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そうアリステアに言われたものの、あれから1ヶ月程経った今でも私は父には何も聞けないままだった。その間にも私とアリステアの結婚への準備は私の知らないところで着々と進められ、何も問題が起きなければ長い冬が明けたら結婚する事になると父には聞かされた。つまり、あと3ヶ月程で彼と夫婦になるのだ。
それまでにはこの曖昧な状態を何とかしたいと思う。
勿論、父の唯一の子供が私という事になっているから、アリステアが婿入りという形になる。父は夫婦水入らずが良ければ私達の別宅を新たに建てようかと言っていたが、私とアリステアはその話を断ったため、結婚後も今と変わらず屋敷で暮らす事になるだろう。つまり、結婚しても父とは変わらずに顔を合わせるのだ。一歩間違えれば曖昧な親子関係に決定的な亀裂を入れるに違いない問い、人によってはこれから同じ屋敷で暮らす事になるのだからこのまま曖昧な関係のままでも良いと言うだろう。正直に言うと私自身も何度もそう思った。これからも小さなしこりを残したままにするのか、それとも再生か破滅かしかない極端な道か。
私にとっては僅か2年と少ししか記憶にない父親、何処かで彼を恐れながらしかし何時の間にか父は簡単には切り離せない存在となっていた。もしかしたら失くしたと思い込んでいる記憶も、こうして私の中のそこかしこに息づいているのかもしれない。
そうして悶々と日々を過ごす中、アリステアに彼の屋敷へと招待された。私達の交流はもっぱら彼が私を訪れる事で成り立っていたため、もうじき名実共に夫婦となるのにこれまで彼の居宅を訪れたのは皆無である。その事にアリステアの招待を受けて初めて気付き、自分の迂闊さというか無頓着さに呆れた。その事はぽつりと漏らすとアリステアは苦笑し、誰から聞いたのか事の仔細を知っていた父にも後で呆れられた。しかし父によると私のこうした気性は記憶を失う以前からのものらしいので、今更どうにもならないと半ば諦めの気持ちである。
そうして訪れたアリステアの住む屋敷は、勿論の事ながら私と父が暮らす屋敷に比べればこじんまりとしている。しかし私達の一族の傍系とは言え爵位も領地も持たない家系である事を考慮すれば、かなり立派な佇まいと言えるだろう。何でも彼の祖先は私達の一族の領地経営を支える一方で、代々目端が利く性質を生かしてこの国の流通の一部を担っていたらしい。本業は領地経営の補佐であるため首都の大規模な商会などとは規模が違うが、堅実な商売で着実に資産を増やしていたのだろう。聞くところによると母達の生国の菓子類をこの国に始めて持ち込んだのがアリステアの父親、もう少しで私の義父となる人物という。
「母が幼少期にこの国に渡った事は以前にお話しましたね。そのため、彼女は外見こそこの国の人間と異なっていましたが、殆どこの国の民と大差なかったと聞きます。この国の大半から見れば脆弱に見える容姿ですが、案外に丈夫だった様ですよ」
そんな彼の母親も私の母同様にアリステアが成年となる前に亡くなった様だ。私の母よりは長く生きたのだろうが、それにしても若い死だったのだろう。
私は彼の話を聞きながら、ふと胸の片隅が強烈に痛んだ気がした。それに一瞬身体を硬直させて表情を歪めるが、それが余りにあっという間であったために私の異変は数歩前を歩くアリステアには気付かれなかったらしい。
少し離れてしまった彼との距離を不自然に思われない程度に再び詰めた頃には、先程の胸の痛みは初めからそんなものはなかった様に消え去っていた。そのためアリステアの話を聞くにつれて、気のせいだろうとほんの少しの異変はすぐに記憶の彼方へ行ってしまった。
「あぁ、これだ。ご覧下さい」
歩くアリステアによって案内されたのは長い歩廊形の部屋だ。ロング・ギャラリーと呼ばれるもので、私の住む屋敷にももっと長大な部屋が存在する。どちらにしてもその活用方法は何処でもほぼ同じで、もっぱら美術品の展示に使われている。
そのロング・ギャラリーと奥には額縁に収まった絵画が並んでいる。そこに描かれているのは人物ばかりで、同様の構図のものが何枚も並んでいることからアリステアの祖先たちや代々の当主、その家族達が描かれた肖像画であることがうかがえる。
その中でも絵の状態から比較的新しいと思われる物の前でアリステアは立ち止まり、私にも見える様に身体の位置をずらしながら右手でそれを示した。
「これが私の母親ですよ」
そこには金髪碧眼の男性とその人物に比べると哀れなほどに細く小さい黒髪黒目の女性、そして10くらいの茶色の髪と目の少年が描かれていた。言うまでも無くこれはアリステアとその両親、彼の母親が存命だった頃に描かれた肖像画なのだろう。
私は彼の示す女性をまじまじと見つめた。
その女性は優しそうな面立ちで、精悍な造作のアリステアの父親を見る限るアリステアの顔立ちはこの女性に似たのだろう。どちらかと言えばきつい顔立ちで、おそらくは私の母親もそういった造作であると考えられるため、この女性と母は全く異なった雰囲気であろう。しかし持つ色彩や体格と言ったものは私自身とも同じであり、民族的特徴という点では類似点は多い。
私はアリステアの母親へと視線が吸い寄せられるのを感じた。
――私はこの人を知っている。
子供を育み、母親らしい抱擁感が感じられる慈愛溢れる表情。しかし私が知っているのはもっと無邪気で幼女の様な……。
私は強烈な眩暈を感じてよろめいた。それに気付いたアリステアが私の腰を慌てて引き寄せる。ぼんやりとした視界にやけに焦った表情のアリステアが映った。彼は何度も私の名前らしきものを呼んでいる様だが、はっきりとは耳に入ってこない。
――そして失った意識の中で見たのは余りにも懐かしく、切ない程に優しい夢だった。
無残に破壊された馬車、周囲に散らばる屍、屍。男は必死にその中から目的の人物を探していた。その中に彼の人がいない事に安心し、同時に何処にも見当たらない事に焦りと苛立ちを覚え、その破壊の足跡のすぐ近くの崖から眼下を見下ろした。
――そこに見えたのは、月明かりに照らされる真白な雪と対照的な長い、黒髪。
ひゅっと息を呑んだ。最悪の予想に空気の寒さが原因ではない震えが全身に走る。
彼の人の命は男の感知しない場所で失われてしまったのか。その命だけは――に託されたというのに。
男は焦りながらで崖の下へ降りられる道を探し、踏み固められていない処女雪の上に降り立った。
倒れた女の上に薄く雪が降り積もり、その幻想的な光景に状況も忘れて男が息を呑む。しかしすぐに震える手で女の口元に手をやった。
細く、弱々しいながらも感じられる確かな息。……女は確かに生きている。らしくも無く泣きそうになりながらも、女を両腕にそっと抱き上げた。
早く彼女を治療しなくては。彼女の命が今度こそ失われる事などないように。
男は足早にその場を立ち去った。
ある国にある程度の地位を持つ男が居た。その国では長らくきな臭い状況が続き、ついにその魔の手は男の元にまで伸ばされようとしている。
男は自身の書斎で固く目を閉じた。息苦しい沈黙が続く中、ついに男は口を開く。
「……妻を頼めるだろうか」
「……それがお前の頼みとあれば」
書斎に居たのは男だけではなかった。その部屋の片隅、そこに立つ男は苦渋に満ちた書斎の主の問いに努めて淡々と返す。いくらその胸中が荒れ狂っていたとしても、目の前の男の決めた事ならばそれに従うしかなかったからだ。
「お前には大きな物を背負わしてしまう……」
「お前ほどではないだろう」
書斎の隅に壁に寄りかかる様にして立っていた男は、書斎の中央へと歩んだ。それによって暗闇から現れる様に書斎の主の目には映った。
僅かな蝋の灯りによって歩んでく男の明るい髪がきらりと光る。
「お前とこうして会うのは最後になるかもしれない。……いやきっとそうだろう」
「そう縁起でもない事を言うな。らしくもなく弱気だな」
「この状況の厳しさ、私に分からないはずがないだろう?だからこうしてお前に私の一等大切なものを託すのだ」
頼むよ、そう言って男の手を握る手、それは男でさえも一瞬痛みに顔を歪める程の力だった。どちらかと言うまでも無く荒事に関係のないこの書斎の主の何処に、こんな力が隠されていたというのだろう。
しかしそれほどまでにこの男は必死だった。
彼の何よりも大切なもの、それを守るために。
――そうして託された命だった。