8
意識がゆっくりと浮かび上がっていくのを感じる。あぁ、目覚めるのだ、と分かった。
目覚めて視界に入って来るのはよく見慣れた部屋だった。つまりは、私はアリステアの屋敷で倒れてから、その間に自分の屋敷へと運ばれたのだろう。アリステアは随分と迷惑と心配をかけただろうから、また謝罪と感謝を直接伝えなければ、と何処か冷静に考える。
そこでふと、自分の右手が重い事に気付いた。
「……父様」
思わず漏れ出た声は小さく掠れ、細く夜の闇の中に溶けていく様だった。
眠っていた私の右手を握り、寝台に上半身を預ける様にして倒れ付していたのは他でもない父だった。おそらくは眠る私の様子を見守るつもりで眠ってしまったのだろう。
あまりに小さな声、しかし浅い眠りを繰り返していた父には届いた様で、寝台に広がる蜂蜜色の髪がふるりと震える。
「リサ……?」
暗闇の中、まるで自ら光を発している様な髪と目が浮かび上がる。そのため父の表情をはっきりととらえる事は出来なかった。でも、だからこそ聞けるかもしれない。
「……父様、母様はどの様な方だったのですか」
目覚めた後の第一声、それに相応しい言葉は他にもたくさんあっただろう。むしろ私のこと言葉は誰が聞いても唐突だと感じるに違いない。しかし私はこの機会を逃したら何時になってもこの父と向き合えない気がした。
「……何時か聞かれるのではないかと思っていたよ。どれだけ隠したところで聡いお前のことだ、どこからか不自然さを感じたに違いないのだから」
訪れたアリステアの屋敷、そこにあったロング・ギャラリー。それはこの屋敷にも勿論存在する。そこにあるのはこの一族が所蔵している美術品の一部は勿論のこと、この屋敷の代々の主やその家族達の肖像画もあった。一応は貴族であるから、その枚数はアリステアの屋敷より遥かに多い。描かせた人間によっては時間を空けて複数枚描かれている人物もいる。しかしこの屋敷には幼少期の父らしき少年、そしてその両親らしき人物達が描かれている肖像画が最も新しいものだった。つまり、母や私が描かれている物は一枚として存在しない。
違和感は他にも探せば見つかるが、この屋敷の中で不自然なほど母の存在が巧妙に隠されている事は紛れも無い事実だった。
「そうだね、リサ。ある愚かな一人の男の話をしようか」
恐れや諦観、そしてある種の晴れ晴れしさ、そうしたものが複雑に絡み合った父の声音に、私は静かに耳を傾ける事にした。
「その男はあるしがない貴族の家の一人息子として生まれた。幸か不幸か両親の子供は彼一人、必然的にその家を継ぐのは彼しかいない。加えて容姿も悪くなかったから、なかなか鼻持ちなら無い性格に育ってしまった。その傲慢さと浅慮で取り返しのつかない事態を引き起こすまで、男は自身のどうしようもない欠陥に思い当たりもしなかったんだ」
深い悔恨が滲む声、それから父が語る‘男’が何者なのか私には分かったが口を挟んだりはしなかった。
「男は器用な性質だったから、大方の事をこなせる能力があった事も災いしてね、加えて外面を取り繕う事も上手かったから本人も含めて誰も男の欠陥を気付ける人間はいなかった。声をかけるまでもなく女は寄ってくる、欲を発散する相手に事欠いた事はなかった。花から花へ渡る行為は、男がある女と結婚しても止まらなかった」
ある女性の悲哀が目に浮かぶ様だった。
「男の妻になった女は隣国でもなかなか高位の家でね。本来ならばしがない貴族の生まれの男が娶れるはずのない女性だった。しかし女は妾腹の出で、生家でもあまり良い扱いはされていなかったらしい。だから男の様な身分の人間でも娶る事ができた訳だが……。女はその不幸な出自故に男の不誠実な行為が許せなかったのだろうね。男の前では何も感じていない様に振舞っていたが……」
父の目が数瞬、何者かの面影を思い出すかの様に宙を彷徨った。
「女は誰にも知られる事なく少しずつ狂っていった。いや……彼女の静かな崩壊に気付いていた人間は居たね。それは女の夫である男ではなかったけれど」
女が生家から連れてきた唯一人の人間。交わした僅かな言葉の中から、その人物が女の乳兄弟で幼い頃から兄弟同然に育ってきた人物だと知っていた。女はその人物にだけはその全てを晒していたのだ、そう、その‘男’に。
「彼と女の間に何があったのかはもう誰も知らない。しかし女が産んだのは、身体に宿す色彩まで女と寸分変わらない赤子だった。その赤子の父親が男ではない事は誰の目にも明らかで、そしてその赤子の父親が誰なのかも同じくらい明白だったよ。なにせ、男と女が暮らす屋敷に存在した女と同郷の人間は、その‘従者’一人だったのだから」
当時隣国との国交はまだごく限られていた。むしろその女の様に嫁いできた例の方が稀であっただろう。そしておそらくは、女の生家での扱いから、それは嫁入りというより追放といった意味合いの方が強かったのではないだろうか。
つまり、この国の人間とはあまりに外見の異なる隣国の人間達、そんな人物が周囲に存在すれば今以上に目立ったに違いない。‘女’とその‘従者’以外にそんな人物が居たら必ず誰かの耳に入っていたはずだ。しかしそんな人物は何処にも存在しなかった。
「男は身勝手にも自身の行いは棚に上げて、女とその従者を激しく責め立てた。特に従者にはかなりきつく当たった。しかし従者の口から出てくる言葉は女をかばうものばかり」
女と従者の間にあったのが男女の愛情であったのか、それとも家族の様なそれだったのか、それは本人達にしか分からないだろう。しかし両者の間には紛れも無い強い絆が存在していた。……だから、あの様な悲劇が起こってしまったのだ。
「ある日、従者の遺体が発見された。食器を己の喉に突き立てた……自殺だったのだろう。そしてその遺体の傍には、全ての罪は自分にある事、その罪は自分が残さず抱いて逝く事、そして女には微塵も罪がない事、要約するとその様な内容だったのだろう」
ある意味それは従者の全身全霊をかけた女への告白だったのかもしれない。正真正銘、命をかけた愛情の欠片だ。
「……従者の死を知った女はもはや修復が困難なほど、完全に壊れてしまった。女にとって従者という存在がかろうじて正気を保っていられる楔だったのだろう」
生家での辛い暮らしの中、互いを支えあった存在。家族とも恋人とも名づけ難い関係は、しかしどれだけ周囲から見たら歪なものだったとしても、それはお互いにとって唯一無二だったはずだ。
そんな関係であったから、従者は自分が死ねば女がどうなってしまうか十分に理解していたのではないだろうか。ならば従者の自殺、それは女の罪を軽減させるのが目的だったのではなく、罪の証を産み落としてしまった女が死よりもつらい道を辿るのを防ぐ事だったのではないか。つまりは、覚めない永遠の夢へと女を誘う、それこそが最も大きな目的だったのではないか、そんな穿った味方さえできる。またそれだけではなく、従者の死、そして女の精神の崩壊は女の夫である男の罪悪感を巧みに刺激していた。その罪悪感から女の‘娘’を過剰な愛情をもって育てるに至っている。……それは果たして偶然だったのだろうか?
「しかも最低な事にね、男は女が正気を失ってから初めて女への想いに気付いたんだ。それは欲を伴う様なものではなく、もっと淡く幼いもので……まるで、思春期の少年のようだろう?きっとそれは男にとって初恋だったに違いない」
他の女には言葉が簡単に出てくるのに、肝心の妻にはかける言葉一つが思い浮かばず。そして交わした言葉はほんの僅かだった。もう何も語らず見もしない女との間に残された記憶は、両手で抱えるくらいしか存在しない。しかも、もう女と共に思い出を紡ぐ機会は永遠に失われたのだ。ほとんど男自身の手によって。
「馬鹿だろう?本当に大切なものほど失って初めて気付くと誰かが言ったけれど、本当に失ってから気付くのは救いようのない愚か者だ。……失ってしまえばもう二度と取り戻せないのだから」
日に日に女に似てくる娘を傍で見続けるのはどんな気持ちだったのだろうか。
そしてそこにあったのは罪悪感だけだったのだろうか。
「……この話は君が事故に遭うほんの少し前にもしたんだ。君はその時も同じ事を私に聞いたね。……だから、事故に遭って君が記憶を失くしている事を知った時。私はそれがこの話が原因だとすぐに気付いたよ。君が失くしてしまいたい記憶は、これだったのだね」
父はそう言うと小さく嗤った。それは他でもない自分自身に向けた嘲笑だった。
「でもね、君が記憶を失って、そうしてまた一から親子として過ごして。そしてまた君に同じ事を尋ねられて。私は自分の思い違いにやっと気付いたんだ。……そう、あの時も、本当に君に伝えるべきは私の罪の告白ではなかったんだね。怖がって言葉にできなかった想いを、君には正直に伝えるべきだった」
父の暖かな手が私の頬を包んだ。
暗闇の中、晴れやかな、それでいて泣き出しそうな父の笑顔が見える様だった。
「私は過去の私を許せる事はきっと死んでもないだろう。この罪はずっと抱えて生きていく。この身体に纏わり付く罪悪感が消える事はないだろう。……それでもね、」
父の掌が私の頬を滑っていく。それは何かを拭う動作をした。……私の頬を濡らすものは何なのだろう?
「それでも、君を愛おしいと想う気持ち、そしてこの腕の中で慈しんで来た日々に、偽りは一欠けらも存在しなかったのだよ」
父の目元が闇夜に光った気がした。そして私の目も同じ様に光っているのだろう。
「……馬鹿だね、こうして私の腕から君がもうすぐ旅立つ、それだけの時間がかからないと、こんな言葉一つ満足に言えないのだから」
例え私達の間に同じ血が一滴も流れていなくても、この何処までも不器用な所は同じなのだろう。