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夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
ふと水面に浮き上がるように意識が浮き上がり、私はゆるゆると瞼を上げた。
暗闇の中、煌々と降り注ぐ月光が窓から室内を照らしその光のみが周囲の景色を浮かび上がらせるが、かといって全ての輪郭を明瞭にするほど強い光ではなかった。
起き上がった拍子に毛布が身体を滑り落ち、頼りない夜着越しに真冬の夜の冷たい空気が身体を包み、大きく身震いをした。
窓の外に視線を向けると雪がはらはらと降っている様子が目に入り、今夜も雪が積もるのかと思うと少し憂鬱な気分になり、ふうと小さく息をつく。
決してこの季節が嫌いな訳ではないと思う。雪も綺麗だなと思うし、そこに嫌悪感はない。
しかし今夜のように月が僅かに照らす真夜中に雪が降っているのを見ると、何だか妙な気持ちになるのだ。
そう、まるで新たな雪が地面や踏み固められた雪を覆うように、‘私’という存在を覆ってまた違う‘私’が現れるようで。
私は大きく頭を振って根拠のない不安を頭の隅に追いやると、自身の体温が残って温まっている毛布を再び身体に巻きつけ眠りが訪れるのを待つことにした。
私の目は十分な睡眠をとらなくては翌朝に腫れぼったくなってしまう。その様な目で顔を合わせれば、睡眠不足を咎められるか何か悩みがあるのかと過剰に問い詰められることになるだろう。
だから早く眠らなくては。
父は過保護なほどに過保護な人だから。
そしてとてもお人よしな人。
そう、例え私が本当の娘ではなかったとしても過剰なほど心配する人なのだ。
私にはここ一年くらいの記憶しか残っていない。
私の中にある最初の記憶はこちらを泣きそうな顔で見ていた父の顔だ。
彼は目を覚ました私を‘リサ’と呼ぶと、きつくきつく抱きしめてきた。勿論記憶のないその時の私からしてみれば、自分が何者なのかも今の状況も全く分からない状態で見ず知らずの男性に抱きしめられているのだから、混乱のあまり身動き一つとれず彼にされるがままだった。
反応の全くない私を不審に思った父に私は誰なのか、貴方は誰なのか、全く分からないという事をたどたどしい言葉で伝えると、彼の表情はみるみるうちに険しくなり慌しく部屋から出て行ってしまった。
おそらく父も相当動揺しての行動だったのだろうが、何も分からない状態で説明一つなく部屋に置き去りにされてひどく困惑したのを今でも覚えている。
結局父はというと、その幾分か後にこれも全く見知らぬ老人を共に連れて来た。その老人はあれこれと私に質問し、身体の調子を見ていたから医者なのだろうと途中で察したが、この時の私の混乱は一言では言い表せないほどだった。
そして一通り終わると老人と父は難しい顔で話合い、父は強張った笑みを顔に張り付かせながら私の横たわっている寝具のすぐ近くまで来ると、近くの椅子を引き寄せてそこに座り、言い聞かせるようにゆっくりとした調子で言葉を紡いだ。曰く、私の名前は‘リサ’ということ、自分は私の父親であること、3日前に私は事故にあってそれから今まで意識がなかったこと、どうやら事故のときに頭を打った衝撃で記憶を失くしてしまったらしいこと、頭を打っているため暫く様子をみる必要はあるが命に別状はないだろうということ、記憶は戻るかは分からず、戻ったとしてもそれが何時になるかも分からないこと。
父は混乱している私が話を理解できているのを確かめながら、私が状況を咀嚼しているのを辛抱強く待ち、現在の簡単な状況を話し終えると最後にまた私を抱きしめた。しかしその抱擁は先程のものより随分優しいもので、おそらくは私を怖がらせないようにしていたのだろう。なにせ1年経って大分父との正しい距離感を掴んだが、この時の私にとっては見ず知らずの男性がいきなり父親だと名乗り、目の前の男性が父なのだと納得しているとは言い難い状態だったのだから。
それから私と父はお互いに手探りの状態で、少しずつ距離を詰めていった。私も父も共に器用とは言えない性質だったから、その様子は傍から見ればさぞ歯がゆいものだったと思う。たった二人だけの家族を見守る使用人達が、ぎくしゃくする親子を見る度に何か物言いたげに見つめてきたり、異様に温かい視線を送ってきたりしていたのだから。
1年経った今では、普通の親子とは言い難いかもしれないが、当初に比べれば幾分かましになってきたのではないかと思う。そうして父との関係も落ち着き、自身の状況も飲み込めてくれば自然、周囲も少しずつ見えてくる。そして足りない記憶を補うように情報を飲み込むに従って、私はある疑問を持つようになっていった。
それは、私と父が‘本当の’親子なのか、というものだ。
当初はそれどころではなかったために気にならなかったが、父と私の容姿は全く似ていない。父は目尻が下がり気味で全体的に甘く整っているが、私はどちらかというと切れ長の目で、全体的に黙っていたら冷たく見えるような造作をしている。それだけならば私の幼少期に亡くなったという母親や他の祖先に似たと言われればそれまでだ。顔の全く似ていない親子などたくさん存在するだろう。
しかし私と父はそれぞれが持つ色も正反対だった。
私は真っ黒な黒髪にほぼ黒と間違えそうなくらい暗い藍色の瞳だ。肌の色も雪の様に白いと言われたことがある。対して父は蜂蜜色の髪と目を持っており、肌は小麦色で例え私の様にずっと室内に居たとしても私の肌と同じ色にはならないだろう。
例えば私とよく似た容姿の母親と父の間に子供が生まれたとして、私のような容姿の人間が生まれるだろうか。答えは否、だ。おそらくその場合は栗色やこげ茶などの色を持った子供が生まれるはずで、私の様に漆黒の髪や暗い色の瞳を持った子供のはずがない。また父の家系に私の様な色の人間が居たとしたら、今度は父の持つ綺麗な蜂蜜色が現れる可能性は限りなく低いだろう。
全く可能性がないとは断言できないが、普通に考えて私と父の間には一切の血の繋がりがないと考えるのが自然だ。私と父の親子関係など、少し考えれば容易に疑問を持つに至るだろう。そう考えれば使用人達が向けてくる物言いたげな視線も単に不器用な親子にやきもきしていたからだけでなく、この全く似ていない親子に疑問を持っている、あるいは私と父の関係を正しく知っているからだ、とも考えられた。
しかし私はその事を未だに父に聞けずにいる。この事を父に尋ねることで今の穏やかな時間が壊れるのが嫌だからという理由も勿論あるが、それだけでなく父の意向を尊重した結果でもあった。これだけ全く似ていないのだ、私が親子関係に疑問を持つのは当然で、おそらくは私が疑問を感じていることに父は気付いているだろう。それでも父が私を娘として扱う、ということはそれなりの理由があるのだろう。
また、私を切なそうに見つめる父を見るとどうしても疑問を口に出来ずにいた。記憶もなく、この関係に不安を抱えている私よりも父の方が辛そうにしている様子は私の口を重くするには十分だったから。
そんな時だ、微妙な緊張感の中で仮初の穏やかな日常に浸っていた私に、父が衝撃の言葉をもたらしたのは。
「リサ……君には婚約者がいるんだ」
様々なものから目を逸らしていた罰なのだろうか。
私は穏やかな日常が音を立てて崩れるのを確かに感じた。