エピローグ
肌触りの良い真白なドレス、その重みはいざ身に付けてみると想像よりも随分と重い。庶民であるなら生涯で唯一度、貴族の女子であっても社交界デビューと結婚時の2回しか身に付けることは叶わない。白とはその色から処女性を意味し、2回目以降の結婚では使われないのだから、その重さは物理的なものだけではないだろう。
貴族の女子は社交界デビューに際し真白なドレスを作り、そしてそれを結婚式でも着るのが慣わしだ。私も社交界デビューのために父が作ったものがあったが、あえてアリステアの母親が結婚した時に作られたものを着る事を決めた。周囲は止めたが、私の我侭が通った形である。幸いな事の養母と私の体型はよく似ていたため、多少の手直しで問題はなかった様だ。
ドレスを掌で撫でてみる。
――きっと綺麗であろうな。
そう思ったのは何時であっただろう。
父の話を聞いてから心のつかえたものが取れたのか、私の記憶は少しずつだが戻ってきている。断片的で時系列もまちまちな記憶がまるで雪が積もっていくかの様に、曖昧だった私という存在を形作る。
戸が静かに鳴らされた。
「どうぞ」
私の声を聞いて入って来たのは予想と違わない、父だった。
立ち上がって迎える私をしばし見つめた後、父は眩しそうに目を細めた。
「あぁ……綺麗だ」
その声は感嘆とそして諸々の複雑な感情が混じって微かに震えていたが、私はそれに気付かないふりをして同じ様に目を細める。父の目に映っている私はこの人と似ている所が一つとしてない。しかし浮かべた表情は不思議なまでにそっくりだった。
何だか私まで父と同じ様に声が震えそうで、努めて明るく言った。
「ふふふ、何だか今生の別れみたいだわ。そんなはずはないでしょう、父様。父様が鬱陶しいと思っても私は今まで通り屋敷で暮らすのですからね」
「そう言ってくれるな。お前はまだ分からないかもしれないが、娘を送り出す父親とは何時の時代でも複雑なものさ。私に限った事ではない」
私達の間には一滴の血の繋がりがなくとも、今まで親子として過ごした時間がある。そしてその時間はこれからも続いていくのだろう。
「父様の娘は私一人なのですから、ヴァージンロードを歩くのはこれできっと最後のはずよ。今からこんな状態ではその最後の機会が心配になってしまうわ」
私はおどけた様に肩をすくめてみせて、ひと呼吸を置いた後、父を見上げた。
何だか照れくさい、今でさえ微かに目を潤ませている父の姿は私を妙に気恥ずかしくさせる。
しかし、不思議と心は穏やかだった。
私はこの後神の前で誓うことで正式にアリステアの妻となる。決して今まで通りではいかない。しかしこんなにも心が凪いでいるのは、どれだけ変わっても変わらないものがあると確信できるからだ。
「父様、私幸せよ」
「……勿論だとも。この私が娘のお前を誰よりも幸せにできる男を、腕によりをかけて探し出したのだから」
「いいえ……、勿論それもあるのだけれど……」
私はしばし言いよどんだ。これから先の言葉を口にするのは、多少の羞恥を伴う。しかし言葉にしなければ伝わらない事もあると、私達親娘は学んだはずだった。だから、私は僅かに頬を赤らめて口を開く。
「私、父様の娘として生まれて、幸せだったわ。そしてそれはこの先も変わらないはずよ」
「……っ」
「本当に私達はよく似ているわね。臆病で、こんな言葉ひとつ満足に口に出せないのですもの。でもしようがないのだわ。……だって私達親子だから」
息を呑んだ父はその大きな片手で顔を覆い、顔を背けた。しかしそんな事では彼の表情を隠す事はできない。
でも、きっと隠す必要などないのだ。
「さぁ、行きましょう。準備が長いのは女の専売特許なのに、主役の私より父様が遅れては、笑いものにされてしまうわ」
自然光が煌々と差し込む神殿内に扉が開けられた一瞬、視界が真白に染まった。
次第に視界がはっきりするにつれて視線の先に立つ人物の姿が鮮明になる。彼は私を見ると暫し瞠目し、そして常の穏やかな表情を浮かべた。
父の腕を取って静かに進む。
次第に彼との距離が縮み、ぴたり、と足が止まった。そこで父の腕が静かに外され、背中を優しく押される。
私は背後を振り返り、蜂蜜色の瞳を見つめる。私達の間にはかなりの身長差があるから、彼と視線を合わせようとしたら顔ごと上を向けなくてはならない。
父は私に向かって頷くと、くしゃりと笑った。それは笑顔とも泣き顔ともとれる、端整な顔立ちの父には、お世辞にも相応しい表情とは思えない。でも、この表情が何よりも愛しく思える。
しばしの間父と見つめあい、私は夫となる男を振り向いた。
そして彼と私は小さく頷き合い、神への誓いを口にするため、そっと声を出したのだった――。