誤算あるいはカタストロフィー
1. 完璧なシミュレーション
統合地球防衛司令部(JEDC)のメインモニターには、息をのむほど美しいグラフィックが映し出されていた。
漆黒の宇宙空間を滑るように進む、直径およそ六キロメートルの氷と岩石の塊――彗星「C/2026 G1」。その表面に、世界各国から打ち上げられた数百本の軌道追跡線が重なり、やがて眩い光の円となって拡散する。
「……作戦成功率は九九・八パーセント。彗星表面から数百メートルの到達点で連鎖熱核爆発を起こし、発生する高熱X線によって表面物質を急激に蒸発させる。その反作用により、彗星の軌道は地球の周回軌道から三千キロメートル以上外れる」
広報担当の技術将校が、集まった各国の報道陣に向けて朗々とプレゼンテーションを続けていた。テレビ画面の隅には「人類の団結」「科学の勝利」といった誇らしげなテロップが踊っている。
地下司令部の中央解析室で、モニタの数字を凝視していたライアン技師長は、深く溜め息をついた。彼の前にあるコンソールには、広報用の美しいCG画面とは全く異なる、無骨で冷酷なデータシートがスクロールしていた。
「ライアン、顔色が悪いぞ。世界が救われる瞬間だというのに」
隣に立ったヘイル大佐が、コーヒーカップを手にして声をかけてきた。その声には、歴史的偉業に立ち会う軍人特有の興奮が混ざっている。
「大佐……このシミュレーションの初期パラメータを誰が承認したのかご存知ですか?」
「誰だって? 防衛科学委員会の最高権威たちだろ。スーパーコンピュータで何百万回も走らせた完璧なモデルだ」
「ええ、完璧です。『すべてのミサイルが設計通りの精度で製造され、すべての部品が完璧に経年劣化に耐え、爆縮回路が微秒のズレもなく作動する』という前提に立てば、ですがね」
ライアンは乾いた声で言った。
「地下核実験が全面停止されてから三十年以上です。我々が保有する『核兵器』の九割以上は、実弾での過酷環境テストを一度も経験していません。ミサイルを飛ばすことと、宇宙空間の極限下で核爆発を起こすことは、まったく別の問題なんです」
「縁起でもないことを言うな」ヘイル大佐は眉をひそめた。「米・中・露・欧、すべての核保有国が総力を結集してメインフレームを調整したんだ。プロパガンダのために数字を盛るような真似をするわけがないだろう」
「盛っているからこそ、この数字なんです」ライアンはボソッと呟いた。「彼らは『核が動かなかったらどうなるか』ではなく『国民をどう安心させるか』の計算しかしていない」
カウントダウンが始まった。
T-10分。
世界各地の地下サイロ、原潜、移動式発射台のハッチが一斉に解放される。人類史上最初で最後の、全核保有国による総力射撃作戦「プロジェクト・アポロン」の幕が上がろうとしていた。
2. 炎に包まれるサイロ
「カウントゼロ。発射」
オペレーターの叫びとともに、メインモニターの地図上に無数の緑の点が点灯した。北米の大平原、シベリアの永久凍土、中国西部の砂漠、そして大洋の渦中に潜む潜水艦から、人類が蓄え続けた火薬の結晶が一斉に空へと解き放たれるはずだった。
しかし、カウントがゼロを過ぎた直後、緑の点灯に混じって、禍々しい赤い警告灯が雪崩のように画面を埋め尽くし始めた。
「アラート! ネバダ第4サイロ、点火失敗……待て、サイロ内圧力異常上昇! 爆発しました!」
「シベリアの第十二ミサイル連隊、ブースター点火直後に燃焼室が穿孔! 機体が垂直に沈下していきます!」
「イエローナイフ基地、第二段分離に失敗! 誘導不能、墜落します!」
解析室のスピーカーから、現場の悲鳴と混乱した通信データが濁流となって流れ込んできた。
ライアンの目に飛び込んできたのは、凄惨な現実だった。
長年、予算の減額と事前の張り子のような点検で放置されていたミサイルサイロでは、固体燃料に目に見えない微細な亀裂が入っていた。点火と同時に火薬は不規則な爆燃を引き起こし、推進薬の圧力に耐えかねたケーシングがサイロの内部で破裂。メガトン級の核弾頭を載せたまま、ミサイルは発射台ごと跡形もなく吹き飛んだ。
別の基地では、自動開閉ハッチの駆動油圧系が老朽化で固着しており、開放がわずかに遅れた。そのわずかなタイムラグの間に、ミサイルは閉じたハッチの内側に激突し、自爆した。
潜水艦から発射されたSLBMの多くは、海水で腐食した発射管からまともに押し出されず、海中で推進剤が暴走して自艦を巻き込んで沈没した。
「な、何が起きている……!?」ヘイル大佐がコーヒーカップを落とした。黒い液体が床に広がる。
「何が、ではありません。現実です」ライアンは冷たく吐き捨てた。「まともに離昇し、大気圏を脱出できたミサイルは……全体の『五割』です」
発射されたミサイルの半分は、彗星に届くどころか、自国の土壌を焼き払う自爆の炎に消えた。
地上は彗星が届く前に、自国が放った未熟な火の粉と、サイロから漏れ出した有毒な非対称ジメチルヒドラジンの毒煙、そして不完全爆発した推進剤の放射能汚染によって地獄絵図と化していった。
だが、地上のパニックをよそに、残された「五割」の鉄の槍は、暗黒の宇宙へと突き進んでいった。
3. 空虚な「命中」
「大気圏離脱を確認した機体、計四百二十基。誘導シークエンスに入ります」
オペレーターの声は途切れ途切れだった。彼らの故郷の基地がすでに消滅していることを、誰もが感づいていた。
だが、宇宙へ出たからといって問題が解決したわけではなかった。
宇宙空間の過酷な熱環境――太陽光に晒される面の酷熱と、影に入る面の極低温。数十年前に製造され、理想的な室内環境でのみテストされてきた電子基板は、宇宙線の洗礼と過酷なヒートショックによって次々とショートしていった。
「第三波攻撃群、姿勢制御スラスターのバルブが凍結! 軸がぶれています!」
「姿勢制御不能! 機体が回転を始めました! ターゲットを見失います!」
ジャイロセンサーの公差オーバー、プリント基板のハンダクラック、ソフトウェアのオーバーフロー。地上のシミュレーションでは「無視できる確率」として処理されていた微小な欠陥が、宇宙という絶対的な物理空間で牙をむいた。
あらぬ方向へ飛んでいき、永遠に宇宙の孤児となるミサイルたち。
迷走する鉄の塊の群れの中で、奇跡的に彗星「C/2026 G1」の誘導エリアにまで辿り着いたのは――最初に作戦へ投入された全ミサイルのうち、わずか「三割」に過ぎなかった。
「ターゲット接近! 距離一千キロ……五百キロ……百キロ!」
「命中します!」
メインモニター上で、赤い光点が彗星の巨大なシルエットに次々と重なった。
グラフィック上では、光点が衝突した瞬間にパッと眩しい爆発のエフェクトが広がっていく。
「当たった……! 当たったぞ!」
ヘイル大佐が司令部の壁にしがみつきながら叫んだ。
「見たかライアン! 三割でも十分だ! 数十メガトンの核エネルギーが直撃すれば、あんな氷の塊など――」
「大佐、静かにしてください」
ライアンは冷ややかに、画面の生データを指差した。
「光学的観測データを表示してください。フィルターなしの、素のデータです」
オペレーターが震える手で画面を切り替えた。
そこに映し出されたのは、広報用の演出CGではない、望遠カメラが捉えた本物の彗星の姿だった。
彗星の表面で、時折、小さな小さな火花がパチパチと弾けていた。
それは、数トンの金属塊が秒速数十キロメートルという超高速で岩石に激突した際に発生する、ただの「運動エネルギーによる摩擦と破砕の閃光」だった。
熱核爆発の眩惑的なフラッシュ(閃光)は、どこにもなかった。
大気を切り裂く衝撃波も、表面を蒸発させるガンマ線の濁流も、何一つ起きていなかった。
「な……なぜだ? なぜ光らない!?」大佐の声が裏返った。「何メガトンもの核弾頭が衝突したんだぞ!?」
「だから言ったでしょう」ライアンは掠れた声で言った。「『ただぶつかっただけ』だからです」
4. ゼロの物理学
核兵器、特に高度に小型化されたミサイル搭載型の熱核弾頭(水素爆弾)は、精密機械の極致である。
中心部にあるプルトニウムの球体を、周囲に配置された数千個の爆縮レンズ(精密に計算された形状の超高爆速火薬)によって、微秒単位――一秒の百万分の一という精度で、完全な同心円状に圧縮しなければならない。
もし、火薬の経年劣化によって爆速に一微秒でもズレが生じたらどうなるか。
もし、高振動によってレンズの形状にミリ以下の歪みができたらどうなるか。
あるいは、極低温の宇宙空間で電子起爆回路のコンデンサが容量抜けを起こしていたらどうなるか。
答えは単純だ。
爆縮は同心円を描かず、非対称な衝撃波となってプルトニウムを横から叩き潰す。
超臨界状態(連鎖反応が爆発的に加速する状態)に達する前に、プルトニウムは不揃いに破砕され、ただの歪んだ金属片となって宇宙空間に飛び散る。
専門用語でそれを『フズル(不完全核爆発)』と呼ぶ。
あるいは、単なる「不発」と。
「爆縮レンズの同期回路が死んでいたんです」ライアンはスクリーンを見つめながら呟いた。「あるいは、化学爆薬が三十年の歳月に耐えきれず、不純物を生んで燃焼速度が狂っていたか。いずれにせよ……あの中にあったのは、精密に調整された兵器ではなく、ただの『重い不燃ごみ』だった」
「そんなバカな……」オペレーターの一人が泣き出した。「一基も……一基も爆発しなかったというのか!?」
「起爆成功数――ゼロ」
ライアンは事実を淡々と読み上げた。
「ミサイルは彗星の表面に穴を穿ち、自ら粉々になって散りました。核爆発による熱も、放射線による蒸発推進も、何も発生していません。我々は、ただ数十トンの金属クズを彗星に投げつけただけです」
画面の中で、彗星「C/2026 G1」は何事もなかったかのように、悠然と漆黒の闇を泳ぎ続けていた。
その表面には、ミサイルが衝突した際の小さなクレーターがいくつか増えただけに過ぎない。六キロメートルの質量を持つ巨大な氷と岩石の塊にとって、そんなものは蚊に刺された程度の衝撃ですらなかった。
「軌道数値を……修正してください」ヘイル大佐が幽鬼のような顔で命令した。
オペレーターがキーボードを叩く。
メインモニターの右隅に、新しい予測軌道が表示された。
【彗星軌道変化量:0.0000%】
【地球衝突予測時刻:T+4時間12分】
「変化なし……」誰かが呟いた。「軌道が、一ミリも変わっていない……」
5. 静かな終焉
広報用の世界同時生放送チャンネルでは、未だに「人類のミサイル群が彗星を完璧に粉砕する架空のCGアニメーション」が繰り返し流されていた。
画面の中の政治家たちは、誇らしげに胸を張り、「我々は勝った」「歴史的新時代の幕開けだ」と、あらかじめ用意されていた勝利の演説を読み上げている。地上で自分たちの基地が自爆の炎に包まれ、放射能と有害ガスに呑み込まれていることすら知らずに。
「笑えないジョークだな」
ライアンはコンソールの電源を落とした。
地下統合司令部の照明が明滅し、空調のファンが不気味な異音を立てて止まった。地上でのミサイル自爆による電力網の破壊が、ここまで及んできたのだ。
「我々は数十年間、この『核』というおもちゃを振りかざして互いを脅し合ってきた」
ライアンは椅子に深く腰掛け、暗くなりゆく天井を見上げた。
「『自分たちは世界を滅ぼすほどの絶対的な力を握っている』と信じ込んでな。だがその実態は、一度も実戦テストされたことのないレガシーパーツの山であり、シミュレーションという名の願望で塗り固められた張り子だった。敵を滅ぼす力すら怪しかった代物で、地球を救おうとしていたんだ」
ヘイル大佐は何も答えなかった。床に落ちたコーヒーのシミを、ただ呆然と見つめていた。
四時間が過ぎた。
地下深くの司令部にも、ついに「その時」が訪れた。
揺れは、地鳴りのような音から始まったのではない。
大気圏に突入した超巨大な質量が、一瞬にして地球の空気を圧縮し、地上にあるすべての海と陸地を灼熱のプラズマへと変貌させた熱波の響きだった。
天井のコンクリートが細かく震え、やがて巨大な亀裂が入る。
蛍光灯が弾け飛び、暗闇が部屋を支配した。
ライアンは静かに目を閉じた。
自爆した半数のミサイル。
宇宙で迷子になった二割のミサイル。
そして、彗星に虚しくぶつかって砕け散った三割の不発弾。
人類が誇った最高の技術と、威信と、抑止力の象徴。
そのすべての「本当の姿」が暴かれたとき、人類の歴史はCGのような華々しいフィナーレを迎えることもなく、ただ物理法則の冷酷な計算通りに、静かに幕を下ろした。
(完)




