小雪
夜から朝へ向かう時刻。
紅い踊り子は宴を続けていた。
木々が倒れ道が塞がる。
群れた犬の数をみとめて、春日小雪は腰の刀に手をかける。
小雪の瞳には、犬しか映っていなかった。
身体が震えていた。
誰かの声が空を切る。
絶命という苦悶の声。
犬の鋭い爪が、小雪を襲う。
唸る犬が、爪を血で濡らした。
小雪は腕を見た。
脈々と流れる血液がゆっくり袖を染めていく。
身体が動かないまま、奥歯を噛みしめ立ち尽くす。
なすすべなく、あたりを見回した。
囲むのは雪の花ではなく、真紅の光を放つ炎だった。
犬あるところに、火は放たれ確実に森を紅くしていく。
動いているのは犬だけではないのだろう。
こんなことをしているのは、青葉党の連中だと知っているだけに、その汚い手口に苛立つ。
しかも、この行為の裏に白夜党を落とす下準備がなされていることを、赤間谷の聖から聞いている。
青葉党の目的は子供を集めて使うことではなく、むしろ、そちらの方なのだろう。
とんだとばっちりだった。
小雪は渾身の力を振り絞って、犬を叩き伏せ、やっとたどり着いた場所は何時も屯する湖だった。
煙が漂う。仲間の名前を我知らず叫ぶ。居るわけがないと、冷静な自分が、冷笑する。小屋に掛けられた、火のはゆらゆら揺れて激しい熱さが周りを覆う。せめて中に人が居ないことを祈ると、小雪はその場から離れた。犬から逃げ切れたとは思っていない。小雪は、振り向いた。冬だと言うのに元気なそれ。確実に忠実に飼い主や、調教師の理想の元に作られた残虐な者達。数年前、犬の調教に失敗して、生き絶えた間抜けな奴らが居たことは、風の噂で誰もが知っているが、実際その場にいた小雪にとっては、最悪の思い出だ。その時の恐怖がまだ抜けていない。幼すぎた小雪の心に出来た深い穴。ついでに、その調教師にされた、行為すら体に染み着いて離れない。傷つけ踏みにじられた、幼い頃の記憶が、犬により引き出されていく。抗おうにも、手足が震えて、今にも狂いそうな勢いだ。霙が火を叩くが消える気配がない。血液の流れる音が次第に早くなる。神経が不安に犯され始める。視線は炎をなぞっていた。息が肩を奮わせる。しかし、犬は息を潜めて一向に仕掛けてこない。腕の痛みを気にしている場合でもない。ふいに、崩れ落ちる。身体に激痛が走り、筋肉が麻痺した。地に沈んだ、小雪の身体を冷たい雪が受け止める。思考がめまぐるしく廻る。流れてくるのは限りない畏怖…冷たく研ぎ澄まされた、殺意の念。沈黙の恐怖に支配されていく、冷たい苦痛。(ころされる)胸中で情けなく呟いて、目を閉じる。息が思うように出来ない。今まで忘れていたことが一気に暴れ出す。居竦まった身体の言うことがきかない。内向的な波に襲われ、放心常態の小雪の肩を誰かの手、不器用に掴む。
「大丈夫か?」
彼の声が落ちる。
「行かなきゃ」
「どこへ」
「…仲間のところよ」
我に返ったのか、小雪は男を突き飛ばす。
その背後に、音もなく群が姿を表す。
それに混じるように、突き飛ばした彼とは別の男が、残忍な目で二人を見ていた。
「犬の扱いをしらないようだな」
男は彼にそう言った。声に反応し、小雪は顔をあげた。男は笑っていた。
「真田の息子」
「………」
視線は彼を見ている。小雪のことは見ていない。
「噂通りだな」
男は、彼の返答を待たずに、呟いた。
「その犬がお前を嫌う理由だ」
「…?」
男の言ったことを、彼は理解していないらしい。
一歩踏み出した男を警戒して、彼は小雪をかばうように立ちはだかった。男がなお、笑う。
「何がおかしい」
「私は、お前の後ろの犬に用がある。」
彼の後ろで震える小雪に気付いて、彼は苦笑する。
「俺の後ろに犬はいないよ…」
彼が小雪の過去を知る由もない。
ただ、男と合間見えたのは、これが始めてではない。
もっとも、其れが本物か偽物かまでの区別は付けられなかったが。
男は表情一つ変えずに、二人を見る。
「無駄な時間を過ごすのが好きか?」
「きらいだ、ついでに、あんたの相手もしていられない」
「…ふむ、私を殺める絶好の機会を逃してまで、その犬を庇う理由が知りたいな」
「…復讐は望むが、殺しし合いは避けたいんだよ、殺しても殺したりないからな…。それと、偽物何万殺しても…罪悪募るだけだから、本物が出るまで、こいつは預かる。」
「ほう…、不思議なことをぬかすな??…いつ壊れるかるかしれん、道具をわざわざ使おうとするのは」
「…それは、とりあえず、頭の命令でこいつは連れてかないとなって、そう思うだけだ。…ところで何のようだ」
「本物からの伝言を伝えに来ただけだ。お主に用はない。…」
失笑した男は小雪を見据えた。
「おまえは簡単に殺さない」
佐久間と呼ばれた男は、それだけ言い捨てると、何もなかったかのように身を翻す。
その後をぞろぞろと犬の群れが移動する。
後ろで、小雪が崩れ落ちる音がした。
張りつめていた空気が、ゆっくり動く。
倒れた小雪を抱き上げて、銀矢はその軽さに戸惑った。
血が着物を濡らし、煤けた桃色に黒い染みを作る。
調教師が頻繁に戦場に出るようになったのは、
「月影の乱」
だった。
「月影の乱」
当初の犬と言えば、親を無くした子供や行き場を無くした浮浪者を指していた。
佐久間凍矢は調教師の中でも残虐者として有名だった。
佐久間にいたぶられた子供達は今もその影に怯えている。
小雪のように、人間不振にまで陥り、心を閉ざした子供が沢山いる。
心の傷は簡単には消えない。
それだけに、どう接すればよいか、彼は分からなくなる。
軽くため息をつき、忌々しいほど降る雪を睨んでみる。
いくら、北国育ちでも冬の寒さに馴れることはない。
雪の降る日は暖かいと、一体誰が言ったのだろうか。
歩きだした彼に火の粉が降り懸かる。




