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「君の混乱は私には全ては分からないが……とても大きいものだと想像することはできるよ。だから君がある程度落ち着くまでは、余計に混乱させる様なことは言わまい、と決めていたんだ。君が失くした記憶は自分に関わる事ばかりだね、それ以外の知識があることはこれまで概ね問題なく日常生活を送れていたことから明白だ。だから……、私達がこの国の大半の人間達より良い暮らしをしていることは賢い君なら気付いていただろう。と言っても我が家はしがない子爵家だ。ほんの貴族の端くれだよ。しかし君の母親は早くに亡くなったから私の子供は君一人しか居ない。この国では女性に爵位は認められていないから、君の子供に爵位を継がせるために君が幼いときから婚約者の候補が何人か居たんだ。そして君が事故にあう少し前に……ようやく候補者の中から正式に婚約者を決めて君にもその事を伝えていたんだよ」
私は驚きの余り手に持っていたカップを落としてしまうところだった。
あわや火傷の大惨事になる前に何とか動揺を抑え、まだ僅かに震える手で慎重にカップを机に置いた。
「婚約者……ですか」
「そう、いきなりで驚かせたようでごめんね。君には了承なしにすまないけれど、向こうには君の状態を伝えていたんだ。そしてどうか君が落ち着くまで待って欲しい、ともね。婚約破棄もあり得るかと思ったが、幸いと言っていいのか迷うところだが、君と婚約者殿はまだ一度も会った事がなかったから、それなら一から関係を築く事には変わりはないとおっしゃって下さってね、本当なら1年の婚約期間を経て今頃には結婚している予定だったんだけれど、まぁ、先延ばしにしていたんだよ。でもさすがにこのままにはいかないだろう?だからそろそろ会ってもいいのではないかとあちらからも言われてね」
そう、私は記憶を失っているといっても全てを忘れているわけではなかった。仮にそうなったとしたら現在の私は身体ばかり大きいだけの1歳児のようなものだが、実際は多少の不自由を感じこそすれ日常生活に支障はない。幸か不幸か私が喪失したのは自身に関わる記憶のみだった。
であるからこそ記憶を失くしてから屋敷からろくに出た事がない世間知らずを自認していても、さすがにこの大きな屋敷で使用人に囲まれた暮らしが一般的な生活水準から離れている事くらいは理解している。
裕福な暮らしを送るのならばそれ相応の義務を負う。
貴族などの特権階級の中にはこの権利と義務を履き違えている人間も多く居るが、同様にその多くが標準的な水準の生活を営む人間達とはまた異なった制約に縛られているのもまた事実だった。
そのため、私は父の口から出た‘許婚’の存在に拒否感は感じない。
ただ、この穏やかな日常が変わらざるを得ないだろう、という予感に恐怖や悔恨に近い何かを感じたのだった。
さっと表情を強張らせた私に、父はこの突如もたらされた‘政略結婚’を不安に思っているのだと考えたのだろう。私を安心させる意図をもって、下がり気味の目尻をさらに下げた。そうすると加齢によって刻まれた皺がより一層柔らかな雰囲気を作る。しかし彼はこの柔らかな空気をあえて作り上げている節があり、この様に人の緊張を解きほぐすためから相手の油断を誘うためまで、その用途は多岐に亘る。所詮は人生経験など皆無に近い私などでは、この意外にも狡猾な父の本心など決して分からないだろう。
「そう緊張することはない。相手は私達の傍系の男児でね、彼の父親をよく知っているがいい男だ。彼の息子であるから、そう悪い男であるはずがない。それに知らぬ仲でもないから、どうしても無理だと感じたら断ることも可能だよ。とりあえず会ってみないかい?」
「私が結婚した場合はこの屋敷にこのまま住むことになるのでしょうか」
「できればそうしてもらいたいね。なんと言っても二人きりの家族なのだから。どの道君の子供がこの家を継ぐ事になるのだから、出て行く必要はないだろう。どうしても夫婦水入らずで暮らしたいというのなら考えなくもないが……寂しいね」
傍系の男児、と私は心中で呟いた。
その言葉が心の中を黒く染めていくようだった。
この家の直系、つまり父の子供は私一人しかいない。しかし、父と血が繋がっていないだろうことが傍目にも明らかな私がこの家の血を繋いでいくのは可能だろうか?いや、考えるまでもなく無理な話だろう。私は記憶が戻ってから父以外の血族に会ったことはない。直系が私達親子しかいないだけで、先程傍系の男児の存在が父の口から明らかにされたように、血族は皆無ではない。あまりの外見の相違から私の子供にこの家を継がせることに異を唱える人間が必ず現れてくる。しかし父と比較血縁の近い男児と私との間に生まれた子供であったら、あるいは可能かもしれない。少なくとも子爵家の血が途絶えることはない。
本当は父が新しい妻を娶り、その女性との間に生まれた男児にこの家を継がせるのが最善だろう。しかし私が幼少期に死んだという母、彼女が亡くなってから父が別の女性と結婚したという話は聞いたことがない。母が死んでから随分経っているから、父に子供をもうける気があったなら、とっくに私には義母と弟妹が居たことだろう。それが私がそろそろ貴族の娘としては行き遅れと呼ばれる年になってもその気配がないのだから、父にその気がないのだ。
父は私に母について多くを語らない。私も母について聞かないことにしている。見たこともない母について気にならないと言ったら嘘になるが、ここ一年の記憶しかないからかあまり執着を感じない。いや、幼少期に亡くなったという母、記憶があったとしても彼女に関する記憶は多くはなかっただろう。もしかしたら記憶を失くしていなかったとしてもあまり感慨を抱いていなかったかもしれない。
父とは似たところが全くなく、おそらくは母に似ていると思われる娘かどうか分からない子供を自分の娘として育ててきたのだから、少なくとも父は母を愛していたのかもしれない。
「分かりました。会ってみます」
「本当かい?そう言ってもらえると助かるよ。また詳しい日時が決まったら知らせよう」
私は父の言葉にこくりと頷いた。
父の顔をそれとなく見てみるが、私の返事に対して特に含みはないように見える。
もしかしたら私の考え過ぎなのかも、と淡い期待が生まれる。父はたった一人の娘の夫によく知る人物の息子を選んだだけだと。その方が安心して結婚させることができるから、ただそれだけの理由でその相手を選んだのだと。
しかし常に微笑みを絶やさない父の真意を読むなど、私には土台無理な話だった。
――真白な雪の上に長い黒髪が散っている。その色の対比が目に鮮やかで、一瞬眩暈がした。青白い女の頬に残っている跡は涙だろうか?
――静謐な空間はまるで時が止まったかのよう……。
強烈な眩暈を覚えて、私はきつく目を瞑って右手で頭を支えた。
世界が回っているようにも感じるが、私自身も世界も全く動いていない。
――先程の記憶は誰のものだ?あれは私が失くしてしまった記憶の欠片?それとも……。
「リサ……リサ?」
大きな手が私の肩を掴み、少し強く揺らした。私はその刺激と自分を心配そうに呼ぶ声によって意識を現実に引き戻された。
「顔色が悪いね?気分が悪いのかい?」
「えぇ……少し……」
「急に話したから混乱してしまったのかもしれないね。今日はもう休みなさい」
「はい、そうします」
父は心配と僅かの罪悪感を宿した瞳で私を見つめ、就寝を促す。
私はその罪悪感が何処からくるものなのか一瞬尋ねそうになったが、寸前で口を噤んだ。
それは私を混乱させたことについてか、それとも婿を迎えることで私の出生の秘密を永遠に葬り去ろうとしていることについてか。
しかし尋ねたところで父から満足できる答えが得られるとは思えない。そもそも私が本当に満足できる答えなど存在するのだろうか。たとえ父が何と答えたところでこの不安は少しも払拭されない気がした。
父の部屋を辞してひんやりと冷えた廊下を襟元をかき合せながら歩き、この一年でもう馴染んだ自分の部屋へと戻る。
寝台に腰掛けて、やっと息がつけるようだった。
横になって目を瞑ってみるが、眠りは簡単には訪れなかった。ゆるゆると遠くなる意識の隅で何か大切なものが後少しで掴める気がしたが、それが何か理解する前に眠りの海に飲まれた。