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懐かしい匂いが鼻腔を掠める。俺はこの匂いを昔嗅いだ事がある気がする。酷く懐かしく悲しい気持ちになるのは何故だろう。思い出したいのに思い出せない。まるで思い出させないように記憶に蓋をしているかのように。俺は思い出したいんだ。いや思い出さなきゃいけないんだ。ふと思う。どうして思い出さなくてはいけないと思うんだろう。こんな悲しい気持ちになるのに思い出す必要があるのだろうか。この匂いの正体を思い出したら自分の何かが壊れる気がした。駄目だ思い出してはいけない。今のままでいたいのなら思い出してはいけない。記憶の霧が徐々に晴れていく。あともう少しで霧が晴れる。俺は、俺は......嫌われたくない。?.....一体誰に嫌われるというんだ。もう取り返しのつかないことをしてるのに。どうして覚えてもいないのにそう思ったのかは分からない。意識が徐々に沈んでいく。意識を失ったら二度と戻れない気がする。闇が俺を呼んでいる気がする。誰か....助けて......。
「藍田さん。起きて下さい。藍田さん。」と言いながら俺の体を揺さぶる。意識が戻っていく。目を開けたら目の前に着物を着た美女がいた。
「あぁ良かった。気づかれましたか。」ホッと安心した様に笑う。
「.....どうして俺の家にいるんですか?」思わず聞いてしまった。すると美女が驚いている。
「覚えていらっしゃらないんですか?」
ちょっと待て。俺はこの人になにかしてしまったのだろうか。いやいや。そんな筈はない。昨日は一人で飲んでいた筈だ。チラっと隣にいる人を見る。綺麗な人だな。和服が良く似合っている。大和撫子だな。そんな人が俺と...。そんな事思っていると俺の視線に気づいたのかこちらに視線を向けてきた。
「昨日は大変でしたんですよ。お陰で体が痛いです。」と困った様に微笑む。サァっと血の気が引いていった。これは間違いない。俺はやらかしてしまった。付き合ってもないのに。これは腹を括らなければ。サッと正座をする。
「大変申し訳ありませんでした。昨日のことは何も覚えていないのですが俺も男です。責任は取ります。結婚して下さい。」頭を下げながら言う。頭を下げたまま相手の反応を待つ。
「あの頭を上げてください。何かを勘違いされています。」と言われ、え?と思い頭を上げた。困った顔の美女さんがいて昨日の事を話してくれた。
「私は昨日店を閉めようと外に出たら藍田さんが店の前で倒れていらしたんですよ。」と笑う。
「えっ!?それだけですか!?」驚いて思わず聞いてしまう。
「はい。それだけです。」
「だ、だって、体が痛いって。」
「はい。痛いですよ。やはり成人男性を一人で店の外から中に入れるのは大変でした。」それを聞いて俺は息を吐いた。良かったまだ刑事としてやっていけるぞ。
「ですから責任を取って結婚してくださらなくてもいいんですよ?」と言いながら俺に笑いかける。俺は顔が赤くなるのが分かった。俺はとんでもない勘違いをしてしまった。穴があったら入りたい。
「あの、えっと.....あっ!?ど、どうして俺の名前を知っているんですか?」俺は名乗って無い筈なのに。
「これを見たんです。」と渡してきたものを見たら警察手帳だった。美人さんがを見やると
「藍田さんを運ぶときに落ちたんだと思います。さっきお店を開こうと玄関を開けたらこれが落ちてて失礼かと思ったんですけど藍田さんのかもしれないと中を確認したら藍田さんの顔写真と名前が載っていらして。」とすまなそうに言ってくる。
「いえ。こちらこそすいませんでした。助けてもらったうえに疑うなんて恩人に対して失礼でした。」とまた頭を下げる。
「いえいえこちらこそ。すぐ返せば良かったんですが、お客様が来てしまって返す間がなくて本当に申し訳ありません。」と頭を下げられた。
「そんなこちらこそすいません。」
「いえいえこちらこそ。」と何回かこのやり取りが続く。
「じゃあ、どちらもどっちと言うことにしませんか?」と俺が言うと
「でも....。」と言うので
「本当にすまないと言うのならこの提案に乗ってくれますよね?」と言うと佐倉さんが
「ずるいです。そんなことを言われたら頷くしかないじゃないですか。」と困った様に言った。
素敵な人だなと思いながらいつまでも居座る訳にもいかないので
「俺そろそろ帰ります。」と言うと腹が鳴った。それは盛大に。佐倉さんを見やるとクスクスと笑っている。やってしまった。穴に入りたい。
「朝ごはん食べていきませんか?」
「でも助けていただいたうえに朝ごはんもご馳走になる訳にはいきません。」と言うと
「でも盛大に鳴ってらしたからお腹がとても空いていらっしゃるんですよね?」と言われうっと言葉に詰まる。
「それでもご馳走になる訳にはいきません。」と断ると佐倉さんが悲しそうに
「両親が亡くなってからずっと一人で食べていたんですが今日は藍田さんと一緒に食べれると思って楽しみにしていたんですが.....」と言われ
「いや、やっぱり食べます。」と言うと
「はい。分かりました。」と佐倉さんが嬉しそうに言った。
「では、台所に行きましょうか。」こうして俺は朝ごはんもお世話になることとなった。