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この1年の私とアリステアは婚約者候補から正式な婚約者へとその関係を変えた。と言っても彼と私自身はたいして変わっていなかったが、周囲が、特に父が黙っていなかった結果である。どうやら父はこの1年でアリステアを見極め、そして無事合格となったようだ。
婚約が正式となったと父の口から聞いた時は、相手――つまりアリステアのことだ――の気持ちも尊重する必要がある事をそれとなく言ってみたが、父曰くこれは向こうの希望でもあるという。
この話を父に聞いた後にアリステアに会った時にこの話についてさり気なく尋ねた。
「先日父に聞いたのですが……」
「私達の婚約の話ですか?」
いや、さり気なく聞くつもりだった。しかしどう切り出すべきか言いよどむうちに、物言いたげな私の様子に何を尋ねたいのかすぐに分かったらしい。
「もうお聞きになったのですね」
「えぇ、父から」
「そうですか……」
しばらく沈黙が私達の間に流れた。私はお茶で唇を潤し、躊躇いがちに口を開いた。
「父に気を使っているのならば、気にする必要はありません。貴方にも自由に選ぶ権利がある」
「以前から思っていたかのですが……」
彼は少し疲れた様な、それでいて何処か怒っている様にも見える表情で首を左右に振った。
「貴女は少々自分を過小評価している様に思います」
「……そうでしょうか?」
「勿論謙虚なのは貴女の長所であるし、それ自体を否定するつもりはありません。ですが過ぎた謙虚さは短所ですよ」
「その様なつもりはないのですが」
「人は自分の事ほど分かっていないものです。ですから無意識のうちに他人の評価を気にするのではないのでしょうか。そこに自分自身を見るからです」
彼の言葉にそうかもしれない、と思う。他人に言った事は無いが私はいつも自分が分からなくて不安で、何処かで他人が自分をどう思っているのか気にしているのだ。もしかしたら彼は私が常に不安を感じている事、そしてその不安の原因を何となく悟っているからこの様な事を口にしたのかもしれない、と後になって私は思った。
「人は自分だけで完結できません。他人との関わりの中で自分を創っていくのです。自分だけで生きていける人など、とても強いと同時にとても孤独だとは思いませんか?」
アリステアは何時の間にか冷たくなっていた私の手をそっと握った。彼の手はほんのりと温かくて、少しほっとする。
「だから私はこうして貴女に言葉を尽くそうと思います。貴女の魅力を伝える時もあるし、こうして短所を指摘する事だってあるでしょう。それがどうしてだか分かりますか?」
「いいえ」
「私が貴女の事をもっと知りたいと思っているし、同時に私の事をもっと知って欲しいと思うからです。でなくては、こんな事を言いませんよ。当たり障りない関係を築くのなら、耳触りの良い言葉だけを言うか、あるいは必要以上に関わらなければいいのですから」
アリステアの目はいつも以上に真っ直ぐだった。いつも微妙に相手の視線から目を逸らしている私だが、この日の彼はそれを許してくれなさそうな強い視線だ。
「お分かりですね?私は貴女の父上や私の父の意向に従ったから、この婚約の話を受けたのではありませんよ。そこに私の気持ちがないのなら、私達はこんな関係ではなかったはずだ。もっと義務的で他人同然な関係になったでしょう。違いますか?」
そう思っていたのは私だけでしたか?
そう優しくて、切ない声音の彼の声に私は急いで首を振った。彼の態度は何時も誠実で優しくて、そこにはいつも私への思いやりがあった事を誰よりも私は知っている。何時の間にかただの婚約者候補ではなくて、これから先の人生を共にする相手として相手を見ていたのは私も同じだった。
それを分かっていて彼を信じ切れなかったのは、まして彼の気持ちを尋ねなかったのは私がただ臆病だったからに過ぎない。私は本当に信じられないのは彼ではなくて、自身だ。
彼はこれから共に過ごすのならば、それではいけないと言う。
「貴女が私を信じきれないと言うのならば、私は貴女の信頼を勝ち得る様に努力を致しましょう。言葉で行動で、貴女の懸念を払うために尽くします。しかし貴女が貴女自身を信じきれず、自分自身を貶す事は私だけの努力ではどうにもなりません。それは誰であっても、ほんの少し背中を押す事しか出来ないのではないですか?」
アリステアは本来それ程口数が多い方ではない。私に比べれば多いが、それ私が極端に口数が少ないだけである。
つまり何が言いたいのかと言えば、彼は普段は言葉を尽くすよりも態度で示す人間である。その普段の姿勢を崩すくらい、私と向き合おうとしているという事だ。ならば私もそれに応えるべきなのだろう。
「……不安なのです」
「私にはその不安の原因をお話する事はできませんか?」
アリステアは繋がれた手に込められている力をほんの少し強くした様だった。そういえば、彼はこういった事に妙に律儀だから、こうしてアリステアの方から私の身体に触れてくる事が極端に少なかったと頭の片隅で思った。もしかしたらこうも積極的に接触を持ったのは初めてだったかもしれない。
「私の失くした記憶が戻りかけているかもしれません」
「……そうですか。これで貴女の不安の原因の一つが解消されるのではないですか?」
やはりアリステアは気が付いていた様だ。私の記憶が無い事、そして記憶を失う以前の自分については極力彼を含めて周囲の人間には口にはしなかった。それは欠けた記憶が何時戻るとも知れない不安をなるべく周囲に――特に私関して過剰な心配をする父に――知られなかった事もあるし、万が一記憶を失う以前と現在の自分の間に乖離を見つけたら、正気を保っていられる自信がなかったからだ。
口に出さない事でそれらの不安から目を逸らしていた事、それはこの青年に気付かれていたのだろう。しかし彼はあえてそれを指摘しない事で私の事を見守ってくれていたのだ。
「でも……知るのが怖いのです」
「どうしてですか?」
「周りの人達はいつも優しいのです。誰も私の記憶が戻る様に急かす事はしません。しかしそれが唯の優しさだけではないのもまた、私は知っているのです。……貴方もその事はご存知でしょう?」
いつも聞きたくて誰にも聞けなかった事。それはアリステアもきっと知っているだろうと以前から私は確信していた。
案の定、そう尋ねると彼は僅かに苦笑して首を左右に振った。
「貴女の不安を取り除くために私が知っている事はいくらでもお教えしたいところですが、これを貴女が尋ねるべきは私ではありません。私の知っている事は全てではありませんし、この事に関して無関係である私の口から語られる事は正しく真実とは言えませんから」
そして彼が口を割らないだろう事も同時に確信していた。
私の周囲にいる人達は記憶の無い私を優しく見守っていてくれていた。その態度は優しさにも私の全てを受け入れてくれている寛容さにも見えるだろう。しかしそれだけではない。彼らの態度は父の意向も大きく影響しているのもまた事実だった。
幼い頃に母を亡くし、それ以来父は後妻を娶る事もなく今まで私達は2人きりの家族だった。私が事故にあったからから父が以上に心配しているのは知っているが、父の態度からそれ以前も仲の良い親子関係を築いていたのだろうと推測できる。
それがある日突然娘が事故にあって自分を含めてこれまでの記憶を失っているのだ。理性では仕様がない事だと理解していても、感情面ではなかなか理解できないだろう。娘の中に記憶の欠如を見つける度にやるせない気持ちを抱くのが親というものではないだろうか。しかし父は私の記憶が戻っていない事を折々に確認する度に、その目の奥には悲しさや淋しさに加えて隠しようのない安堵も滲んでいる事に私は早くから気付いていたのだ。
そんな彼に何を尋ねられるだろう。
少なくともこの、どこか歪な親子関係を壊すかもしれない勇気は私にはなかったのだ。
「私では多くは語れませんが……。これだけは言えます。貴女の父上は間違いなく貴女を愛しているという事です。……そして貴女の母上のことも」
あの方も貴女同様にどうしようもなく不器用で、何時も何かに囚われていらっしゃいますから。
そう言う彼は、本当に困ったものだと苦笑気味だった。しかし同時にとても優しかった。