楽園を捨てる覚悟はあるか
雨は一週間ほど降り続いていた。冷たく降りしきる雨が何もかもを包み込んで、空の色がどんな色だったか、うっかり忘れてしまいそうだった。灰色の空は、少しずつ私の心に染み込んでいって、そのまま同じ色に私を染めようとしている。そんな気がした。だからといって、私が元々どんな色をしていたかなんてわからないのだ。
青、そう、青だ。空は青。ちゃんと思い出せた。青い絵の具にほんのり白を混ぜた、薄い青色。彼のお気に入りのシャツの色。暑がりな彼はいつもシャツの袖をまくって、一拍おいてから笑うのだ。太陽みたいな笑顔で。
彼に雨は似合わない。
だから今日、彼はここには来ないかもしれない。
これはただの勘なのだけれど、そんな気がした。当たってほしいとも、外れてほしいとも思わなかった。ただこの雨には、止んでほしくなかった。永遠に降り続けばいいとさえ思った。そんな馬鹿な願いが届くことなんてない、そんなことはよくわかっている。そうだとしても、願わずにはいられない時があるのだ。
窓を開くと、冷たい雨が部屋の中に吹き込んだ。ゆっくりと、私の髪と顔を濡らしていく。この状況を見たら、泣いているように見えるかもしれない。そうしたら彼は、私を心配してくれるかもしれない。どうしたの、なんで泣いてるの、と優しい声が聞こえるかもしれない。泣かないで、と慰めてくれるかもしれない。たとえそれが一瞬の出来事だとしても。
濡れた髪から雫が落ちてそっと床を濡らした。ぽたぽた垂れる雫は、安っぽい蛍光灯の光を受けてきらきらしながら落ちていく。でも、これではあまりにわざとらしいから、泣いているようには見えないだろう。計画とも呼べないような雑な計画は、あっけなく崩れていった。
かたん、と玄関のほうから音がした。鍵を開く音がして、言葉の内容はよく聞き取れないが彼の声が聞こえる。どうやら彼は、約束通りに私の家に来たらしい。勘は外れたようだ。嬉しくも悲しくもない自分が少し可笑しかった。
彼を玄関先まで迎えに行くこともしないで、私はそのまま雨ばかり見つめた。彼の足音が無遠慮に近付いてきて、息を吸い込む音が聞こえた。でも私は、振り返ることが出来なかった。
「ごめん、遅れて……」
「そう?別に、そんなに遅れてないんじゃない?」
「でもさ……え、どうしたの、窓なんて開けて?」
「何でもないよ」
彼の右腕が背後から伸びてきて、窓を閉めた。やっと彼の姿を視界に入れる。彼は今日も、空色のシャツを着ていた。彼のお気に入りの色。私にとっても、お気に入りの色だ。私の髪に触れた彼の指が、少しずつ濡れて、冷たく冷えていく。それでも彼は灰色には染まらない。雨は、彼の空色を色濃くしただけだった。
何してるの、こんなことしてたら風邪引くよ、と彼は言う。そうしていつものように、一瞬おいて笑う。まるでたった今、初めて私の存在に気がついたかのように。
「ずいぶん降るね、雨。もう一週間くらい?」
「そうね」
「駄目だよ、こんな日に窓開けたりしちゃ。濡れるでしょ。ほらもう、床まで濡れてるよ」
「別に、いつもやったりはしないもの」
「そう?」
リサはなんだか危なっかしいから、と彼は私の名を呼ぶ。
今日も、彼は私の名前を間違うことは無かった。そのことに私は、ほんの束の間の安心を得る。大丈夫、まだ彼は、私を見ている。今は私が、彼の恋人だ。
大丈夫、まだ、笑える。気付かないフリなら、嘘をつくよりずっと簡単だ。大丈夫。
ばたん、と玄関のほうで突然音がして、彼は振り返る。あーあ、と呟いて、彼は玄関へ向かった。壁に立てかけていた彼の傘が倒れたらしい。それを黙って見つめる私は、その傘は本当に彼の持ち物なのだろうか、と、考えてはいけないことばかりを考える。その明るいオレンジの傘は、本当は誰の物なのだろう。聞けたら楽なのかもしれない。でも私はそんなことをしようとは最初から思っていない。その傘が誰の物だろうと、結局のところ私には関係がないからだ。
「傘立てに入れちゃった」
「そう」
「止むといいよな、早くさぁ。こんなに長いこと降ってたら気が滅入る」
やっぱり彼には、雨は似合わない。太陽の光を浴びて、笑っているほうがいいのだ。曖昧な返事しかできない私に、彼は何も言わない。ただほんの少し笑って見せただけ。
乾き始めた空色のシャツが私を包み込む。視界が暗くなる。彼の体温は私より少し高い。彼に抱き締められるのは好き、でも、抱き締められている時に呼吸をするのはとても怖い。もしも吸い込んだ空気の中に彼以外の匂いを見つけてしまったら、きっと私は、見て見ぬフリさえ上手くできなくなってしまう。本当のことを知りたくなってしまう。だからできるだけ息を止めて、私の肺が限界を訴える直前で体を離そうと試みる。
それなのに、彼はいつだって、私を放そうとはしない。この体のどこにこんな力があるのか不思議なほど強い力で抱き締めてくる。だから私は仕方なく、緊張と、恐怖を感じながら、彼の鼓動を耳で拾って、ゆっくりと息を吸い込む。こんな賭け事みたいなことをしないで、このまま窒息死できたら、今よりは幾分か幸せかもしれない、などと物騒なことを考えながら。
今日は、大丈夫。彼は今日、真っ直ぐに私の家に来たらしい。彼の暖かな、陽だまりのような匂い、それから雨に濡れた匂いしかしない。そっと目を閉じて彼に身を任せようとすると、彼はゆっくり体を離した。
いつだって、彼の瞳は、嘘みたいに綺麗だ。全然汚れていない、どこまでも澄んだ瞳。私を見る時でさえ、この瞳は相変わらず、きらきらと純粋なまま。
真っ直ぐに私を見ながら、彼は口を開く。
「ねえ、リサ、どうしたの」
「……何が?」
「なんだか最近、ずっと沈んでるから。何か悩んでるの?」
「そんなこと、無いと思うけど」
「隠し事はしないでよ、俺、リサの彼氏なんだからさぁ、もっと頼ってよ」
笑えることを言う、と思った。そのくせ涙が出そうになった。
時々不意に逸らされる視線はどんな意味を持つのかとか、月曜日と水曜日と土曜日にはいつも決まって連絡が取れなくなるのはどうしてなのかとか、かかってきた電話を私の前では決して受けないのはどうしてなのかとか、あなたの車の助手席に乗る時いつもシートがずれているのはどうしてなのかとか、そのオレンジの傘、あなたがあまり選ぶことのない色をした傘は本当にあなたの物なのかとか、他にもいろいろ、全部、全部を、そのままぶつけてもいいというのだろうか。それをぶつけてもなお、あなたは、私の隣にいてくれるのだろうか。俺はリサの彼氏なんだからと、困ったように笑うその顔を見せてくれるのだろうか。
答えはきっと、否、だ。だから私は口をつぐんで、何も知らない顔をして、頭が足りていない都合のいい女になって、そうしてやっとのことであなたに必要とされる存在になれるのだ。そこまでしてでも、私はあなたに必要とされたいのだ。
私にはなんの取柄もないけれど、作り笑いだけは、自信がある。
「――本当に、何もないの。心配しないで」
「本当?何でも言っていいのに。ねえ、なんでもいいんだよ?遠慮しないで言ってよ」
「じゃあ……じゃあ、一つだけ、聞いてもいい?」
「うん」
「私は――」
二番目、ですか?
「――あなたを好きで、いいのかな」
彼は一瞬、とても驚いた顔をした。そうして、いつもみたいに笑った。やっぱり彼は、たった今私の存在に気が付いたような顔をする。実際そうなのだろう。彼の中に、私という存在は、常にはいないのだ。普段はもっと、別な人、別な女が、彼の心の中にいて。だから私の入り込む余地なんてどこにもなくて。
私が彼のことを呼んで、彼が私を見て、それからやっと私を認識するのだ。そういえばこんな女もいたな、くらいの感覚で。それでも、私は。
「いいに決まってるだろ。何言ってるんだよ、リサ」
「そう……よね。ごめんね、変なこと言って」
「いいけどさ。もうそんなこと言うなよ」
彼の怒ったような顔を見ながら、あと何回くらいこの瞳を見つめられるのだろうと、途方もないことを考え始める。これが最後かもしれない。あと一回、もしかしたら二、三回くらいはあるかもしれない。まだ数えきれないほどその機会があるかもしれない。私にはわからない、彼にもきっとわからない。
ここはとても幸せな空間だ。たとえ、私と彼、二人入るのがやっとのスペースしかないとしても。彼には別の、ここなんかよりもっと幸せな空間があるのだとしても。もっと言うなら――いつか、彼がこの空間に戻ってこなくなる日が来るのだとしても。私がここを動かない限り、ここはとても幸せで、これ以上に求めることがない、理想郷。もしくは楽園。いや呼び方なんてどうでもいい、彼に必要とされるこの空間は、幸せという表現しか似合わない。幸せという表現でさえも、薄っぺらく感じてしまうほどだ。
だから私はここを動かない。動くことは、ないのだ。それは、彼がいなくなったとしても同じこと。私はずっと、ずっとずっとここにいる。
彼の口が動いて、綺麗な言葉を紡いでいく。綺麗で、優しくて、どこまでも中身のない言葉。知っている。全部、全部が、嘘なんだと。彼が本当の意味でこの言葉を使うのは、私が相手の時ではないのだから。
それでもいい、それでいいのだと、嘘を信じるのは私の自由だ。私が信じる限り、彼の言葉は、嘘にはならない。私にとっては真実だ。真実以外の、何物でもない。
「俺はちゃんと、リサのこと好きだよ」
「私も、好き」
「ならもうこの話は終わり。ね?」
「うん」
彼がへにゃりと笑うから、私も笑う。ほらね、これはきっと幸せの形だ。
そう、彼は私が好きで、私は彼が好き。それでいいんだ、だからこの話はこれでおしまい。
雨の日に書いたお話。
こういう話は非常に好きです。彼女、リサは、幸せな人です。たぶん。
ちなみに、彼女の名前に深い意味はありません。語感が良かったのでつけただけ。