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目が覚めて一番に視界に映ったのは蜂蜜色の目と髪だった。
――舐めたら、甘そうね……。
――そう言ったのは誰だったかしら……?
ぼんやりとした私をじっと見つめていた瞳が甘く溶けた。いや、溶けたのではなく、溢れ出しそうな涙がかろうじて瞳に止まっているからそう見えているだけだろう。
心配そうな顔、それは今の私の一番最初の記憶の父の顔とよく似ている。
「目が覚めたかい、リサ?私のことが分かる?」
「父様……」
「そうだよ、リサ……」
私の声は掠れてとても聞き取り難かったが、父はこの声を聞いて僅かに声を震わせている。あぁ、また心配させてしまったな、とぼんやり思った。
「アリステア君に聞いて驚いたよ。いきなり倒れたのだって?やはりお医者様に一度きちんと診てもらうべきだと思うのだけど」
私はその言葉に緩く首を振る。診てもらうまでもなく、私のここ最近の不調の原因はうすうす分かっているのだ。
私の仕草に父は困ったものだ、と眉を下げた。
「君が心配しすぎなのだと思っている事は知っているよ。でもそう思うのなら、私をこれ以上心配させないで欲しい。倒れたと聞いてどれだけ私が驚いたと思うんだ」
「ごめんなさい……」
「まあ、君がどう思っていようと、お医者様に診て頂くのは決定だ。本当に何も異常がないのなら、それが分かるだけで安心できるだろう?」
父はそれにしても、と少し苦い顔をする。
「いや……本当に異常がないのならそれはそれで問題ではないかい?最近の君が少しおかしいよ。妙にぼうっとしている事が増えたし、こうして倒れる事もある。原因が分からないほど怖い事はなかなかないからね」
「いえ……原因は何となく分かっています」
私がそう言うと、父はいつもの微笑んでいる様な表情のまま僅かな間固まった。そしてすぐに無表情にも見える真剣な表情をする。父は基本的な顔の造作は甘く整っているし、常に微笑んでいる様な表情をしている(ただしおそらくこの表情は彼にとってはほぼ無表情と同義と思われる)ため柔和な印象を相手に抱かせるだろう。しかしこうして一旦表情を失くすと急に威圧感がある。
「そうなのかい?やはりどこか調子が悪いのかな」
「いえ、そうではなくて……何て言えばいいのか……」
私は一瞬、自分の記憶が戻りかけているかもしれない事を父に言おうと思った。しかしそうして開きかけた口は何故だか何も言葉を発する前に閉じてしまう。私は何を恐れているのか。きっと父なら本当の意味での私の快癒を喜んでくれるはずだ。
そう思うのになかなか言葉を続けられない自分自身に内心で困惑しながら、私は曖昧に微笑んで言葉を濁す道を選んだ。
「何でもないです」
聡い父のことだ、私の下手な誤魔化しなど見抜いてしまっているだろう。彼は何か言いたそうにしながらも、結局は私を問い詰める事はしなかった。
本当に優しい人だ。私はきっとこの優しさに救われているのだろう。しかしその優しさは時に私を苦しめるのだった。すっと引いていく手、それが私を気遣ったがためだと理解しながらもなお、そこに空いた距離が私達親子の間に横たわる決定的な溝の様に思えてならないからだ。
――私は何て贅沢で傲慢で残酷なのだろう。
そう思えども、私の気性の端々は非常にこの父に類似している部分がある。姿形は全く似ていないのに、何とも皮肉なものだ。
私は静かに瞼を閉じる。
視界を遮ったところで、訪れる闇は僅かな間の逃避にしか過ぎないと理解して。
「お加減はいかがでしょうか」
柔らかな色合いでまとめられた女性が好みそうな花束を携えてアリステアが私のもとを訪れたのは、私が倒れた日から数日過ぎた頃だった。正直なところ、この所妙な時間に寝て時間を過ごしていたせいでどうも時間間隔が曖昧である。そのため、この青年と会ったのが正確に何日前だったのかは定かでなかった。
「この様な見苦しい格好で申し訳ありません」
「いいえ、無理を言ったのは私の方ですから、貴女が気になさる必要は全くありません」
私はアリステアがそっと差し出した花束を両手で受け取る。鼻腔をくすぐる香りは、体調の悪い人間であっても気分を害する事のない柔らかな香りで、決して体調が悪い訳ではない私も目を細めて花々の匂いを僅かの間堪能した。
部屋の中にいる侍女の一人に花束を託し、目の前の青年と向き合う。
彼と最後に会ったのは私が倒れ、そしてこの青年と初めて会ったあの日以来だった。
急に目の前で倒れられてさぞ迷惑を被っただろうに、彼は相も変わらず日向の様な笑みを浮かべて私が身体を起こしている寝台の近くの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
確かに倒れてしまった私ではあるが、体調自体はすこぶる良い。しかし心配する父と大事をとるようにとのお医者様の言葉により、私は未だに寝台から満足に起き上がれないでいる。しかしこうして寝たきりの方が身体に悪いのではないかと思うのは私だけなのだろうか。
そのため寝台に横たわっている私は夜着とは言わないまでも、かなり楽な格好である。体調が悪くないにも関わらずこの様な格好で寝台に横たわったままとは、本来ならば客人、しかも異性を迎えるにはかなり非常識な状態と言えるだろう。そもそもが男性を未婚の女性の部屋に入れる事自体が非常識とも言える。しかしこうでもなければ彼と会うのはもっと先になっていたことだろう。主に父の決定により。
しかしその代わりと言えるのか、部屋には常に数人の侍女が静かに待機しており、部屋で未婚の男女が二人きりにならないように配慮されていた。勿論父が本当にアリステアを信用していない訳ではなく、こういう時にはまず‘二人きりではなかった’という事実が大切なのである。本当に何もなくても、火の無いところに煙をたてるのが人間という生物なのだから。
「体調はむしろ良い方です。むしろ、こうして寝台の上に居続けている方が体調を崩してしまいそうです」
「そうおっしゃらないで下さい。貴女の父上も心配でならないのですよ」
「分かっています。ただ、これは私の率直な感想」
「ふふ……そうですか」
初めの時のぎこちない遣り取りなど存在しなかった様に今日の彼との会話は自然に続けられる。心地よい柔らかな空気に無意識にふと頬を緩ませると、そんな私の様子をアリステアはどこか眩しそうな表情で見つめていた。
私は横顔にふと視線を感じて青年に視線を移す。すると彼の視線の思わぬ色に僅かにたじろいだ。
「あの……?」
「あぁ、これは申し訳ない。女性をあまりに見つめるのは無作法でしたね」
その視線が彼が私に別の誰かを重ねている様に思えてならず、困惑する私に気付いたのか彼は苦笑と共にすぐに口を開いた。
「その美しい黒髪が……私の亡くなった母に似ていて、懐かしくなってしまい……申し訳ありません」
「お母様が……?」
「えぇ、偶然にも私の母と貴女の母上は同郷の人間なのですよ」
私は彼の言葉にそれで、と納得した。
この青年の容姿は私ほどではないが、この国の標準のそれとは僅かに異なっている。
この国の人間は総じて色素の薄い髪と瞳に小麦色の肌をしている。そして男女共に総じて大柄だ(女性の場合は骨が太いという訳ではなく、肉感的で背が高い)。その民族的特徴はこの地に古くから暮らしていたという先住民族の特徴を色濃く残した結果だそうで(最もその先住民族も現在では混血化が進み、純血の彼らがどのような姿をしていたのか詳しくは残っていない)、私と彼の母親の故郷である国は北に連なる山脈を超えたあたりに存在し、外見的特徴にはかなりの違いがある。その常識に照らし合わせるとアリステアは茶色の瞳と髪で色素が濃い目であるし、肌の色も父に比べると薄く、体格も僅かに華奢に見えるだろう。最も体格に関しては父に比べてであって、標準よりもかなり華奢で小柄な私と比べれば雲泥の差であるし、決して貧相ではなく男性として必要な量の筋肉を彼は有していた。
「えぇ、母の故郷は彼女の幼少期に内乱が続いていましたからね。亡命の果てに伝手を辿ってこの国に来たようです」
「そうは言っても幼い頃だったようで、余り多くの想いでもなかったようで。私もあの国の事をよく知らないのですよ」
今でこそこの国と母の生国は僅かな国交を行っているが、それも本当にここ最近の話のようである。もともと山脈で隔てられている事に加えてあの国は長らく政局が安定しておらず、この国も積極的には交流しようとしなかった。また長らく交流が無かったためか容姿が余りに異なったことも理由の一つでなかっただろうかと私は思う。いずれにしても亡命して来たというこの青年の母親とおそらくは国交が始まったばかりの頃に嫁いできただろう私の母親、この二人の女性の苦労はいかばかりのものだっただろうか。
私は数瞬の間思いを馳せたのだった。