
私は皆にちゃんと話すことにした。できるだけ簡単に。
「みんなに話があります。…アドルフが隣国へ交渉に行きました。銃を持つわけではないですが、死の危険があるといっていました。」
彼らはうつむいた。彼らだってわかっているはずだ。いつかこういう状況になることを。
「なんで止めなかったんだよ。」
エッカルトが大きな体をまるめて、小さな声で言った。
「アドルフだって決意を強いられたはずです。彼が行くと決めたのなら、私たちに止める権利はありません。」
エッカルトはさびしそうにまた、うつむいた。
場が一気に静かになる。無理はない。大事な主人の命の危機に、おびえるのは仕方がないことだ。
するとローレンツが手をパチンとたたいて、立ち上がった。
「暗いのはおしまいです。僕たちが暗ければ帰ってくるものも帰ってきませんよ。笑顔とはいきませんが、せめて、彼が死なないことを信じて待ちましょう。」
最年長のローレンツの言葉はしっかりと使用人全員の心に響いた。
彼は始めこそ取り乱していたが、やはりしっかりしている。彼はこういう時に雰囲気をがらりと変えられる人だ。
「そうだな。俺らがうじうじしてる場合じゃねぇ。」
「そうっすね。その通りっす。」
クルトとハイノもゆっくりとうなずいていた。
アドルフを想う気持ちはみんな同じだ。
彼らだって戦争に行かないという理由で散々罵られたことだろう。
みんなアドルフに救われたのである。
皆の今の願い事は一つだけ。アドルフが帰ってきますように。
数日たってもアドルフが帰ってくる兆しはなかった。
アドルフがいなくなってから2週間たったときには皆、アドルフはどこかで死んでしまったのではないかと思い始め、ぐちを零すこともあった。しかしそのたびにローレンツが慰めに入っていた。
マスメディアから情報を得られないせいで、今の状況は何もわからない。
でも私はどうしても、彼がこんなところで死ぬなんて思えなかった。
マスメディアが働いていないことは十分わかっていたが、一応部屋にあるテレビの電源をつけてみた。
するとやっていないはずのニュース番組がやっている。
「うそでしょ?国家が禁止いていたはずじゃ。」
テレビに大きく終戦の字が映る。終わったって、どういうこと。
テレビの画面にどんどん情報が流れていく。そして、映ったのはアドルフと誰かが話す姿。
アドルフの交渉によって戦争を終わったと、そういうことらしい。
「そんなに偉い人だったんだ。立派…。」
私は言葉を零しながら、涙を垂れ流しにしていた。
廊下からどたどたと走る音が聞こえてくる。
勢いよく扉を開けたのは、ザシャだった。
「アドルフが帰ってきたっすよ!マリア、早く行きましょう!」
私はザシャに思い切り手を引かれて、走る。
玄関には4人の使用人が、アドルフを取り囲んでいた。
「アドルフ…。」
また涙がこぼれた。
私が来たことに気付いたアドルフはすぐに私に駆け寄って、私を抱きしめた。
「おかえりっていってくれないのか。」
「おかえりなさい、アドルフ。」
アドルフは私の涙を指で拭った。でもやっぱりアドルフも泣いていた。
「泣きすぎじゃない?」
「お前もだろ。泣き虫マリア。」
そしてアドルフは、私にそっとキスをした。
周りが驚いた声を上げる。
「なんでここで…。」
「あの時、帰ってきたらしようって決めてたんだ。ちゃんと生きてたら改めてってことで。」
「だからってみんなの前で…。」
恥ずかしくて、アドルフの視線から逃れるように目を背けるとローレンツが淡々とした声色で言った。
「独占欲ですね。こいつは俺のもんだとそういたいのですか、アドルフ。」
「まぁそういうことだが、こういうときぐらいいつもと違うようにふるまえよ。」
アドルフは少しむすっとした。前より表情が豊かになった気がする。
「でも、ローはアドルフがいなくなったことに気付いた時、私に泣きついてた。」
「それは言ってはいけません!」
ローレンツは珍しく恥ずかしそうに言った。
「お前もそんなことできるんだな。」
「ね、そんなことあったの?ねぇ、ロー。」
アドルフはくすくす笑っているが、ハイノは少し怒ったようにローレンツをつついている。
「なんで、僕の前で泣かないの?」
「それは…ハイノの前ではよわっちいところは見せられませんから。」
ポッ。ハイノからそんな音が聞こえた。
玄関先での宴がひと段落ついて、アドルフは疲れたといいながら私の手を引いて部屋に戻った。
「疲れたというなら一人のほうがいいでしょ?」
あの一件ですっかり敬語はなくなってしまった。今更、敬語を使うのも気恥ずかしいからだ。
「いじわるか。せっかく好きなやつのところに帰ってこられたというのに。」
愛をささやくときだけやけに口が達者なアドルフ。
直接的な言葉に、照れてしまうのは仕方がないと思う。
「アドルフの発言を真に受けただけ。…なんでそんなに何度も言うの?」
「いやか?」
「いやじゃないけど、恥ずかしい。」
表情が多少豊かになった気はしたが、こういうときにそれがあまり役に立たないなんて不毛な話だ。アドルフは当たり前のような顔をして愛をささやく。
「前ならこんなに言わなかっただろうな。でも自分が死ぬかもしれない状況に陥って、ちゃんと言わなきゃならないなと思ったんだ。」
いつ死ぬかわからないから、言えることは言えるときに言わないと。アドルフはそう付け足した。
確かにそうだ。私ももし、アドルフが帰ってこなかったらたくさん後悔しただろう。
「前は慌ててしっかり言えなかったから、改めて言わせてくれ。マリア、愛してる。多分初めから。」
「私も…好き。私を救ってくれて、ありがとう。」
アドルフは嬉しそうに笑った。私の頬を撫でながら、にっこりと。
「痣、すっかりなくなったな。つくづくお前の顔には似合わない。きれいな顔に傷をつけるなんて気がしれない。」
「またそんなこと言って…。」
いちゃいちゃするのは慣れない。幸せすぎてどうかしてしまいそうで、どこを見ていればいいかわからなくなる。
やっとアドルフと目を合わせると、アドルフはまたキスをして私に言った。
「結婚でもするか。」
「気が早くない?」
「したい、してくれないか。」
頑固だ。この男は。
大きな仕事が終わったせいか、甘えるに拍車がかかっているきがする。でも、今ぐらいはたっぷり甘やかしてやろう。年の差も、地位も、何も気にせずに。
「喜んで。」
アドルフのおかげで数十年も続いていた我が国のおかしな日常は終わりを告げた。
昔のように男が力仕事をやり、女性は専業主婦になる人も増えた。
そんな中、屋敷の中にはまだ7人ちゃんと残っていた。一人もかけることなく。
しかし、それぞれの関係は大分変わっていた。
まず、私とアドルフは籍をいれた。アドルフが有名人のせいで、ニュースになったりして大変だったのだが、それ以上に結婚できたことはとてもうれしかった。仲良くやっている。
そしてローレンツとハイノは付き合っているらしい。仲がよさそうで何よりだ。
エッカルトは大好きな狩りを思う存分楽しみ、クルトは街に出て恋人探しをしている。相手の性別は定かではない。ザシャはインテリアや服についての資格を取るために日々勉強している。
やっとそれぞれがやりたいことができるようになったが、今までと屋敷の中での役割は変わらない。相変わらずそれぞれが自分の仕事をこなしている。
その理由は他でもないアドルフにある。
いろいろ言いつつみんなアドルフのことを尊敬しているし、大好きなのだ。そして、彼が作ったこの空間が好き。
誰も自分から、このバランスを崩そうなんて思わなかった。
世間の人々は誰も知らない。国の英雄アドルフの心を支えた、アドルフに救われた6人の使用人の話を。
お楽しみいただけたでしょうか。
読んで下さりありがとうございました。