表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

霊視

作者: Wolke

 それは黄昏時のこと。


 日は沈み、空は瞳に焼き付く茜色から深い藍色へと染まりつつまる。薄ぼんやりとした闇が人々の視野を徐々に狭め、行き違う人の顔すら判然としない。


 星々や月の明かりは頼りなく、闇夜を切り裂くのは煌々と輝くLEDの街灯だけ。点在する街灯だけでは、良好な視界を確保するには心許ない。


 その全貌が露わにならない通りでの出来事。


 ひたり、ひたり、と人気の無い路地に湿った足音が拡散する。


 もしもその路地を通れば、前方からこちらに近付いてくる人影を発見できるだろう。


 人影は墨汁を垂らしたように黒い。今は夜の帳が下りる最中であり、世界が薄闇に包まれあることを差し引いても、その人影は闇よりも尚暗く存在していた。


 その人影が、街灯に照らされた真下を通過する。しかし、人影の姿が明瞭になることはない。


 立体の影。全ての光を飲み込むように活動するソレは、この世の存在とは到底言えまい。そして、ソレが人間のシルエットを表しているならば、決定的に不完全な部位が一つある。その人影は肩口を水平に揃え、あるべき筈の頭部が無いのだ。


 二本の足で歩き、二つの腕を振って徘徊する様は人間となんら遜色ない。だからこそ、光を拒む異形が半端に人間を真似ているようで、見る者に生理的嫌悪を強要する。


 気が付けば、ぴちゃり、ぴちゃり、と等間隔に続く足音が水気を帯びたように変化していた。


 影が通り過ぎた跡には、一条の水溜まりが出来ている。


 色は無い。


 コールタールで線引きしたような、黒き汚泥が小川を成している。目を凝らせば視える筈だ。その汚泥は影の塊の、本来首が在るべき箇所から流れ出ているのだと。


 そして、影は今日も街を徘徊する。失われてしまった、自身の頭を探しながら。



       ◇



「もう、最ッ悪」


 場所は教会の礼拝堂。傾きつつある陽射しによってステンドグラスが輝く下で、壮年の男と少女が言葉を交わす。


 赤いランドセルを長椅子に投げ出しているところから、この少女は小学生なのだろう。少女はゆるくウェーブのかかった栗色の髪を鎖骨まで流し、あどけない顔立ちは幼いながらに容姿に優れていると表せる。


 対する壮年の男は神父服に身を包み、この教会の関係者であることが伺える。神父は少女の隣に腰を下ろし、何故だかナイフでリンゴの皮を綺麗に剥き取っている。ひと繋がりの赤い帯を、膝の上に置いた皿に垂らしながら、少女の言葉に耳を傾けているようだ。


 しかし、それはとても牧歌的などと形容できる雰囲気ではなく、第三者から見れば険悪な雰囲気しか感じ取ることが出来ないだろう。


 主な要因は、少女が薄く可憐な唇から毒を垂れ流し続け、およそ歳不相応な鋭い眼光で虚空を睨んでいるためだ。


千璃(せんり)ちゃんは本当にツイてないよねぇ。あー、いや、憑かれてはいるんだ」


 神父は薄く微笑しながら、慣れた様子で相槌を打つ。少女──鶴宮(つるみや)千璃がどれだけ不機嫌であろうとも、だ。


「もう! 疲れてはいるけど、憑かれてなんてないったら!」


 むきになって反論する様は本当に怒っているようであったが、それ以上に千璃の声音には神父に対する親しみが感じられた。


「こういうときは深木(ふかき)の神様の出番でしょ。信徒の友人を守るくらいの器量は無いの?」


「うーん。まあ、ぼくは人手不足の助っ人みたいな感じで神父服着てるようなものだから。そこまで信心深いわけでもないんだよねぇ」


 耶蘇教の基準で言うと、助けてはくれないと思うよ。と、無責任な言葉を投げかけて神父──深木はリンゴを持った手の動きを止める。連綿と続いていたリンゴの皮が皿の上に落ちる。皮を剥き終え、鮮やかな赤い球体は、今や真白に塗り変えられた。


 深木は巧みにナイフを滑らせ、リンゴを食べやすい大きさに切り揃える。


「食べるよね?」


「食べるけど?」


 リンゴが乗った皿を千璃は当たり前のように受け取り、しゃりしゃりと咀嚼する音を礼拝堂に響かせる。


 横からは深木も手を伸ばし、自身が切ったばかりのリンゴを口に運んだ。


 甘い。


 果物特有の爽やかな酸味と甘味が口の中に広がり、快い香気が鼻腔を通り抜けていく。


 互いに一切れ食したところで、深木が再び口を開いた。


「それで? また新しい都市伝説が出来たんだって?」


「それも確かに不愉快だけどね。問題は、新任の先生に幽霊が憑いていることなの」


 と、少女は事も無げに口にした。


 鶴宮千璃は視力が良い。


 視力矯正道具に頼るまでもなく、学校の視力検査では針の穴のようなランドルト環を判別できるし、席替えの際はどこの席に移ろうとも克明に黒板の文字を識別できる。少女にとってこれはささやかな自慢であった。


 普通に生活する分になら、ちょっとした特技として語れるレベルだろう。しかし、重ねて言うが、鶴宮千璃は『視力』に優れている。それは常識の範疇を逸脱し、日常生活に支障を来す程に。


 彼女の瞳には、幽霊が映る。化生が、怪異が、アヤカシが、少女の世界には存在しているのだ。


 霊視、という。


 彼女の瞳にはオカルトや超能力に分類される異能が宿っている。生まれつき、というわけではない。鶴宮千璃は、ある日突然超常のモノを目に出来るようになった。戸惑いは無く、また、恐怖や疑問も抱かないままに、少女はその現実を受け入れた。自身の変容を享受した。


 こうなって当然だと。


 これは妥当な結果だと。


 あの日、一人だけ生き残ってしまった自分への咎なのだ、と。幼いながらに、少女は漠然と悟っていた。悟り、納得していた。


「……幽霊かぁ」


 一体何なんだろう、と、ポツリと呟く。


 少女視点ではこれはただの独り言だったのだが、隣に座る男からしてみれば、自分に問い掛けられたものだと思い、言葉を返す。


「まあ、世間一般で語られている概念なら、無念のまま亡くなった人が死出の旅に出ずにその場に留まっている、というのが主流だろうね。ぼくの友人たちは単に死に損ないだとか、バグだとか言ってたけど」


「バグ?」


 小首を傾げる。


 死に損ない、というのは千璃にも理解できる。初めに深木が言ったように、死んでも死に切れない人たちのことを指した言葉なのだろう。パソコン等の電子機器が家庭に溢れ返っている時代。単語の意味だけなら幼い千璃でも知っている。知っているが故に、会話との接点を見い出せなかった。


 少女の腑に落ちていない様子を察したのであろう。深木は幽霊をバグと評した友人のセリフを思い出しながら、千璃に訊ねた。


「千璃ちゃんは単語の意味は知ってるよね?」


「ん。…………虫でしょう?」


 深木は、思わず苦笑を漏らした。この場での正答を分かっていながら、敢えて別解を答えるのは、学童期特有の小生意気と受け取るべきか。


 正しいことは正しいので、これといって否定することもなく、深木は言葉を連ねた。


「そう。虫だね。特に、その虫に食い荒らされてしまった葉っぱの状態が一番重要になる」


「穴だらけ?」


 欠陥。それに類する言葉が少女の口から零れ出た。


 千璃は、一体何が穴だらけなのか、と先を促すように深木の顔を注視する。


「その人はね、この世界が穴だらけだと言ったんだよ」


 真に何不自由の無い世界ならば、こんな背理は生じる筈がない。幽霊はその穴から転がり落ちてしまった存在であり、不完全な世界の証明なのだと。


 と、そこまで口にしたところで深木ははたと気付く。


「あー、そういえば彼女、一時期グノーシスに走ってたとか言ってたな。それに主題と若干ズレてきてる」


 ちょっと待ってね、と少女に一声掛けると、神父は深く考え込む態勢に入ってしまった。


 先んじてそれを制し、千璃は深木に話の結論を言う。


「要するに、世の中が悪いから幽霊が出来るってこと?」


「うん? んー、まあ、その言い方でも間違ってはいない、のかな……?」


 深木としては、半端な知識を半端に伝えてしまったようで気に掛かる。しかし、そんな神父の内心とは裏腹に、この納得の仕方はすとんと千璃の胸に落ちていた。


 ほんの少し、世の中の歯車が噛み合っていれば。そんな思考は少女にとっても馴染み深いものだったからだろう。


 達観していると言うよりは、諦観していると表す方が相応しい。ランドセルを背負う少女が抱く思想としては不釣合いなものだと思われる。


 ならば、人が成長する上で欠かせない要素は何だろうか。一つは刺激。それに伴った体験や経験も重要だろう。そして、鶴宮千璃という少女は怪異を目に出来る。人よりもほんの少しだけ、広い世界を見渡せる。そこから与えられる、人の身を過ぎた刺激は否応なく少女を早熟させた。


「諦めは人を殺すよ」


 望まぬ結論に少女が達しているのを鋭敏に感じ取ったのか、神父が釘を刺すように口を開いた。


 何の脈絡もない神父の語りに、千璃は目を丸くして驚く。隣に座る神父の顔を見上げ、彼の言葉を否定するように首を振る。


「別に、私は何も諦めてないよ」


 だって、何を諦めればいいのかさえ、よく分かっていないもの。深木から小言を貰うのが嫌で、最後の一言は心中で呟く。


 そんな自嘲的な考えが脳裏を過った所為か、僅かばかりではあるが、千璃は居心地の悪さを感じた。その感覚から逃れるように、話題を幽霊談義に修正する。


「そういえば今まで訊いてなかったけど、幽霊の考え方って分かる? 人を襲ったり守ったり、その差がよく分からないの」


 取り繕うような言い方になってしまったが、深木は気にした様子もなく、千璃の問い掛けに答える。そもそもの話題は、少女の学校に幽霊に取り憑かれた教師が赴任してきたことから始まったのを思い出したからかもしれない。


「そうだね……。そもそも彼らに思考力は無い。ぼくらは食事を通して体内にエネルギーを取り入れるけど、幽霊には食事に代わる行程が基本的に無いからね。だからエネルギーを摂取することが出来ない。けれど、消費はずっとし続けている。

 そして幽霊は、残存エネルギーがそのまま存在に影響する。器がない不安定なモノだから、どんどん大切なものが零れ落ちてしまうんだ。生前の記憶だとか感情だとかがね。で、最後に残るのが、行動原理。俗に言うと未練かな。ぼくは存在理由(レゾンデートル)と呼ぶけど」


「じゃあ、人を傷つけたりするのは、行為そのものが存在理由になってるってこと?」


「うん。そういう場合もある。元々非業の死と遂げた霊が誰かに復讐しようとするよね。でも時間経過と共に、詳らかな動機や復讐の対象そのものが乖離してしまう可能性がある。そういう場合、復讐というシステムだけが残り、周囲の人間に対し手当たり次第に害を成していくんだ」


 いわゆる悪霊ってヤツよね。と、相槌を打つ千璃。しかし深木の語り方では、霊とはまるで特定の動作しかプログラムされていないロボットのような印象だ。


「ふとした拍子に感情や記憶が甦ったりすることはないの?」


「無い。一度欠落してしまったものは、取り返しのつくものじゃない」


 ふうん、と千璃は頷く。


「なら、幽霊ってすぐに消えることにならない? 偶に一個体がしぶとく残り続けてることもあると思うんだけど」


「ああ。それは周囲からの影響というか……神様で例えるなら信仰みたいなものかな」


 さらりと、幽霊と神を同列に扱う神父。彼の信仰心の底が見えてしまったような錯覚を千璃は抱くが、例えとしては分かりやすい。


 信じるものがいるからこそ、神は存在できる。


 幽霊も原理は同じ。ただ神とは違い〝居た方が面白い〟など、動機がとても不純なものになってしまうだろうが。そうして消滅を免れた幽霊が人々の話題に上り、ますます存在感を得ることになるのだろう。


 この場合、拠点がある地縛霊の方が長く残りそうだな、などと考えながら千璃は深木の言葉に耳を傾けた。


「どんな形であれ、人と直に接点を持っている霊は厄介なタイプが多いから、面倒そうなことに首を突っ込んじゃダメだよ。今の仕事に一段落ついたら、ぼくの方からアプローチかけるから」


 もしも差し迫った状況になっちゃったら、その時は連絡して。と、深木は千璃に告げた。


「はーい。分かったわ」


 神父からの助言に、千璃は素直に頷くと、長椅子から腰を上げる。


 窓の外を見てみれば、そろそろ帰途に着く頃合いだ。千璃は長椅子の上に放り出したランドセルを背負うと、深木に帰る旨を伝える。


 にこやかな神父に見送られ、この日、千璃は教会を後にした。



       ◇



 神父に相談をしたと言うよりも、愚痴を垂れ流したその翌日。


 現在、鶴宮千璃のクラスは音楽の授業中であり、音楽室には彼女を含めた子供たちが規則正しく揃えられた机に着席していた。広げた教科書が閉じないようにリコーダーのケースを文鎮代わりにし、音符の上に音階を綴る作業に従事している。


 そんな年端もいかない生徒の視線を一身に受け止めるのは一人の青年であった。通常の教室とは違い、五線譜が書かれたホワイトボードにはいくつもの音符が水性インクによって形を成していた。音階を写し終われば、実際にリコーダーに息を吹き込み、作曲者との対話を楽しむ時間となる。


 しかし鶴宮千璃は、この単調な作業に中々集中できずに居た。


〝見られてるなぁ……〟


 楽譜通りにソプラノリコーダーの音色を操りながら、鶴宮千璃は自身を射抜く視線を敏感に感じ取っていた。周囲のクラスメイトではない。クラスメイトは皆一様に教卓の方を向いている。


 では生徒たちに顔を向ける教師はどうか。ホワイトボードの前に立ち、手本としてリコーダーを奏でる男性教師は特定の個人を注視するわけではなく、教室全体を見渡すように目を動かしている。


 結論から言って、鶴宮千璃に執拗な視線を送る人間は、この教室には居ない。これは千璃自身も認めていることだ。そして、そんな人物が本当に居てくれれば良かったのに、と悲嘆せずにはいられない。


 認めたくない。と言うか、認識したくなかったが、千璃を熱視する存在は男性教師の背後に漂っていた。


 長く黒い髪。色白を通り越した蒼白色の肌。俯き、影になった顔からは表情を察することが出来ないが、垂れた前髪の隙間から視線だけは強く感じる。白地のワンピースの下には女性らしい曲線が垣間見え、彼女の背景をぼんやりと見透かすことが出来た。当然、彼女に反応する人間は居ない。


 幽霊、である。しかも典型的とでも言うべきか。一昔前のホラー映画に登場するような様相は、どこか喜劇染みていて警戒心を保つのが難しい。


 千璃はリコーダーの吹き口からそっと唇を離す。そして静かに嘆息した。そのままリコーダーに吹き込んでいれば、きっと間の抜けた音が奏でられただろう。そんな確信が持てる程に、千璃は心底困り果てていた。


 昨日、神父から下手に関わるのは得策ではない、と助言を受けたばかりなのだが、どうやら相手が放っておいてはくれないようだ。目を付けられる機会があったとすれば、やはり初めての授業の時だろう。あまりにも幽霊らしい幽霊に二度見をしてしまい、その際、彼女と視線がかち合ってしまったと千璃は記憶している。


 この反応がただの反射でしかないのか、それとも僅かながらにでも理性を宿しているのかは定かではない。こちらから観察している限りでは、彼女は音楽室に取り憑いているわけではなく、男性教師に憑いているようだ。


 教師の名前は新倉(にいくら)道人(みちと)。年齢は二十代半ばといったところだろうか。短髪に整えられた黒髪や皺の無い手入れの行き届いたスーツ。嬉々と子供たちの相手をする姿は誰の目にも好青年に映るだろう。授業終わりに時間が余れば、適当にゲームの主題歌などをピアノで演奏することも、生徒からの人気がある一因になっていると千璃は考える。


 彼は学校に常任する教師ではなく、非常勤講師というものらしい。前年まで音楽を担当していた教員が年度末に産休を取り、空いた席を埋めるために雇われたそうだ。有名な音大を卒業し、在学中に幾つかの資格を取得していた彼は紆余曲折を経て、千璃の通う学校に講師として勤めることになったと聞く。


 当たり障りの無い噂話で得られる情報はこの程度。本人の人柄や普遍的な内容から、信憑性はある程度保証できると千璃は判断している。


 そして、改めて幽霊に意識を向ける。外見から判断できる年齢は新倉よりも僅かに若い。加えて、職員室で彼女の姿を見かけたときは、今にも消えてしまいそうな儚い印象を受けた。それがこの音楽の授業中は幾分か存在感が増しているように感じられる。


 彼女は新倉の音大時代の知り合いなのではないか。


 短時間彼女を遠目に観察しただけなのが心許ないが、現状で持ち得る情報を咀嚼した結果、千璃はそのような結論に至った。


〝まあ、だからってどうするわけでもないんだけど……〟


 知っていれば、深木に丸投げする際にも何かの役に立つかもしれない。それに、彼女を知り、彼女の未練が判明すれば、それを達成不可能なものに出来るかもしれない。そうなれば、彼女は自ずと消え失せるだろう。勿論、藪を突かないに越したことはないが。


 そんな消極的な自衛手段を講じていると、リコーダーの音色を打ち消すように授業終了を意味するチャイムが鳴り響いた。全休符を指示された教室は一瞬で静まり返り、生徒たちは教科書を閉じてリコーダーをケースの中に片付け始める。そして、本日の日直の号令の下、四十五分間の授業は終了した。


 片付けを終えた者から音楽室を去り、自分たちの教室へと戻って行く。行儀の良い生徒は新倉への礼を口にして。鶴宮千璃もその一人として後に続こうとしたときだ。


 すっと、千璃の視界の端に蒼白色が染み込んだ。


 驚きは無い。半ば反射的に距離を取る。


 しかし、その僅かな所作は、真っ直ぐ出入り口へと向かっていた人間が取るには、少しばかり不審なものに映ったようだ。


「どうかした?」


 前方、やや上方から声が響く。


 その声音は同年代の男子のように甲高い、不快感を煽るものではなく、落ち着きと綽然とした姿勢が同居した心地の良いものであった。良く通る声、というものを初めて聞いた。授業中のように多数人に声を掛けるのではなく、一対一で話しかけられたとなると印象も変わるようだ。


 漫然とそんなことを考えている間にも、生徒の流動は止まらない。音楽室内に居る生徒は数を減らし、退室の流れから弾き出てしまった千璃は顔を上げて新倉と視線を合わせる。立ち止まったままの少女に関心を向けるクラスメイトも多少は居たが、千璃がそちらに意識を向けることは無かった。


「今の授業でどこか分からないところでもあった?」


 もう一度、新倉が口を開く。よくよく見れば、彼は整った顔立ちをしており、緩く弧を描いた口元に嫌味はなく、邪推する方が難しい程の爽やかさだ。あと一ヶ月もすれば、女生徒からの人気は磐石なものになると伺える。


 しかし、それは千璃から縁遠い関心事だ。焦点こそ新倉に合わせているものの、千璃の意識はずっと背後に控える幽霊へと向けられている。


 今にして思えば、この幽霊が自発的に動く場面を見るのは初めてのことだ。その目的に当たるものが自分自身なのだから、普段よりも慎重な対応をしようと構えてしまう。


 だが、霊は千璃の歩みを阻害するだけに留まり、それ以上の接触を成そうとはしない。彼女の行動原理が不明である点に薄気味悪いものを感じるが、アクションを起こす気配が無いことを悟ると、千璃は早々に新倉の関心を解こうとする。


「取り残されてしまうのは、一体どんな気持ちだと思いますか?」


 仲の良い神父から学んだことだ。面倒な人間の相手をしたくない場合は、こちらから面倒な話題を振ってやればいい。そうすれば、相手の方から離れてくれる。


 大人が子供に教えると考えれば、それは最悪な対処法であるように思えるが、千璃は神父の言い分に一理あると納得していた。納得しているが故に、活用できそうな機会が訪れれば迷い無く教わった処世術を実践しようと試みる。


「誰かを残して逝くのも、残されたままに過ごすのも、どちらも同じくらいに御免被りたいところですけど、それでもどちらかを選ばなくてはならない時、人はどちらを選ぶんでしょうね」


 不恰好に唇を歪める。作り慣れていない笑みはひどく歪だと、鏡を見るまでもなく自覚できた。個人的にはもっと支離滅裂で意味不明でしっちゃかめっちゃかなことを並べ立てたかったのだが、幾分か、話題の核心に触れてしまっている。日頃から訓練もせずに言えることなど、この程度というわけだ。


 それでも、千璃が抱える事情を知らない場合、十分に関わり合いになりたくない要素を含んでいるだろう。結果良ければ全て良し。そう思い、千璃は歪な笑みを深める。問題があるとすれば、千璃はアヤカシを視る特異な眼を所持していても、人を見る目を養っていなかったということか。


 新倉は答えた。


「どちらかなんて関係ないな。ただただ、死にたい気分になるだけだ」


 長続きしないだけ前者の方がお得だろう、と爽やかな人好きのする笑顔を浮かべて答えたのだ。


 奥行きが消える錯覚を、千璃は抱いた。今まで彼が見せていた人格が薄っぺらい仮面になってしまったかのような。組み込まれたプログラム通りにしか動作しないロボットが、人間と同じ感情を持っているとパフォーマンスしているような。手を伸ばせば触れられる筈だというのに、テレビの画面に手を振っているような滑稽さすら覚えてしまう。


〝あ、やっば。この人神父と同じくらい面倒なタイプだ〟


 そう思っても後の祭り。今のやり取りは千璃の顔と名前を合致させるのに十分過ぎる印象だろう。所詮は子供の浅知恵であり、他人の入れ知恵を深く考えず実行した報いということか。適当に会釈をして立ち去った方が、まだ凡庸だった。慣れないことはするもんじゃない。ちょっと反省。


「気を引きたいのか注意を逸らしたいのかは知らないが、突っ込まれるとマズい話をわざわざ人に訊ねるんじゃない」


「……ですね。今反省を終えました」


 千璃は不出来な笑みを引っ込めて、新倉と視線を重ねた。先程感じた、得体の知れないモノが仮面を挿げ替えて人間に擬態している、といった違和は疾うに消え失せている。そこに居るのは嫌味にならない清々しい笑みを浮かべた好青年だ。ともすれば、先程彼から発露した変調は、全て千璃の錯覚だったと思い直してしまいそうになる。


 この瞬間、鶴宮千璃の中で新倉道人の存在が、深木神父と同列にまで格上げされた。


 少女の中で人物評が大きく変化したことなど気付く筈もなく、新倉は声を上げる。


「それで? 端的に言って、どうしてさっきみたいなことを言い出したのかな?」


「関わると面倒臭そうなガキだからこっちからアプローチを掛けるのは今後控えよう。そんなことを思わせようと行動した結果がさっきのものです」


 きっぱりと、千璃は新倉に告げる。千璃の言葉とは裏腹に、新倉の目には好奇の色が浮かび始めていた。これが普通の小学生なら、答えあぐねた結果黙って去るなり、泣いて有耶無耶にしてしまうところだろう。先の言動を考慮しても、この少女は他人に悪感情を抱かれようとも気にも留めていないことが伺える。


 千璃が新倉の評価を改めたのと同様に、新倉の中でも鶴宮千璃の備考欄に幾つかの項目が書き足されていた。


 新倉が笑う。


「確かに。普通の教員なら今ので一歩引くだろうね。更に畳み掛ければ、担任の耳に入れて自分は不干渉を貫くだろう」


「先生も是非そうなさってくれれば良かったのに」


 つられて、千璃も笑う。力任せに弓をしならせたような笑みではなく、歳相応の自然な笑い方であった。


 その最中にも、千璃は新倉の背後へと視線を遣る。虚空を見つめた時間は僅か一瞬。改めて宙を漂う異常を認識し、今後のことに思いを馳せる。


「では先生、そろそろ次の授業に遅れてしまうので失礼します。私のことは記憶に留めないでいてくれれば幸いなのですが」


「はっはっはっ。それはちょっと、無理な相談だな」


「ですよねー」


 苦笑を浮かべ千璃は音楽室を後にする。すでにクラスメイトたちは一人残らず移動しており、自分の教室まで千璃は悠々と歩を進めた。道中、やれやれと肩を竦めながら。


「迂闊なことを言った私の過失だけど、何だか思い通りに動かされているみたいで腹が立つわ」


 教室のドアをくぐると、千璃は次の授業の準備を始めた。クラス内は最近新しく話題に上り始めた都市伝説で持ちきりであり、千璃の心情をより憂鬱なものへ変化させるには十分過ぎた。



       ◇



 音楽の後に続く授業はひたすら板書に従事し、教師の話を右から左に聞き流す時間が続いた。そして学生としての勉学の義務を放棄した脳髄は、これから起こりうる問題とそれによって発生する損得について熟考。


 結果としては、ローリスクノーリターンといったところか。


 千璃から見れば、幽霊騒動に首を突っ込んだところで得が無いことは分かりきっている。強いて言うなら教師に恩を売れるかもしれないが、産休を取った人間の代わりとして通学している非常勤講師に恩を売ったところで見返りは少ないだろう。


 リスク面が低く見積もられているのは、偏に幽霊の存在感の所為だ。例え視えていなくとも、異彩を放っているモノは周囲の人間に影響を与える。


 しかし、あの幽霊には身の毛がよだつような、吐き気を催す嫌悪感が沸き上がらない。どころか水で薄めたが如く、今にも空気に溶け消えてしまいそうではないか。新倉に憑いている筈が、本人にも大きな悪影響は無いように感じる。


 気をつけなければならないのは、ささやかながらにも存在が確立している音楽の授業中だけ。そうすれば、今日のようなことはもう二度と起こり得ないだろう。


 そして、鶴宮千璃は決断を下す。


「今日も教会まで遊びに行こっと」


 新倉道人が関わる案件を放置するという形で。


 そうと決まれば、千璃が行動に移るまでのタイムラグは存在しなかった。千璃は手早く帰り支度を済ませ、ランドセルを背負うと適当にクラスメイトたちと別れの言葉を交わし、学校を去る。


 今の季節は春先であり、徐々に日入りまでの時間は長くなっているのだが、気を抜くとすぐに暗くなってしまう。


 ゆるくウェーブがかかった髪を春風に遊ばれながらも、特に気を払うこともなく千璃は教会に向けて足を動かす。教会への訪問は日々の習慣になっており、千璃の足取りにも迷いがない。通い慣れた道程を軽やかな歩調で進んでいた千璃であったが、今日に限っては少女の歩みを止める者が存在した。


「おーい。鶴宮ー」


 呼び止める声は背後から。


 おざなりな口調だというのに、その声は明瞭な響きで以て千璃の耳に届いた。当然、千璃はその声に聞き覚えがある。栗色の髪を翻し、振り返ったその先には、新倉道人がこちらに手を振っていた。


 彼の背後では、いつも通り幽霊が同伴している。


 先程、女の異形をローリスクと判断したこともあり、千璃は歩みを止めて新倉が追い付くのを待った。小学生女子と成人男性の歩幅の違いか、二人の間にあった距離はすぐに詰まる。


「先生はこれから家に帰るんですか?」


 追い付いた新倉に、千璃は皮肉か否か判断に困る言葉を浴びせた。下校中呼び止められたことに不満を持ったわけでも、何か他意があるわけでも無い。言葉通りの意味合いとして訊ねただけだ。決して、仕事サボってんじゃねーよ教師、なんてことは思っていない。


「音楽なんて科目を請け負った非常勤講師なんてこんなもんだろ。別に残ってまでするような仕事は無いしな。用が無ければ他の教員の仕事を手伝ってもいいんだが、まあ、今日は別に構わないだろ」


 新倉も千璃の言葉を深読みすることはなかったのか、訊ねられたことに対し淡々と言葉を返す。彼の言い方では、職場の人間関係よりも大事な用件が発生した結果、放課後にわざわざ千璃を探し出したことになる。


 それはそれで気になるところだが、千璃としては彼が纏う雰囲気の方に関心が向いた。


「……授業中と、口調や態度が違うんですね」


 鶴宮千璃の中で新倉道人の人となりは『人当たりの良いお兄さん』といった印象で固定されていた。老若男女問わず気さくに話し掛ける姿はそう認識するのに十分なもので、春の日向のように温かみのある人格者だと思っていた。


 だが、今の彼を見ているとそのような印象は感じられない。声質こそ同じなのに、どこか相手を突き放すような物言いや世界を俯瞰しているかの眼差しが、校内で顔を合わせる時よりも冷たい心証を抱かせる。


「そりゃあな。仕事とプライベートはきっちり区別することにしてるんだよ。ずっと同じ態度を貫くのなんて疲れるだけだし、相手によって接し方を変えるのが人間関係を良好にするコツみたいなもんだ」


 鶴宮だって、親しい人間と話す時もずっと敬語なわけじゃないだろ。と、新倉は言う。


 そう言われてしまえば、そういうものか、と千璃は納得するしかない。


 現に彼の雰囲気は別人とも思える程に変わり果てているが、そこに猫を被っていたと思わせる素振りは見受けられない。仕事着を脱いで私服に着替えようと、新倉道人が新倉道人であることには変わらないということか。


 ここで千璃は、今日の授業後、新倉から感じた些細な違和を思い出した。彼の人格が、仮面のように薄っぺらで無機質な人工物に成り果てるイメージを。


 相手の地位や自分との親密度。そんな要素が加わって、普通の人間は日頃から無意識に態度の変化を行なっている。だが、彼から感じるのはそんな普遍的な印象ではなく、より異質なもの。


 主義主張から性格・人格に至るまでを、状況に応じて全て一から再構築しているのではないか。そう。自分の心を好き勝手に作り替えているような。眼前に立つ男を見上げ、千璃はそんな感想を抱いた。


 今では彼の背後を漂っている幽霊よりも、彼が持つ本質の方がずっと恐ろしく感じられる。


〝やっぱり、深木と同レベルっていう私の直感は間違っていないみたいね〟


 しかし彼女は霊視能力者。悲しいかな。異質で不気味なモノには、日々の生活で慣れきっていた。新倉道人が有する異常性の一端を察していながら、忌避感も恐怖も然程沸き上がっては来ない。


「それで、新倉先生は私に一体何のご用でしょうか?」


 それどころか、こちらから本題を振ってあげるような親切心すら持ち合わせている。


 千璃の気振りを見て、新倉は笑う。その笑みは授業中に浮かべている爽やかなものではなく、世俗的で愉悦に富んだ笑い声であった。


「思ってた以上に面白い奴だな、お前。ま、用事ってのは大したモンじゃない。授業終わりにやたら抽象的なことを訊いてきただろ? で、思い返せば、鶴宮の言ったことに心当たりが無いわけでもなかったからな。そこで実は知り合いだったか、と世間話をしに来た程度の用だよ」


 ダウト。と、千璃は心の中で呟いた。


 しかしそれだけだ。思ったことを外界へ発露させる素直さもなければ、藪を突く真似もしない。自身の過去に思わせ振りな態度で触れられれば、多少のアプローチを図るのは道理。相手が小学生ともなれば、搦め手を用いずに直接的な問答になってもおかしくはない。


 放課後に千璃を見つけ出して、雑談にもならない話の中で交わした曖昧な問いの意味をわざわざ訊ねに来る。どうやら彼にとって背後の彼女の死は看過できない事柄のようだ。うっかりトラウマめいたものに触れてしまったのだろうか。


「多分、今年の始業式が初対面だと思いますよ。より直接的に顔を合わせたのは初めての授業の日だと思いますけど。それに私、小学校に上がる前にここに越してきたので、先生との接点は更に無くなるかと」


「はあん。成程成程。それじゃあ俺の勘違いで間違いなさそうだな。俺も転勤で今年に入ってからこの辺に越して来たんだよ」


「へぇ。そうなんですか」


 少し逡巡。このまま話を続けるべきか否か。深木神父が居る教会へ向かうのは通例化しているだけであり、絶対に行かなければならないというわけではない。〝暇だから〟という理由でスケジュール帳に書いていた程度の強制力の無い予定だ。


 迷うのは、このまま彼と会話をすること。持ち得る話題の量から話の内容は自然と自身の過去に関するものになるだろう。自分の経歴を何故知っているのかと探りを入れられている真っ最中で、更に会話を続行するのは適当では無い気がする。


 迷っている最中であっても、世界は停滞することを許さない。それほど多くは無いものの人の往来は存在するし、立ち止まっている二人に動けと命ずるように、背中には春風が吹き付けてくる。


「個人的にはもう少し話したい事があるんだが、問題が無ければ場所を移しても構わないか?」


 新倉は千璃の懊悩がまるで無意味であったことを示す問いを投げ掛けてくる。あちらが言葉のキャッチボールを続けたいと言うのなら、千璃に断る理由は無い。


「つまり、アレですね。ナンパというものですか。大人の男の人からそんな風に誘われるなんて、私初めてです」


 しかし快諾する理由も無いので、千璃の口からは茶化すような言葉が飛び出した。一応本日の授業後の反省を踏まえた上での突拍子もない発言だったのだが、新倉から戸惑った挙動は微塵も見られない。


「おー。歳を食ったなぁ、と衰えを感じる日々だったが、俺もまだまだ捨てたもんじゃないってことかね」


「衰えたって、まだ二十代ですよね?」


「いやいや。鶴宮もあと十年もすれば分かるだろうが、十九歳と二十歳では埋めることが出来ない隔絶があるからな」


「そうですか? 先生はまだまだ若いと思いますけど。それに、Treat or Treatと誘っていただければ喜んで着いて行く子も少なくないんじゃないですか?」


「その誘い文句に乗ったら必ず悪戯されることを覚悟しておけよ」


「それはもしかして、悪戯するから覚悟しておけという遠回しな宣言でしょうか?」


「ああ。するかも。学期末にうっかり通信簿に押す判子を間違えるかも」


「きゃー。校長先生ー。この人確信犯ですー」


 千璃は笑う。新倉も笑う。幽霊の表情は分からない。程々に楽しい会話だと千璃は思った。


 普通の成人男性なら眉を顰め、体面を気にして及び腰になるところだろうが、新倉は実に落ち着いた対応を返す。


 彼の背後に漂う幽霊は総スルーするとして、彼を参考にすれば人付き合いや受け答えといったコミュニケーション能力は十分に養えそうだ。そう結論を下した千璃は、新倉との関わりに僅かながらも見返りを見つけた。事が起これば、深木神父との仲介役を果たしても良いと思える程度の気分になる。


「それで、これからどこに行くんですか?」


 成人男性と小学生女子が交わす際どいやり取りの続きではない。そろそろ真面目な本題に立ち返ろうと思ったのだ。


 と言っても、心中では先程までの冗談が現実になる可能性も考慮している。その場合は、鶴宮千璃にしか成し得ない命懸けの逃亡手段があるので、新倉道人はどうとでもなるだろうが。


「鶴宮の家は寄り道とか間食とかにうるさい方か?」


「いえ。そこまで厳しい方じゃないです」


「そうか。なら適当に茶店にでも入るか」


「構いませんよ」


 これじゃあホントにナンパみたい、などと考えた所為か、千璃は努めて愛想良く微笑んだ。脱線した話を蒸し返さないよう、取り敢えず笑って場を円滑に進める。


 そして具体的な行き先は新倉に任せ、彼の半歩後ろを追従する。新倉と幽霊の間という微妙な位置だが、授業中と違い、幽霊からアクションを起こしてくることは無い。外を出歩いている間、彼女は新倉の軌跡を追う装置でしかないようだ。


 元々の年齢と引っ越しの経験から、千璃はこの町に長期間住んでいるわけではない。しかし、諸事情により様々な場所を走り回る破目になった千璃はこの町の大抵の地理を把握していた。


 まず小学校の通学路に使われている道路から外れ、駅前へと続く大きな通りへと合流する。当初は駅前の喫茶店に入るのかと思ったが、新倉の後ろを着いて行く内に目的地は駅周辺でないことが分かった。


 大通りを歩いたのは三区画程。そこからはまた通りを逸れ、別の路地へと歩みを移す。腰を落ち着ける店を決めかねているのかと思えば、新倉の足取りには迷いが無い。路地裏など不審な場所に近付くわけでもなく、一定の人通りがある道を軽快な歩調で進んで行く。


 しばらく歩き、背中で揺れるランドセルが鬱陶しくなってきた頃。ついに新倉が足を止めた。


「よし、到着」


 目的地だと宣言された建物を、千璃はまじまじと眺める。


 そこに聳えるのは五階建てのオフィスビル。どことなくコンクリート壁が薄汚れており、建造からそれなりの月日が経過していると伺える。しかし、ビルの周囲ではタバコの吸い殻を一つとして発見することが出来ない。


 日頃から定期的に掃除を行なっているのであろう。そのオフィスビルは風雨に晒されていた歳月と比べると、幾分か小奇麗な印象を受ける。


 そのビルの壁面に掲げられた看板を見るに、二階から五階までは人材派遣会社など、千璃とは縁の無い会社が名を連ねていることが分かる。そして新倉の目的は、このビルの一階で客を待ち構えている喫茶店であった。


 喫茶店への入り口は上階へと続く階段の横に取り付けられている。新倉がドアを開き、店内へと足を踏み入れる。続く千璃。例に及ばず、新倉に憑く幽霊も彼が歩いた箇所を辿るように移動する。


「いらっしゃいませ」


 入店した二人にウェイトレスが声を掛ける。


 当然と言えば当然のことだが、喫茶店に入った経験など小学生の千璃には片手で数えれる程しかない。少ない小遣いを飲食につぎ込むような性格をしていないことと、教会へ赴けばある程度の賄いはたかれることが、その遠因であろう。


 ほぼ初めて訪れる喫茶店。物珍しさからか、千璃は店内の様子を注意深く観察する。カウンターでは白髪交じりの初老の男性がコーヒーを淹れている最中であった。


 客足はカウンター席に老人が一人座っているのみ。コーヒーを淹れるマスターらしき人物と親しげに話しているので、常連客なのだろうと千璃は当たりをつけた。


 店内はそれ程広くはない。加えて、一席を除き空席なのも相俟って「お好きな席へどうぞ」とウェイトレスから告げられる。


 新倉がテーブルと椅子が並ぶ中を縫うように進んだ先は、入り口から最も離れた四人掛けのボックス席だった。千璃は窓際のシートにランドセルを置き、自分は通路側へ腰掛ける。新倉は千璃の対面、シートの中央付近に腰を下ろした。


 ウェイトレスがお冷を運んで来ると、新倉はホットコーヒーを注文した。


「好きな物を頼んでいいぞ」との新倉の言葉に甘えるとして、千璃はザッハトルテとオレンジジュースをオーダー。ウェイトレスは二人が告げた品目を復唱し、注文票に書き取ると、カウンターへと戻って行く。


 おもむろに、新倉が口を開く。


「お前、いつでもどこでもそんな風なんだな」


 言われて、千璃は小首を傾げた。


「どういう意味ですか?」


 言葉の意図が読み取れなかったため新倉に問い掛けるも、彼は「いや、何でもない」と発言を撤回してしまった。千璃としては、続く筈だった言葉が少々気になるものの、言い渋った話を追求する真似はしない。


 追求する前に新倉が別の話題を振って来たためでもあるが。


「そういや引っ越したと言ってたが、ここに移る前はどの辺りに住んでたんだ?」


「N県ですよ。生まれた場所と言ってもそんなに詳しいわけじゃありませんけど」


「ほー。ひょっとして引っ越しが多い家庭環境だったり?」


「さあ、どうでしょう? 今のところそんな予定はありませんけど、世の中何がどう転ぶか分かりませんし」


 転んだ拍子に何を落とすかも分かりませんし、と千璃は言った。


〝踏み込んで来るかな……?〟


 僅かなやり取りではあるが、千璃は今の新倉道人の考え方を掴みつつあった。彼は個人に関心を抱いても、付属物にまで気を払うようには見えない。そこで他人の家庭事情を探るような質問に微々たる違和感を覚えたのだ。


「はぁん。俺は昔から色んな場所を転々とする機会が多かったんだが、N県には行ったことがないな」


 踏み込んでは、来なかった。


 引っ越しの原因については興味が無いらしい。以前の居住地を知りたかっただけなのだろうか。彼の真意を汲み取りながら会話をするのは、とても骨の折れる作業だと実感する。


「…………はぁ。分っかんねぇなぁ」


 幾らか間を置いて新倉が溜め息と共に吐き出した言葉に、ギクリと千璃は身を強ばらせた。タイミングが良いと言うか悪いと言うか、まるで心の内を見透かされたような錯覚を抱いてしまったからだ。


「何が、分からないんでしょうか?」


 漠然と問い掛ける。


「何が、ね。今のところ全てかな」


 そうして返ってきたのは抽象的な答えであった。


 二人の間に割って入るように、ウェイトレスが注文した品々をテーブルに並べていく。新倉の前には湯気を立てるコーヒーが置かれ、千璃の前にはザッハトルテとオレンジジュースが運ばれる。


「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」


 そう確認するウェイトレスに礼を述べ、新倉は淹れられたばかりのコーヒーに口を付けた。それを見て、千璃もフォークを手に取るとザッハトルテを一口で食べきれる大きさに切り分ける。その一欠片にフォークを突き立て、口の中へと運ぶ。


 直後、チョコレートの風味が鼻腔を通り抜け、僅かな苦みを伴った甘味が口内に広がっていく。咀嚼する度に口の中で溶けるような食感に、思わず千璃の口元も綻んでしまう。


「美味しいですね」


 素直な感想を口にして、オレンジジュースが注がれたグラスを緩く弧を描く口元に。


 千璃が一度オレンジジュースを燕下したのを見て取って、新倉は話し掛ける。


「埒があかないからもう単刀直入に聞いてしまうが、俺の過去を一体どこで知ったんだ?」


「先生の過去、ですか?」


「知人が死ぬ、やたら具体的な例を言ってくれただろ。そんな辛気くさい話を人にした覚えも、俺の個人情報から辿れる筈もないんだが。それがずっと疑問になっていてな」


 その辺を詳しく話してもらえると助かる。と、新倉は言った。


 情報源なら貴方の後ろにくっついてますよ。と、気軽に言えれば千璃も楽に生きられるのだろうが、自分の欠点をおいそれと他人に曝け出す真似は一生掛かっても出来そうにない。故に、いくら学校の教職員といえども、親密度の低い新倉に自身の瞳の秘密を打ち明かすつもりは毛程も無かった。


 そして、新倉が歯に衣着せぬ率直な物言いをしてくれたおかげで、ようやく彼の本意を知ることが出来た。彼の疑問は『何故鶴宮千璃が自身の過去を知り得ることが出来たのか』と、この一点に収束される。


「今までの話を統合するに、俺とお前の接点は皆無なわけだ。初めから俺のことを知っていたというパターンは除外してもいいだろう」


 どおりで引っ越し前の住所や保護者の職業などを聞きたがるわけだ。結果、安直に思い付く最も高い可能性には、千璃自身が否と答えてしまっている。新倉が納得する話は出来そうにないなぁ、と考えながら、千璃は質問に質問を返すことにした。


「そもそも、何がそんなに不思議なんでしょうか。人の縁なんてどこでどう繋がるか分かったものじゃありませんし、私が先生のことを多少なりとも知っていてもおかしくはないのでは?」


「いや、それが可怪(おか)しいんだよ。学校に赴任してきた時点で初対面なら、俺の過去を調べられる筈がないんだ」


 何故なら、非常勤講師としての新倉道人の経歴は割りと適当に作られたものだからな。軽い口調とは裏腹に、吹聴してはならない筈の秘め事が千璃の耳朶を打つ。


「…………はい?」


〝おまえは何を言っているんだ〟という言葉が虚飾無く心に浮かんだ。今回ばかりは、感情を表情に出さない努力すらしない。


 千璃のリアクションなど意に返すこともなく、新倉は喋り続ける。


「業腹だが、お前のようなタイプの人間はよく知っている。基本的に何も考えてないんだろう。それも『何とかなる』なんて楽観的なものじゃなく、『どうにでもなれ』と消極的に破滅を望んでいる類の人種だ。だからこそ腑に落ちない。お前のような気質の持ち主が人の過去を調べ上げていることが。勿論そこには偶然が関与しているんだろう。で、俺はその偶然を知りたいわけだ」


 黙って聞いていれば、随分と酷い言われようである。


 そして千璃は先程までの考えを撤回する。先に突拍子もないことを言い出したのは新倉なのだから、自分もまた突飛なことを言ってもおあいこだろう、と。子供ながらの反発心と言ってしまえばそれまでだが、千璃は自身の発言の影響や今後の新倉の対応も想像し、視野に入れた上で余計な一言を告げようとしている。


 これは彼の言う通り、千璃の根幹には『どうにでもなれ』といったぞんざいさが存在しているという証左でもある。リスクもリターンも分析できる。理に適った賢い生き方だって理解できる。しかし、実行するかは別問題。それは鶴宮千璃を縛る枷には成り得ない。


 いい加減で、投げやりで、故に迷わず行動に移す。


「私のような人。つまり、痩せ細って白地のワンピースを着込み、幽霊みたいな印象を与える女性のことですか?」


 案の定。千璃の予想した通り、対面に座る新倉の目が細められた。


「ったく、そういう事をどこで知ったのかを、俺は知りたいわけなんだが」


 言うと、新倉はコーヒーを啜った。その所作を小休止と受け取り、千璃も一時甘味の補充に集中する。グラスの表面に滴る結露で濡れた手をおしぼりで拭うと、千璃は朗々と謳うように宣言する。


「実は私、幽霊が視えるんですよ。その人なら今も貴方の後ろに居ますよ」


 と言ったら、信じますか? そう最後に付け足して、千璃は言葉を締め括った。


 茶化すような正答を、果たして新倉はどう受け取るのだろうか。奇矯なことを言って煙に巻こうとしていると判断されるのだろうか。それとも、予想以上に相手をするのが面倒臭く、これ以上の話し合いは放棄されるのだろうか。


 鶴宮千璃は考える。思考停止をしないことは彼女の美点と言えるだろうが、考え抜いた結論が行動に反映されるとは限らない。結果、考え無しの振る舞いをするのだから、度し難い程の為様(しざま)と言うほかない。


「なら、授業終わりの奇行は、アイツからちょっかいでも出されたのか?」


「ええ。手癖の悪い人でした。突然手を振り上げて来るんですから、私には避ける以外の選択肢が無くて」


「ははっ。そいつは悪かったな。アイツに代わって謝ろう」


 まるで世間話の延長線のようなやり取りだ。まさか本当に本心から言っているわけではないだろうが、千璃のコミュニケーション能力では新倉の上辺を読み取ることすら難しい。


 同族とまでは言わないが、千璃は新倉という人間を比較的自分と類似しているのではないかと考えていた。思慮深い向こう見ず、と一見すると矛盾してしまうような性格を、彼もしていると感じたのだ。


 だがそれは少し違った。鶴宮千璃は受動的に破綻した考え方をしてしまうが、新倉道人は意識的に先行きの無い思想に殉じられる。そこが状況に流されているだけの千璃と、自分の意思で選択権を行使している新倉との決定的な差であろうか。


「よし。質問を変えよう。その手段は鶴宮以外に真似が出来るものなのか?」


 方針を変えてきた。過去を知る手法は特異なものであり、汎用性・応用性に欠けると判断されたのか。少なくとも、千璃の持つ情報収集能力には目を瞑り、模倣者を出さない算段を始めたようだ。


「探せば居ると思いますよ。専門家の方曰く、私のように何でも視れるタイプは希少らしいですが」


 どの道真偽を確かめる術はない。深木神父から聞き齧ったことを、千璃はそのまま新倉に伝える。信じてもらおうという気概は微塵も無く、話したところで信じないんでしょうという疑念すらも皆無であった。


 本当に、心底から成るように成れと思っている。


「オーケー。ならそういうことでいいか。まあ、特に問題があるわけじゃないが、くれぐれも言いふらしたりはしないでくれよ」


「私も、どこどこの誰々がいつ死んだか、なんていちいち吹聴する趣味は無いですよ」


 そうして、場には弛緩した空気が流れた。終わり、と判断してもよいのだろうか。話し合いと言うには分かり合った事は無く、交渉と呼ぶには互いに何も成し得ていない。精々、お互いの人となりを少し深く知ることが出来ただけだ。


〝向こうがこれでいいなら、私から言うことは何も無いんだけど〟


 本当に新倉が納得しているかは分からない。それでもこれ以上の対話が無駄だと判断されたのならそれに従おう。元より、千璃には確固とした目的が無いのだから。


 まだ半分程残っているザッハトルテを口に含み、甘味を堪能。次いで、グラスの中で波紋を描いていたオレンジジュースを飲み干した。


 見ると、新倉もホットコーヒーを一滴残らず胃に流し込んだようである。互いにオーダーしたものを食し終えたと認めると、椅子から立ち上がり出入り口横に設置されたレジスターへ。


 当然のように新倉が会計を済ませ、二人は並んで店外へ足を踏み出した。


 それ程長居したつもりはなかったのだが、気が付けば日は西寄りに傾き、青空を茜色に染め上げていた。


「それでは新倉先生。今日はごちそうさまでした」


 喫茶店が入ったオフィスビルから離れ、再び大通りへと戻ったとき、千璃はそう新倉に告げた。別れの挨拶のつもりで声を投げ掛けた千璃は言うだけ言うと、帰途に着こうとした。しかしその背に、新倉の声がぶつかる。


「まあ、待てって」


 新倉は、すたすたと歩き去ろうとする千璃の隣に並ぶと、自身の腕時計を確認した。


「鶴宮。お前の家はここから遠いのか?」


「遠くはないですよ。子供の足だと近くもないですけど」


 地図上の距離と主観を伴う距離との差を、千璃は語る。この場合、どのような言い方をしようとも新倉が千璃の家の近くまで送って行く展開は目に見えている。なので、千璃としては新倉が二の句を継げるよう、配慮した言い方をしたつもりなのだ。


「そこまで気を回すのなら、素直に『送って行ってくれるんですか?』とか聞けないのか」


 呆れ、苦笑混じりに新倉は言葉を返す。


「いえ。ただいつもよりも長い道のりになりそうなので、先生を同伴させるのは少しばかり忍びないなぁ、と考えていただけで。あ、私の家道路の向こう側なんで」


 言って、千璃は後方を確認することもなく、車道に身を躍らせた。


「おいッ!」


 慌てて、新倉が声を荒げる。


 勿論、そこが横断歩道だとか、ちょうど赤信号になっていただとか、そんな理由は介在しない。ただ確認するまでもなく、一台も車が走行していないだけだ。


 そして車だけではなく、道行く通行人の姿もいつの間にか視界の中から消え失せていた。


 この町が過疎化に悩まされており、人口の減少に歯止めを掛けられない地域ならば、このような状況は日常茶飯事であっただろう。しかし現実として人の流動は多く、特に夕暮れ時の駅周辺ともなれば、仕事終わりの会社員や下校中の学生で人が溢れている筈なのだ。


 しかし、いくら目を凝らそうとも、この場には鶴宮千璃と新倉道人以外の人間は存在しない。


 ──ふと気付けば、世界が変容していた。


 困ったというか、困り果てる。迷ったというか、迷い込んでしまった。


 その契機を千璃は思い返そうと努力するが、世界が正常であったのは喫茶店の中に居たまでだとしか判然としない。


「……まったく。深木のヤツってば、ちゃんと仕事してよね」


 このような事態を避けるために活動している筈の人間に対し、千璃は小さく毒づいた。


 しかしそれだけだ。目に見える異常がそこにあるというのに、少女の歩調に乱れはない。


「──おいおい。一体何のイベントだよこれは」


 寧ろ戸惑いは新倉の方が大きいくらいだ。見慣れた、と言うには彼の場合日が浅いかもしれないが、住み始めた町がコーヒー一杯を飲んでいる間にゴーストタウンになってしまったと考えれば、眼前の光景に対する処理が遅れてしまっても仕方ない。


「鶴宮、原因に心当たりはあるのか?」


 車道を邁進する千璃に追いつくと、新倉はそう声を掛けた。


「はい。大体想像はつきます。こういうのは時間経過に任せれば大抵の場合は大丈夫ですよ」


「経験者かよ。心強いねぇ。で、時間経過っていうのはどれくらい待てばいいわけなんだ?」


「取り敢えず、日が暮れるまでは頑張ってみましょう。進展が無ければまたその時に考えます」


「日が暮れるったってなぁ」


 二人は揃って西から東へと視線を移す。すでに太陽は沈んでおり、西の空では赤く染まった雲が陽光の残滓を主張している。反対側では点々と星々が煌めき、紺碧の空を飾っていた。


 日が暮れると形容するには十分な頃合いであることが伺える。遠くの空を眺めずとも、道路に設置された街灯は光量によって自身の勤務時間を感知し、千璃たちの足元を照らしてくれる。


「訂正します。真っ暗になるまでに事態が改善することを祈りましょう」


 勝手が分からない新倉は、場馴れしている千璃の言に従って行動することにしたようだ。彼の表情からは困惑や戸惑いといった色が完全に霧散している。その常人離れした胆力を見る限り、やはり彼は只者ではなさそうだと、千璃は考えを強くする。


 しかし目下のところ鶴宮千璃の懸念は、ゴーストタウンと化した町でも、新倉道人の精神構造でもなく、彼に憑いた女性霊であった。


 わけの分からない特異な世界に紛れ込んでしまったためか、彼女の存在が確立したものになりつつあると千璃は感じ取っていた。まあ、千璃としては後ろから刺されさえしなければそれでいいのだが。


 この不思議空間からの脱出方法については、何の考えも巡らせていない。理由は二つ。あまりにも唐突過ぎて考察が可能な情報が揃っていないこと。千璃と新倉は特に目立った行動をしておらず巻き込まれた感が否めない。なら、舞台を動かすために元凶の方からアプローチを掛けてくると判断したためである。


 当然千璃は護身法を会得しているわけでも、確実に逃げ切れる算段があるわけでもない。こんな状態で好き勝手に動き回っていることを新倉に知られれば一度はたかれそうな暴挙であろう。


 そして、車道を横切り歩道へと二人は歩みを戻す。流石にこの期に及んで自宅に帰ろうとは千璃としても考えていない。現時点で目指すべき場所は深木神父が居る教会だろう。


 彼まで迷い込んでいるとは考え難いが、それでも教会まで行けば何らかの対抗手段を思いつくかもしれない。


 そのような考え方に基づいて、教会に向かって進んでいたときだ。二人は交差点に差し掛かる。その四ツ辻の中央には、歪な人の形をした汚泥が彼女たちを待ち構えていた。


 千璃は汚泥を見つめ「ふむ、」と頷くと、口を動かす。


「流れ変わったな」


「やかましいわ」



       ◇



 さて、と千璃は気を取り直す。少女に油断はなく、何が起ころうとも即座に動けるように警戒を最大限引き上げた状態で思考を巡らす。


 異常な光景よりも遥かにインパクトが強い超常の存在が現れたため、新倉を気遣って小粋な冗句を飛ばしたのだが、その配慮は不必要であったらしい。本人は逃げることも叫ぶことも怯えることも恐れることもなく、あっさりと異形を認めているようだ。


 正常な判断が出来ない程に取り乱していれば、千璃は迷わず新倉を見捨てていた確信がある。そんな寝覚めの悪い展開にはならなかったことに、千璃はほっと胸を撫で下ろした。


 同行者の挙動に注意を向ける必要が無くなった千璃は、眼前に現れた怪異をよりじっくりと観察する。動きはない。距離も十二分に空いている。相手が動いてからも逃げるだけの余地はあると判断し、千璃はその場に留まることを選択した。


 その異形は、まさに汚泥の怪物と呼ぶのに相応しい外見をしていた。幼児が泥を塗り固めて作った不恰好な人形。胴体からは二本の手と足が伸び、かろうじて人型であることが伺える。しかし、それが人の形を模していると言うのなら、頭部という決定的なパーツが欠落していた。


 姿形を人間に投影すると首の断面に当たる部分から、ゴボリ、と異様な液体が溢れ出した。それはドロリと粘性を持ち、蛞蝓が体表を這うようにして地面へと流れ落ちる。怪異の足元では、コールタールの水溜りが領土を広げつつあった。


 辺りに満ちるのは吐き気を催す腐臭。動物の死骸がヘドロになったかのような深い死の香りが千璃の鼻腔を犯す。


〝案外、反魂香ってこんな香りなのかもね〟


 と、想像を巡らせてみるが、煙の中に見える願望の投影があんな出来損ないのヒトモドキなのだとすれば、決して縋りたくはない道具である。


「おい。経験者の鶴宮。見るからにヤバそうな奴が出て来たが、あれはどう対処するのが正解なんだ?」


 立ち止まった千璃に新倉が声を掛ける。やはりその声に動揺はなく、彼は理性を失ってはいなかった。


「どうするもなにも、近寄らない、関わらない、敵前逃亡に徹することが最良でしょう」


 怪異と関わる。本来なら、その人物には何らかの理があり、縁があるのが常套だ。例えば新倉と彼に憑く女性霊のように、事の起こりは過去の因果に根ざしている場合が多い。


 あんなヘドロの怪異と縁が繋がっている人間が居れば、まともな生き方をしていないに違いない。通常なら千璃は自身の行いを省みて、新倉道人の存在を徹頭徹尾疑った後、元凶の特定に努めるところだ。


 しかし今回に限り、その必要は無いと千璃は判断する。思い返すのは学校でクラスメイトたちが話していた新手の都市伝説だ。好き好んで聞き回る趣味は千璃に無かったため、偶然耳に入った範囲でしか知らないのだが、概要はヘッドレスサッカーが自身の頭を求めて彷徨い歩く、といったものだった筈。


 まさに、目の前の怪物を誂えたような怪談ではないか。なので千璃の心境としては、口裂け女に遭遇してしまった理不尽さを感じている。


 そして都市伝説にありがちな話で考えれば、この後の展開もある程度は予想できる。前方の汚泥は頭部を探し歩いている。ならば、鶴宮千璃と新倉道人の首の上に顕在している頭というパーツを狙って襲い掛かって来るのだろう。


 逃げ遅れたときはヘッドレスの仲間入り。例え新倉を犠牲にしたとしても、都市伝説内の空間から逃げきれるとは限らない。分が悪い。しみじみと思う。そして〝こんなの、いつも通りじゃない〟と千璃は不遜に微笑んだ。


「一応お伺いしますが、先生は最近生徒の間で話題に上がっている都市伝説をご存知ですか?」


「生徒間でのことを俺に聞くなよ。──だがまあ、アレが都市伝説ね。雰囲気あるじゃねぇの」


「まあ、本物ですし。私か先生がアレの対処法を知っていれば話は早かったんですが……」


「口裂け女に『わたし、きれい?』と聞かれて『普通』と答えるようなモンか。現役小学生、もっと周りとコミュニケーション取れよ」


「その私は友達が少なそうというイメージを今すぐ消し去ってください。私だって自重の二文字くらいは知っています。上辺だけで付き合う友人たちと適当に遊んで適度に距離を空けることくらい出来ますから」


「お前は碌な大人にならないな。その道の先人として語ってやるよ」


 一連のやり取りに終わりが訪れないのは、いつまで経っても汚泥の怪異に変化が表れないためだ。動きの見られない観察対象を相手に二人とも口が軽くなっている。


 加えて、完全に逃げるタイミングを逸してしまっていた。


「…………一応私はセーブポイントみたいな場所を目指してるんですが、迂回しますか?」


「このまま馬鹿正直に真っ直ぐ進んで、ハエトリソウとかゾウガメの餌同然になるのは嫌だからな」


 そして幾許かして、千璃の出した提案に新倉が乗る。


 そうしてようやく、二人は行動に移る。交差点の中央に位置する怪異を避けるように、小走りで道を右へ曲がる。背を向けた瞬間に襲われるのではないかと新倉は警戒していたようだが、怪異は最後まで無反応だった。二人のことなど眼中に無いかのようだ。


「わけが分からん」


 醜悪なオブジェが視界から消えると、新倉がぽつりと呟いた。彼はこの現象全てに対する心情を吐露したのだろうが、この都市伝説の在り方は千璃から見ても異様に感じる。事前に伝わっている情報から推測できる、定石とも言える行動を、あの怪異は実行しない。


 偶然特徴が一致してしまっただけの、都市伝説とは何の関係もないアヤカシなのだろうか。千璃がもう一度現状を分析し、歩きながら考察を巡らそうとしたときだ。


 道路はもう一度四つ角へ差し掛かる。またしても、道と道とが交わる中央には汚泥で形成された怪物が直立している。


 二度目ともなるとインパクトは弱い。足を止めた千璃と新倉は互いに視線を交わすと、以心伝心で通じたように頷き合った。千璃は教会までの道のりを脳内でシミュレートし、そこで導き出された最短ルートに従って新倉を先導する。当然、不定形の木偶の坊は無視だ。


 怪異と遭遇した際に剃刀の刃のように鋭く研ぎ澄まされた警戒心は、すでに最低限のものにまで薄らいでいた。


「ああ、まったく。面白くもない昔話をした後に、あんなものを見せられちゃ、嫌でも這い寄って来るのを意識しちまうな」


「這い寄る……?」


 その言い方から千璃は先程の汚泥を連想し、思わず後方を確認する。道を逸れたため現在地から交差点の様子は視認できないが、怪異が追い掛けて来ている気配はない。


 しばらく続く直線道路の先から視線を逸らし、隣を歩く少女の挙動を見て、新倉は苦笑を漏らした。


「いや、紛らわしい言い方をしたな。さっきのアレじゃなくて、タナトスさんの方だよ」


 タナトス。それはギリシャ神話でいう死を擬人化した神だったか。新倉に『死を意識させる』とまで言わせるのだから、彼が女性霊の生前について思いを馳せていることは千璃にも察しが付く。


 声を掛けるべきか思い悩むが、掛けるべき言葉が見つからなかったため、千璃は沈黙を守ることにした。少し歩いたところで、再び新倉が口を開く。


「喫茶店じゃ鶴宮のことを疑っているわけじゃなかったが、信じているわけでもなかったからな。アイツ、まだ俺の背中に張り付いてるの?」


 その問いに、首肯によって千璃は答えた。


「そか」


 と、新倉は呟く。それは、彼女がまだ成仏していないことを呆れるような口調だった。


 実際、呆れているのだろう。千璃だって、親しい者が成仏せずに彷徨っているところを目撃すれば呆れて物も言えなくなるに違いない。それが自分の所為ともなれば尚更だ。


「それで、あのバカは何か言ってないのか? 死んだ後もストーキングするくらい、言い残したことがあるんだろ?」


「私には分かりませんよ。その女性、亡くなってから随分時間が経ってるんじゃないですか? 今にも消えそうで、存在しているだけで精一杯なんだと思います。自己主張をしている余裕なんて無いんでしょう」


「じゃあ、何だ。鶴宮は元から大した情報を持ってるわけじゃなかったのか」


「まあ、そうですね。その女性の名前も私は知りませんし、過去に何があったのかも想像の域を出ないものばかりです」


 千璃が口に出した言葉を聞き届けると、新倉は深く息を吐いた。


「つまり鶴宮のことは放置しても問題なかったわけか。あー、完全に墓穴掘ったー」


「ホント、お互い器用ですよね。しなくてもいい無駄な行動をして、余計に相手の気を引いちゃうんですから」


 そう千璃が笑いかけると、同調するように新倉も笑った。


 相手を想って空回りして、取り越し苦労に気を揉んで、瑣末な事に一喜一憂するなんて、まるで出来の悪いラブコメを見ているようだ。しかもオチが都市伝説に巻き込まれるときた。これではラブコメどころかシュールギャグにすら成り得ない。ラヴクラフトコメディならば、即していると言えなくもないか。


 そしてラヴコメであることを主張するかのように、気付けば、二人の足先には汚泥の池が広がっていた。その中央には、やはりコールタールの人形が身体をこちらに向けて立っている。場所は例に漏れず交差点。


 二度あることは三度あるとよく言うが、こればっかりは三度目の正直となることを切に願う千璃たち。


 そして相変わらず、眼前の汚泥に動きはない。精々、首の断面から粘性の液体が溢れ落ちているだけだ。


 この登場の仕方にも、少しばかり慣れてきたと千璃は思った。最早、泥の異形を、タールを吐き出すだけのオブジェと見做し、穢れた池を迂回しつつ二人は道路を直進した。


 流石に擦れ違う瞬間には何かアクションを起こすのでは、と身構えたがその警戒も杞憂に終わった。


「エンカウント地点はある程度道幅のある交差点ってところか」


 声を出したのは新倉だ。三度目ともなると、出現法則にも類似点が認められるようになる。まだまだ情報不足で手探り感が否めないが、『交差点』がキーになっているという仮定は、千璃も概ね同意する。


 直進道路ではもちろん、三叉路でも現れなかった。交差点でも道幅が違っていたり、十文字になっていない場所で出現することはなかった。


 つまり、新倉の言葉を補足するなら、『全ての道幅が一定で、綺麗な十字を描いた交差点』という風になる。


 この仮定を信頼出来るものとして、千璃はもう一度安全な道順を検索する。この際、地に足つけて移動するという常識人の考えは含めない。この異界に千璃と新倉の二人だけしか存在しないのならば、どんな行為に及んでも咎める者は居ない。


 塀の上だろうが、家屋の中だろうが、マンホールの下だろうが、通行可能なルートは駆使すべきだと結論付けた。最後のガラスをぶち破ったところで損害賠償を請求する人間は居ないのだから。


 そうして、千璃は道筋から逸れて一軒のレストランに侵入する。新倉とは言葉を交わさなかったが、彼も千璃の行動の意味を察したらしい。二人は迷わずStuff Onlyと書かれた扉を開き、裏口から外へと出る。


 狭い路地裏では条件を満たす交差点など在るはずもなく、しばらくは安全な道程が確保された。


「いつもこんなことに巻き込まれてるのか?」


 余裕が生まれ、言葉のキャッチボールを行うゆとりが出来る。そうすると、新倉が千璃へと問いを投げ掛けた。


「最近はそれ程でもないですよ。避難所が出来てからはかなり楽になりましたし」


 怪異と遭遇する頻度は推して知れとでも言うように、千璃は回答を投げ返した。そして次は自分が問う番だと、新倉に話を振る。


「私、これでも幽霊に取り憑かれたことって無いんですよ。この際お尋ねしますけど、体調の変化などは起こるものなんですか?」


 平常時ならば、口に出すのも憚られる質問だ。貴方のご友人は今も幽霊になって現世を彷徨っていますよ、なんて今時新興宗教でも言わないだろう。特異な状況や存在に行き遭わなければ、答えを求めることなどしなかった。


「……知るかっての。多少でも自覚があるなら音楽の教師なんて面倒な仕事、他のヤツに回してたよ」


 音楽になんて、二度と関わることは無かっただろうな。と、新倉は言った。怒っているような、悲しんでいるような、憤っているような、嘆いているような、怒哀が綯い交ぜになった複雑な表情を浮かべながら。


「その人は、先生にとってどんな存在だったんですか?」


 踏み込み過ぎだ、と自分を俯瞰する冷静な部分が告げる。しかし、それでも千璃は聞いておくべきだと思った。終わったも同然の人生を歩む先達の話を、拝聴すべきだと感じたのだ。


「大学の先輩だよ。彼女はフルート科で俺はピアノ科。ちょっと縁があって何回か一緒に伴奏してな、それから暇な時も顔を合わせるようになった」


「その人と、付き合ってたんですか?」


「何だ、やっぱりお前も人並みには色恋沙汰に興味があるのな」


 おどけるように笑う新倉を見て、むっと千璃は眉根を寄せた。


「期待を裏切って悪いが、そういう関係にはならなかった。惚れたと言えば惚れていたが、それはアイツが出す音に対してだしな」


「音?」


「そう。音だ。格式だとか度外視しててな、コンクールなんかじゃ嫌われるが、楽しいくらいに楽しい音を出すヤツだったよ」


 懐かしむように、新倉は喋る。


 彼の人を見る基準や価値観はよく分からなかったが、それだけではなかった筈だと千璃は思案する。


 深木は言った。霊は自身の存在理由(レゾンデートル)に沿って行動すると。思考や感情が欠落しても尚、彼の下に留まるだけの理由が彼女にはあるのだろう。


「まあ、その後は音楽性の違いが出て、まともに会話をすることも少なくなってな。で、そのまま死んじまった」


 新倉は軽快に語るが、口調とは正反対に彼が発する空気は重い。当時のことを回想したのか、新倉の眉間には深い皺が刻まれた。千璃の耳に小さく舌を打つ音が届く。


 これ以上根掘り葉掘り訊ねるのは気が咎められ、千璃は黙って足を動かす。


 そしてしばらくは沈黙に包まれるが、教会への到着を目前として、千璃は口を開かなければならなくなった。問題への対処が出来るであろう教会の前には、最後の関所が待ち構えているのだ。


「ところで先生。私たちが向かっている教会は小さな丘の上にあってですね、そこに続く道は交差点から伸びてるんですよ」


「つまり、またあの泥人形が居るってわけか」


 辟易しながら新倉は溜息をついた。うんざりしているのは千璃も同様だ。


「もう一気に走り抜けちまうか」


 新倉の提案に千璃は少しばかり考える。


 四ツ辻で四度目の邂逅とは『()』が重なっていて気持ちが悪い。


 相手の怪異の情報は無いに等しく、まともな対抗策は走って逃げるくらい。罠を張ろうにも裏をかこうにも策を練ろうにも、怪異の移動速度やルーチン化した行動すら分からない。


 最初に提示した時間経過を待つという案は、一向に変わらない空の色を見て切り捨てる。世界はいつまでも薄闇に包まれたままで、真の闇が到来することは無い。


「十分に距離を取って走り去る。やっぱりこれに落ち着いちゃいますね」


 最後の最後に限り、万全を期そう。


 激しい運動をすることが決定すると、千璃は今まで律儀に背負っていたランドセルを新倉に預ける。歩幅の関係上、千璃が新倉よりも足が遅いのは仕方ない。走っている最中にランドセルが背中で上下するのはかなり鬱陶しく、少しでも身を軽くするための選択だ。


 無論、新倉も千璃の頼みを無碍にする人でなしではない。いざという時は投擲武器にする心算があるかもしれないが、命あっての物種だ。その時は千璃も学用品を諦める。


 最後まで何事も無いことを祈りつつ、二人は道路の左側へ移動する。交差点を左に曲がり、脇目も振らず真っ直ぐ走れば、そこがゴールだ。


 念のために、新倉は千璃の手を掴む。右肩に赤いランドセルを掛け、左手で千璃の右手を取った。


「よし。行くか」


 そんな軽い合図と共に、二人は小走りで駆け出した。


 無音の世界に響く四つの靴音、二つの呼気。リズミカルに躍動する音は二人よりも先に交差点へ辿り着き、深夜の大海のように黒く染まったコールタールの池へ吸い込まれる。


 怪異から溢れ出た黒い粘性のある液体は、車道と歩道の区別もなくアスファルトの地面を侵略していた。


 止まりこそしなかったが、二人は二の足を踏んでしまう。薄闇の中、近付くことによって初めて視認できたが、真っ当な足の踏み場がすでに無くなっているのだ。


 道を逸れようかとも逡巡するが、千璃たちの左手には森とまでは言わないまでも多くの木々が乱立している。僅かな光量さえ遮られた樹林の中は見通しが利かず、怪異に追われた時を考慮すれば逃げ込んで良い場所ではない。


 進むべきか、戻るべきか。それが問題だ。と、思考するが、どの道戻ったところでコールタールの領土は徐々に広がり、他の道路も封鎖されてしまうのが目に見えている。


 ならば、本格的に身動きが出来なくなる前に、目的地に最も近い今こそ、この障害を乗り越えてしまうのが得策ではないか。


「先生」


 僅かだが千璃は右手に力を込めた。新倉を引き止めるためではなく、先へ進む意思表示のために。その意を汲み、千璃を引っ張るようにして、新倉は足を速めた。


 怪異の一部を踏みつけて悠長に進む図太さまでは、この二人とて持ち合わせてはいない。


 ──疾走る。


 硬質なアスファルトを蹴る靴音は、泥沼に足を踏み入れたかのような湿り気を帯びる。びちゃり、と液体が撥ね、墨汁を垂らしたように靴を黒く穢した。


 その瞬間、今まで直立するだけだった汚泥の人形が目に見えて蠢動する。それは千璃と新倉の足元から生じた波紋が伝播したように。待ち望んだ獲物をようやく察知できたかのように。ぶるり、と怪異は身を震わせた。


 そして、汚泥が溢れる。例によって首の断面から汚泥が噴き出すが、今までとは比べ物にならない勢いと量だ。それはあたかも、間欠泉。噴出した液体は薄闇よりも尚暗く、距離感が上手く測れない。しかし、千璃たちに向かって降り注いでいることは経験から察せられた。


 身を貫くような危機感に足を動かされ、二人はより懸命に疾走する。加速し、地を蹴ったばかりの背後からは、瀑布のように大質量の水が爆ぜた音が轟く。


 押し潰されることは無かったものの、勢い良く弾けた飛沫が背中に当たる不快な感触に襲われる。バランスを崩しそうになるも、決死の思いで体勢を立て直し、足を前へ進める。


 立ち止まっている猶予は無い。それを理解しているにも関わらず、千璃は足を止めてしまった。厳密に言えば、服を後ろから引かれ、前に進むことが出来なくなったのだが。


「──ぐっ」


 横からは新倉の呻き声が耳に届く。首を回し背後を確認すると、二人の背には硬質のゴムのような黒い筋が幾本か張り付いている。制服のボタンに手を伸ばすと同時に、千璃はこの数条の糸が先程背中に当たった飛沫だと推察する。


 時間経過と共に流れ出る液体はソナー代わり。顔が無いということは視覚・聴覚・嗅覚・味覚が使えないも同然。あの怪異は残る触覚によって獲物を探知しているらしい。


 そして、怪異が意図的に噴出した液体。あれは怪異そのものと考えるべきだ。千璃たちの背に張り付いているものを含め、それらは液状にも関わらず、粘度や硬度を増し、固体の性質を持つ。現に異形が吐き出した大質量の液体は、色の無い虹のように空への橋掛かりとなっている。


 千璃が制服の上着を脱ぎ捨て、新倉がそれに倣う。二人の背後で更に怪異が蠢動する。そして──跳んだ。弧を描く汚泥のアーチを再び取り入れるように、地面と接する箇所を支点にしてリールを巻き取るように、汚泥の怪物が尋常ではない速度で二人に迫る。


「先生ッ!」


 急かすように千璃は叫ぶ。寧ろ待ってなどいられない。走りだしながら声を出す。


「くそっ!」


 先行く千璃を追うように、背広を脱ぎ捨て新倉は走る。


 その背後で人の形を模した異形が地面と激突する音が響いた。今度は飛び掛かる飛沫にも気を付け、新倉は千璃のランドセルを払い、それを避ける。


 数歩で千璃に追い付いた新倉は、少女の手を再び引いて加速する。互いに荷物が無くなり身軽になった今なら千璃を担いで逃げることも選択肢にあるが、新倉がしくじれば千璃は諸共になってしまう。


 生殺与奪権を他人に握られる不快感を自身に当て嵌め、新倉は手を引くだけに留まるのだが、その選択は間違いだったとすぐに悟ることになる。


 交差点を曲がり終え、道路は教会がある丘に向かって一直線になった。都市伝説から生じたコールタールの池からも脱することが出来、後は怪異の手が届かないところまで、息の続く限り走りきる。


 僅かでも逃げ切れる算段がついた直後、二人の背後で風が唸った。


 バランスを崩さないよう一瞬だけ視線を背後に投げる。肩越しに垣間見たのは、怪異が腕を伸ばしている光景だ。


 それも二人に向けて直線的に伸ばすのではなく、範囲内の物を薙ぐようにして鞭のように振るわれた。二人の足を狙ったかのように、異形の腕は地面と近い位置を平行に伸びてくる。


 迫り来る汚泥の腕を新倉は反射的に跳躍することで回避した。腕が振るわれたのは成人男性の膝の上程度の高さだ。新倉が避ける分には何の問題も無い。


 だが、千璃は違う。小学生の千璃ならば、その高さはしゃがんだ方が確実に回避できる。しかし今は決死の思いで逃亡している最中であり、しゃがむ等の回避運動を取るにはスピードが付き過ぎている。加えて、新倉と手を繋いでいることがここではマイナスに働き、スライディングのような真似も出来そうにない。


〝これはちょっと無理そうかな〟


 視界の端に迫る黒々とした人にあらざる腕を視認し、千璃は冷静に分析を下した。


 取り敢えず跳んでみる。


 分かりきったことであるが、腕は千璃の足元を通り過ぎることはなく、千璃の脛を絡め取った。強烈な横からのベクトルが加わり、千璃は新倉と手を離さざるを得なくなる。少女の矮躯は軽々と異形の腕に振り回され、アスファルトの地面に叩き付けられた。


 背中を強打し、意図せずして肺から空気が漏れる。朦朧となる意識は、切実に酸素を要求する肺の訴えによってかろうじて繋ぎ止められた。


 咳き込みながら、千璃は現状を認識する。自身の両足は汚泥の怪物の腕に縫い留められ、脱出は出来そうにない。まるでとりもちのようだ、と千璃は感想を抱く。


 ただ一つ予想外のことがあるとすれば、千璃の足と異形の腕との間には、新倉道人に憑いていた女性霊がクッションのように挟まっている点だ。見た目からして粘性があると伺える腕に絡め取られながら、異形の汚泥と接していないのは彼女のおかげなのだろう。


 それでも、腕の重量自体は存在するため、千璃一人で抜け出すことは不可能だ。


 千璃は身体をアスファルトの地面に投げ出し、天蓋を見つめる。ひりひりと背中が痛むが、どうせすぐに痛くなくなると思えば、痛覚すらどうでもよく感じられた。


 アヤカシを目に出来るようになって、約五年。自分でも驚く程に生き残ってしまった。


「でもまあ、これでやっと──」


 ──やっと、逢えるね。人生最後の景色になる紺碧の空を瞳に刻み、千璃は淡い微笑を浮かべた。


「鶴宮ァッ!!」


 死出の旅に向かう気満々だった精神を現世に留めたのは、新倉の悲痛な叫びだった。


 確かに先程のことは、千璃の十全な回避を阻害した彼の責任だという見方もある。


 そんなことをいちいち気に病まれてしまったら後味が悪い。そう判断した千璃は、駆け寄ってくる新倉に気楽な口調で話し掛けた。


「あー、そうそう。もし教会に行ってもどうにもならなかった時ですけどね。その時は駅に向かってください」


「お前、こんなときに何言って──」


「こんなときだから、裏技を伝授してるんじゃないですか。いいですか。この空間で最も安全な陸路は、線路の上です」


 だって、交差点とか関係ありませんしね。流石に町境まで行けば出られると思いますよ。と、千璃は微笑みながら口を動かす。


 伝えるべきことを伝え、すべきことをやり切ったという態度で地べたに寝転がる千璃の姿が、新倉の逆鱗に触れた。


「ああッ! クッソ! どいつもこいつもホントムカツクな! まだ何もしてねぇのに勝手に諦めて死ぬなっての!」


 新倉は自身のYシャツの襟に両手を伸ばすと、勢い良くボタンを引き千切った。一つ一つボタンを外す手間を省いて脱いだシャツを、汚泥と千璃の足の接着点に捩じ込む。そこから新倉は片膝を地面について汚泥を持ち上げようとする。


 新倉が触れた所為か、僅かに異形の腕が蠢動した。このままだと収縮する。これまでの経緯から千璃にはそう判断できた。勿論、それは新倉だって分かっている筈だ。


「先生、早く逃げた方が」


「分かってるよ! でもしょうがねぇだろ、あんな昔話した後じゃなぁ!」


 汚泥の感触が変わった。シャツ越しに腕を掴んでいる新倉には、それが如実に伝わった。ここを支点にして、泥人形が跳んで来ることが。


「何やってるんですか先生。私、こんなでも結構頑張ったんですよ。その結果がこれなら、別にいいじゃないですか」


「ハッ! お前らの頑張ったは努力じゃねぇ。ただ諦める口実作ってるだけだろうが。フルートしか取り柄がない女が知り合いに居たんだよ。ソイツが事故って後遺症で指が満足に動かなくなってな、治る見込はゼロじゃねぇのに適当にリハビリしただけで全部諦めやがって、それで結局自殺だぞ。しかもお前の言い方じゃ、未練残してまだ彷徨ってやがるんだろ。こういうのは、ホントムカツクんだよ!」


 視界の端で怪異が跳んだ。腕が激しく収縮していることがシャツ越しに伝わってくる。新倉は渾身の力を自身の手に込め、僅かに開いた隙間から千璃は片足を動かすことに成功した。


 しかし、絶望的に間に合わない。


 薄闇を裂いて、闇よりも暗い弾丸が二人に迫る。


 新倉は最後に舌を鳴らすと、せめてもの抵抗に千璃の上へ覆い被さった。


「どうして、そんな必死に、ここまでするんですか……?」


 本当に千璃には新倉の行動が理解できなかった。彼の背後霊となっている女性と千璃のことを重ねて見ているのは分かるが、だとしても、それは命を投げ出す理由にはならないのではないだろうか。


 漠然とそんなことを考える千璃に、新倉は至極簡潔に答えた。


「決まってる。──生きてるからだ」


 その理由は、千璃をひどく沈鬱なものにさせた。必死に、精一杯足掻いて、無駄とも思える行為に全力を費やす彼の姿は、見ていて、生きているということを実感させるのに十分過ぎた。


 放課後に喫茶店で話していた時は、少し似ている部分があると思っていた。だけど実際には、こんなにも違っている。そんな彼の死因が自分なのだと思うと、とても申し訳なくなった。


 千璃は目を閉じる。数秒後に自分たちを襲う衝撃に備えて。風切り音が一瞬ごとに大きく近付いて来るのは、新倉に抱えられていても十全に判別できた。


 音が近付くにつれ、自分に覆い被さっている新倉の身体が強張る。死ぬのは怖い。生物としてそんな当たり前の感情が鎌首をもたげるのを千璃は今更ながらに自覚した。新倉と同じ感情を抱けたことで、ほんの少し真人間に近付いた錯覚が生まれ、ちょっぴり悪くない気分になれた。


 そして飛来する異形は──そのまま千璃たちの頭上を通過した。


 地面へと墜落する音が、四つ連なる。


「──な、に?」


 千璃も、新倉も、同様に驚きを表情に浮かべると、顔を上げて辺りを見回す。


 そこには、胴に切り込みを入れ、両手両足それぞれのパーツに分けられた汚泥の人形の残骸が転がっていた。首の付け根がある四分の一の塊は、何故か赤い生肉がスーパーで売っているパックごとナイフで刺し貫かれていた。


 混乱。おそらくこの不思議空間の中で、最も激しく混乱している。頭の中には疑問符ばかりが浮かび上がり、自身の目を疑ってしまう。


「あー、あーあー! ちょっと千璃ちゃん! 逃げるなら教会の中までちゃんと逃げてくれない!? 異界を繋ぐのってかなり重労働なんだからね。場所の特定だって時間が掛かるし、門を開けっ放しにするのも割りと大変なんだから」


 教会へ続く丘の上から、声が響く。それは千璃にとって毎日のように聞いている、親しみ深い声音であった。


「……深木?」


「うん。ぼくだよ。千璃ちゃん」


 まるで偶々町中で顔を合わせたような気軽さで、深木は千璃たちに近付いた。そう。元はと言えば、千璃はこの男に助力を乞うためにこうして教会まで足を運ぼうとしていた。


 向こうから見つけてくれたのは御の字だが、教会近くであんなにも騒いだのだから深木としても見つけやすかったのだろう。


「えっと、深木は一体何をしたの?」


 覆い被さる必要はもう無いと判断したのか、新倉は千璃の上から退いて立ち上がる。足を下敷きにされている千璃は立つことは出来ないが、それでも上体を起こして深木に問いを投げ掛けた。


「ああ。時間が無かったし、いい加減アレの相手は面倒になってたから、ちょっとバグ技をね。ほら、『四つ角』に『刀』と『牛』を加えたら『四つ解き』になるでしょ」


 どうやら、あの肉のパックの中身は牛肉ということは分かった。そんな言葉遊びのような解決法で怪異を倒してしまうのだから、今まで張り詰めていたものが一気に緩み、意識を手放しそうになってしまう。


「どうも、初めまして。ぼくは丘の上の教会で神父をやらせてもらっている深木というものです」


「これはご丁寧に。先程は助かりました。私は新倉道人。彼女の学校で音楽を教えています」


 後始末ややらなければいけないことは多々あるのだが、名刺交換でもしそうな自己紹介を始めてしまった大人二人を横目に、千璃はもう一度地面に寝転がった。


〝もういいや。眠い〟


 色々と考えさせられることが凝縮された時間だったが、じっくり長考するためにも、今は睡眠という手段で以って、英気を養うことを千璃は選んだ。



       ◇



 翌々日。


 千璃を預かっている家人への言い訳には深木と新倉を協力させ、どうにか丸め込むことに成功。異界で失ってしまった学校の制服・学用品や新倉のスーツは、何故だか深木が翌日中に揃えてくれた。


 所持品の損失がなくなったことは喜ばしいが、それ以上に千璃は得た物の扱いに困り果てていた。


 ──生きてるからだ。


 生命の危機に瀕し、そう語った新倉の言葉が今も耳から離れない。柄にもなく、そんな風に生きてみたいと千璃は思った。何かをしなければいけないという衝動に駆られるのに、何をしていいのか分からない。


 取り敢えず、助けてもらった恩に僅かでも報いるため、深木とは教会の細やかな掃除などを手伝うと約束を交わした。これはいつも通りの定例行事と言えるので特筆する程ではない。


 問題は、新倉道人のために鶴宮千璃は何を成せるかということだ。借りがあれば返す。その程度の道理は千璃だって理解している。


 なら、その手段はどうすべきか? それに一日悩んだあげくに出した結論は、自身と新倉の過去の清算をしようというものだった。明確なビジョンを描くと、必要になる道具を深木に発注。彼はその頼みを快く引き受けてくれ、千璃は今日の登校時に教会に立ち寄り、道具の受け渡しを完了した。


 その放課後。新倉に時間を作ってもらい、千璃と新倉は音楽室で向かい合っている。


「こんにちは、先生。わざわざ時間を作ってもらってありがとうございます」


「いやいや、気にしなくてもいいよ。こっちもちゃんと話をしておきたいと思ってたところだしさ」


 嫌みにならない爽やかな笑みを浮かべて、新倉は喋る。


 彼の公私の切り替え方にはもう慣れたもので、千璃は気にすることなく話を進めようとした。しかし千璃よりも速く、新倉が口を開く。


「ところで、最初に一つ聞いていいかな?」


「はい? 何ですか?」


「一昨日は聞きそびれたけど、どうして君はそんなにも空洞のような人間になってしまったんだ?」


 千璃は一度口を開きかけるも、唇が震えることはなく、そのまま閉口してしまった。押し黙ると、視線を新倉から逸らし、僅かに逡巡。


 新倉道人と背後霊と化した女性の関係は異界の中で聞いた。浅い関係でなかったことは彼の怒気から十分に伝わった。なのに、自分だけ黙っているのはどうなのだろう。それは、フェアでないのではないか。


「……別に大したことじゃありません。よくある話です」


 そう前置きし、千璃は軽い口調で言葉を紡ぐ。


「私がこの町に引っ越して来たのは一昨日にお話しましたよね? 引っ越しの原因は、交通事故で身寄りが全員死んでしまったんです。父母と弟と私の四人家族で、両親は目の前でぺしゃんこに。弟の最期に見た姿も血塗れでぐったりしたもので」


 なーんでか、私一人だけ生き残っちゃって。生き残ってしまって、と千璃は乾いた笑みを浮かべて言った。


 多分その時からだ。いい加減でぞんざいで投げやりな生き方を始めるようになったのは。偶に思ってしまう。あの時、自分も終わっていれば良かったのに、と。稀に想ってしまう。人生を適当なところで切り上げれば団欒が待っている幻を。


 特に、アヤカシなんてものを視るようになってからは、責められているようで、一人のうのうと生きていることを怨まれているようで。


 別にここで終わってしまっても構わない。そんな自殺志願一歩手前の心持ちで千璃は今日まで過ごしてきた。


「それで、今も死にたい気分?」


 新倉にそう問われ、千璃は首を横に振った。


「似たような思想に殉じた人の話を聞いたばかりですから。私は、そんな風にはなりたくない。幽霊だなんて、なってたまるか」


 千璃の答えを聞いて新倉は笑った。


「そうか。それじゃあまあ、生きるしかないよな」


 衣のようだ、と新倉は言う。人は独りで、現実は冷たくて、道のりは厳しくて。それでも生きていくしかない。その辛さや寂しさを軽減するために、人は経験(ころも)を重ねるのだ、と。


「結局、脱ぎ捨てていいもんじゃないんだよ。例え重くなっても引き摺ってでも歩くしかない。最期に着込んだ衣を眺めて満足できたら、それが往生するってものだろう」


 だから、トラウマだろうが何だろうが、背負って生きろ。千璃は新倉にそう言われているような気がした。


 そして、それを実践しているであろう彼を見て〝悪くない生き方だな〟と思う。


「では先生。新しい衣を一枚、一緒に羽織ってくれませんか?」


 そう言うと、千璃はランドセルから直方体の黒いケースを取り出した。ケースのジッパーに手を掛けると、ジジジ、と音を立てながら内包されたものを取り出す。


 それは新倉にとっては見慣れた金管楽器。フルートだった。


「……吹けるのか?」


「いいえ。吹くのは私ですけど、私じゃありませんよ」


 禅問答のような答えを返すと、千璃は新倉との距離を縮める。そして、彼の背後を漂う女性に手を差し出した。


 手が──触れる。


 この世に存在しない筈の女の身体は氷のように冷たくて、血潮から熱を奪われるような悪寒と虚脱感が全身を駆け抜けたが、それを懸命に堪える。冷水に身を浸す感触に意識が遠くなる。そして自分の意思とは関係なく、身体が勝手に動き始める。


 夢心地でも意識を保っていられるのは、きっと耳朶を打つ旋律のおかげだろう。


 それはとても優しい音色だった。ピアノとフルート。その優しい協奏に耳を傾けながら、千璃はゆるやかに眠りについた。



       ◇



 消毒液の香りがつんと鼻を突く一室で千璃は目を覚ました。保健室で目覚めるのは予想の範疇であったが、千璃が横になっているベッドの傍らに深木が座しているのには、意表を突かれたとしか言い様がない。


「何をするつもりなのかは伝えたけど、ここまで来るとは思わなかったわ」


「まあ、念のためにね。そのまま千璃ちゃんが亡霊に乗っ取られることも、可能性としてはあったわけだし」


「……ふぅん。彼女、私の中に居座ろうとしたの?」


「いいや、まったく。千璃ちゃんが倒れた時にはもう消えてたんじゃないかな」


 元々今にも消え去りそうな存在だったのだ。千璃が肉体の行使権の一部を一時的に委ねたと言っても、彼女にはその権利を使うこと自体が相当な負担になったに違いない。これ以上存在を消耗すれば消えてしまうのは自明の理だ。


 それでも、彼女はフルートに息を吹き込んだ。自身の魂をフルートに吹き込んだ。


 新倉は怒っているだろうな、と千璃は思った。死んだ後に他人の身体を借りるくらいなら、どうして生きている間にそうしなかったんだと。そしてそれ以上に、安堵しているんだろうな、とも思う。


「どうだった? 幽霊を自身の裡に取り入れた感想は」


「決まってるでしょ。最悪よ」


 今だって異物が胸の内に侵入した残響か、身体が悪寒に襲われて震えが止まらない。


 そしてそれとは別に、指先に力を入れようとすると、引き攣ったように細かな痙攣を繰り返す。自分の体調から、彼女が全身全霊で演奏をしたことが分かる。同時に、未成熟なこの身体では納得できる演奏は出来なかっただろうとも。


「ホント、最悪。私が仕組んでおいて、私が真っ先にへばるなんて。格好悪いにも程がある」


「ははっ。そこまで悪くはないよ。色即是空空即是色か。うん。悪くない」


 仏教用語を例えに持ち出す神父は如何なものかと思ったが、こんな適当な男でもちゃんと地に足つけて生きているのかと思えば、今からでもやり直せるように感じた。


「ねぇ深木。ちょっとお願いがあるんだけど──」


 今までは生きることに手を抜きすぎた。少しばかり遅くなってしまったが、これからは本気を出して生きていこう。みっともなくても見苦しくても、ちゃんと全力で生を謳歌する。幽霊なんてものに成り果てないように。


 鶴宮千璃は震える手を握り締め、そう誓った。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 大変楽しませて頂きました。
2013/07/10 16:37 退会済み
管理
[良い点] 相変わらずの高レベルな文章に脱帽しました。書籍化したら買いたいレベルです。 [一言] 活動報告に書かれてた時代から少し昔の話なんですかね。センリさんという共通の人物は出てきてますけど、あ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ