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私の許婚候補という男性と正式に対面したのは、父に彼に存在を知らされてから10日ほどたった頃だった。
父の話から少々時間がかかったように思ったが、おそらくは私があの時気分が悪そうにしたのを気にしたからだろう。もしかしたら私が口に出せないだけで、この話に乗り気ではないと思っているのかもしれない。それで私の心の整理がつくのを待つためか、あるいはこの話について否定的な言葉を言うのを待っていただろうか。父は会ってみて無理そうならば断ることも可能だと言っていたが、貴族の様な世界では正式に対面するということはその縁談をほぼ了承したものとみなされる。父はいかにも気軽そうに言っていたが、断るのがそう簡単にいくとは思えない。そのため断ることがはっきりしているのならば、それはこうして会う前であるのが最も良いのだろう。
「初めまして、アリステア=アダムスです」
「こちらこそ初めまして、メリッサ=リンドバーグです」
「メリッサ嬢とお呼びしても?」
「リサで結構です。そう呼ばれることが多いですから。それに敬語も結構です。貴方の方が年上ですし」
と言っても私を名前で呼ぶのは今の所父だけだから、リサと呼ぶのも父だけだ。
外から見たら、随分ぎこちない遣り取りだと誰もが思うだろう。しかし男にしては少し繊細に整った相手の顔に浮かんでいたのが人好きのする柔らかな微笑だったから、自然とそう返していた。それは父の意図した微笑とは違い、彼の人柄を表したものに思えたから僅かに肩の力か抜けからかもしれない。多くの会話を交わした訳ではないが、この青年が決して悪い人間でないようなので安心する。
「では、リサと呼ばせて頂きます。しかし、この口調はもはや癖のようなものですから、気になさらないで下さい。貴女のほうこそ、無理に硬い口調で話す必要はありませんよ」
「でも……」
「私の方が年上といっても、5つしか違いませんし。どうか楽になさって下さい」
そう言うと、青年の目が優しげに細められた。
私は躊躇いがちに頷く。しかし前の自分がどんな性格をしていたのか定かではないが、現在の自分の普段の口調は今とたいして変わりはない。そういう意味ではこの青年と自分はよく似ているのかもしれない。
青年との会話は多少ぎこちないながらも和やかに進んだ。
残念ながら私にはたいして話すことがないので、もっぱら青年の話しに耳を傾けるのが常だったが、それが苦痛にならないのは彼の穏やかな低い声が耳に心地よく響いているからだろう。少なくとも彼との会話が全く苦痛にならないから、彼と私の相性は悪くないと思う。
ぼんやりと上手くやっていけるかもしれないな、と思ったが、ふと心中で苦笑する。
私に選択権があるように彼にもあるべきだ。表向き本家の唯一の嫡出子として生まれた私の方が立場が上だが、私の出生について疑問に思っているのはきっと私だけではない。となると父が私の婚約者候補として推すくらい本家に近い血縁の男児であるなら、果たして私とこの青年、どちらの立場が真に上なのか。
「どうしました?」
「いいえ……アダムス様は……」
「アリステアで良いですよ」
「アリステア様はアリステア私のことについて何処までお聞きになりました?」
「どこまでとは……」
アリステアは私の質問に一瞬困った様な表情を浮かべ、すぐに取り繕った様だ。その彼の様子から私の事情について大方聞き及んでいると確信する。
「どう思われました?」
「こう言ってはなんですが……」
アリステア言葉を探すように数秒口を閉ざし、やがて話し始めた。
「私達がこうして会うのは初めてです。私は以前の貴女をよくは知らない。それなら、これから思い出を作っていくことに何の不自由がありましょうか。勿論、貴女の不安は全て理解できないまでも分かっているつもりですが……」
青年は不謹慎でしたね、と決まり悪げに頭を掻いた。そしてその端麗な顔を惜しげもなくくしゃりと笑う。
ふと、その仕草の既視感を感じた。
あれは何時の記憶だ……?
最近こんな事が多い気がする。些細な出来事が記憶の奥底に眠っているものを揺さぶるような。これは失くした記憶が戻る前兆なのだろうか。
「私達が会うのは本当にこれが初めてなのですか……」
「当たり前でしょう?」
アリステアの表情が一瞬固まったような気がした。しかしそれはほんの一瞬のことだったため、見間違いとも思える。
「本当に……?」
「ええ」
そう答えると、アリステアは心配気に眉根を寄せた。
私がよほどひどい顔色をしていたのだろう。私自身も血の気が引いている自覚がある。こうして何かを思い出そうとしている時は常にこうなる。まるで私自身が思い出すことを拒んでいるようだ。
「顔色が悪い……部屋まで送りましょう」
「いいえ……大丈夫です」
「駄目ですよ。貴女の父上からも頼まれています」
アリステアの温かい手が私の手をそっと握った。しかしこれは彼の手が特別温かいのではなく、私の手が冷たいだけだろう。
彼の手は優しく握っているが、同時に外れる気配が全くない。
しかし彼の親切は嬉しいが、申し訳なくも思う。と言うのもこの広い屋敷に住んでいるのは実質的に父と私だけで、たった二人で広大な本邸を使うのは不便なために本邸にほど近い別邸に普段は住んでいる。しかし今日は客人である彼を迎えるために本邸の応接間で対面していたのだ。確かに歩いてすぐの所に別邸はあるが、この季節にわざわざ一度外に出る様な手間をかけさせるのはいくら何でも悪いだろう。
と遠慮しようとするが、彼は私がそう思うことなど全て分かっているように少々強引に私の手を引いて歩いていく。
これは私の調子が最近良くない事まで父から聞いているのかもしれない、と私は内心でため息をつく。
今更だが、アリステアも父も過保護が過ぎるのではないかと思えてきた。父については以前からぼんやり思っていたことだが、この青年までそうとはよほど父に口うるさく言われていたのだろうか。
確かにここ最近の私は気分を悪くすることが多い。加えて頭を打って記憶を失った事で周囲に随分心配をかけている事も理解しているつもりだ。しかし私は自分の身体がそこまで弱い訳ではないと知っている。そもそも私が彼らが思っている様な虚弱な体質だったとしたら、この地で暮らす事自体無理だろうと思うのだ。
この地は空気が綺麗で風景明媚であり、中央に比べて気温が低いため避暑地としてなかなかの人気であると聞いている。しかし当然のことながら冬の冷え込みはなかなかのものだ。この時期はほぼ毎日雪が降っているらしいし、冬の期間が長いと聞く。そんな地で暮らしていて風邪らしい風邪をひいていないのだから、私がそこそこ丈夫なのは分かりそうなものだが。
本邸の正面の扉を出ると、急に冷えた空気が私達を包み込む。
思わず反射的に身を竦めるが、私よりも薄着の目の前の青年が気になって仕方がない。
青年の向こう側に広がっているのはやはり白い景色だ。この季節でなかったら庭園が楽しめるのだが、当然の事ながらそれらは雪をかぶっていてその下の植物は見えない。随分昔はいちいちこの雪をどけていたらしいが、きりがないと言って父が止めさせたらしい。この季節を体験するのは2度目だが、その判断に間違いはないと思う。しかしこの庭園に植えてあるのは寒さに強いものらしいから庭園の無事を心配してはいないまでも、なかなかに見事な庭園が雪に埋もれて見えないのは少々残念に感じる。
―― 一面の白い景色、その中を男に手を引かれて歩く……。
急に一番鮮烈な既視感と共に眩暈が襲ってきて、それを堪えるために頭に手をやろうと反射的にアリステアの手を払ってしまった。
すると私自身も思わなかったその勢いに姿勢を崩す。
――ああ、倒れる……。
視界が徐々に上がっていき、ぼんやりと後ろに倒れていると感じた。そしてどこか冷静な自分が足元にあるのが雪で良かったと思う。もしも雪が積もっていなかったら、後頭部を強かに打ちつけて悲惨な目に合っていただろう。1年前の事故では命までなくならかったが、頭を打ってそう何度も無事で済むはずがない。
妙にゆっくりと時間が進んでいるように感じる意識の隅で男の声が聞こえた。
積もったばかりでまだ柔らかい雪の上に身体が打ち付けられた。一瞬息が詰まったが、身体を痛める程の衝撃でなかった事に無意識にほっと息をついていたようだ。自分の口から吐き出された白い息が一瞬視界を覆った。
――真白な雪に散らばった黒い髪……これは誰のもの?
――こちらの伸ばされる男の手……いや、彼の手はもっと小麦色だったはず。こちらを心配そうに覗き込んでいるのは茶色の目ではなく、舐めたら甘そうなとろりとした蜂蜜の様な色だった。
――……彼とは誰……?
私に必死に声をかける青年に重なる様に別の男の面影が浮かんだ気がした。
――貴方は誰……?
そして彼は誰かによく似ている気がしたのだが、その男の面影の掴む寸前に私の意識は沈んでいく。
――貴女は私が何を置いてもお守り致します。この命に代えても、必ず……。
切ない程に真摯で柔らかな声は果たして誰のものだったのか……。