婚約破棄の場で王子の恋人(♂)のスカートをめくった令嬢の話
「ヴィオラ! 貴様との婚約を、今この場で破棄させてもらう!」
貴族がひしめく王宮の大広間に、アルベルト第二王子の声が高らかに響き渡った。
楽団の演奏がつんのめるように止まる。談笑が消え、シャンデリアの降らせる光の下、視線という視線が名指しされた私へ突き刺さった。
出た。
台本でもあるのかしら、この男。よりにもよって、国の貴族が集うこの夜に。
いえ、あるのでしょうね、台本が。夜会、衆人環視、婚約破棄、そして真実の愛。物語で百回は読んだ様式美だもの。ここまで型通りだと、いっそ拍手を送りたいくらいよ。
私は手にした扇をぱちりと閉じ、精いっぱい優雅に見える角度で小首を傾げてみせた。
「あら殿下、ご機嫌よう。……それで、理由をうかがっても?」
「し、知れたこと! 貴様の日頃の傲慢な振る舞いだ! 男のように剣を振り回し、口を開けば理屈と皮肉! およそ王家に嫁ぐ者の器ではない! 現に貴様は先日、私の側近を殴っただろう!」
「殴ってなどおりませんわ。淑女の名誉に懸けて訂正いたします。――投げ飛ばしただけです」
「同じだ!」
会場のどこかで、ぶふっと吹き出す音がした。扇の陰で肩を震わせるご婦人が、ざっと三名。殿下の耳が屈辱で赤く染まっていく。
一応申し上げておくと、あの側近は嫌がる侍女の腕を掴んで離さなかったのだ。だから物理で解決した。何も間違っていない。
そもそも私と殿下の婚約は三年前、王家からの打診で結ばれた純然たる政略だ。恋も情も、最初の一滴からありはしない。破棄と言われて痛む心など、あいにく持ち合わせていなかった。
――ええ。問題は、そこではないのよ。
「承知いたしました、殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「な……っ!? あ、あっさりすぎるだろう!? もっとこう、泣いて縋るとか、悔しがるとか……!」
「お望みでして?」
「い、いや、いい! ……こほん。と、とにかくだ! 私にはすでに、真実の愛を誓い合った女性がいる! ――リリー! こちらへ!」
来たわね。
人垣がさざ波のように割れ、その奥から一人の”令嬢”が、おずおずと進み出た。
淡い金の髪をハーフアップに結い、純白のレースのドレスに身を包んだ小柄な姿。伏せがちな睫毛は長く、薄紅の瞳はしっとりと潤み、白い喉元には幅広の黒いチョーカーが一筋、巻かれている。
会場中の男性陣が、一斉に息を呑んだ。
近くの伯爵などはグラスを傾けた姿勢のまま固まって、葡萄酒を自分の袖にとくとくと注いでいる。
なるほど、可愛い。
認めましょう。この会場の令嬢が総出で挑んでも勝てない可愛さだわ。歩く姿はさながら百合の花。
資料では知っていた。似顔絵も見た。前の夜会では会場の隅から遠目に観察だってした。それでも駄目ね。真正面から浴びる実物は、火力の桁が違う。
何なのこの生き物。睫毛の物量で小さな竜巻が起こせるでしょう。涙袋に国家予算でも注ぎ込んだの? ハーフアップから覗くうなじ、白レースに黒の差し色、小首の角度に至るまで――情報量。情報量が多いのよ。
「リリー男爵令嬢だ! 心優しく、淑やかで、慎ましい……そこの誰かとは大違いの、天使のような女性だ!」
「まあ、天使」
あながち間違いでないのが、余計に腹立たしいわ。でもね、知ってるのよ。
あなたが令嬢ではないことを。
◇
私はドレスの裾を軽く摘まみ、リリー嬢――と呼ばれている人物のもとへ、ゆっくりと歩み寄った。
「なっ、何をする気だ! リリーに危害を加えるつもりか!」
「ご挨拶ですわ。婚約者の座をお譲りする相手ですもの。礼を欠いては公爵家の名折れです」
殿下が口をぱくぱくさせている間に、私はリリー嬢の正面に立つ。
リリー嬢はびくりと肩を跳ねさせ、それから恐る恐る、上目遣いにこちらを見た。潤んだ瞳に、震える睫毛。世の庇護欲の急所を正確に撃ち抜く角度である。
計算でやっているなら大した技術だけれど――これは素ね。だからこそ、たちが悪い。
「初めまして、リリー様。ヴィオラと申しますわ」
「は、初めまして……。あの、その…………ごめんなさい……」
蚊の鳴くような声だった。
謝ったわ。開口一番、婚約者を奪った相手に謝ったわよ、この子。悪女の才能が絶望的にないわ。
「謝っていただくことなど何も。……それより、その首飾り。個性的な意匠ね。ご自分でお選びに?」
一瞬。リリー嬢の細い指が、喉元へ跳ねるように触れた。
「……いえ、あの。……いいえ……は、はい。自分で……選びました」
「そう。では、殿下のことは心からお慕いしていて?」
「…………はい。心から、お慕い、して、います」
抑揚のない、台詞を読み上げる人形のような声。目が完全に死んでいる。隣で殿下だけが、うんうんと満足げに頷いていた。
節穴にもほどがあるでしょう、この王子。
「では最後に、ひとつだけ。――あなたは、女性?」
「おい! さっきから何なのだ、失礼にもほどが――」
殿下の抗議など、もう耳に入らなかった。
リリー嬢の顔から、さっと血の気が引いたからだ。喉元のチョーカーの縁が、ちりっ、と針の先ほど赤く光る。
「……はい。……わたくしは……女、です……」
絞り出された声は震え、体の前で組まれた小さな手は、白くなるほど握りしめられていた。
ええ、ええ。言えないのよね。
知っているわ。何もかも、調べはついているの。
――半年前、殿下に急接近するフェルティ男爵家を不審に思い、私は密かに人を放った。上がってきたのは胸の悪くなる報告の山。以来三ヶ月、私はこの夜のためだけに、証拠を積み上げてきたのだ。
だから今夜、ぜんぶひっくり返して差し上げる。
◇
「殿下。婚約破棄はお受けしましたので、最後に一つだけ、皆さまの前で申し上げておきますわ」
私はくるりと会場を見渡し、腹の底から声を通した。
「そちらのリリー様は――男性ですわよ」
一拍の、沈黙。
直後、大広間は割れんばかりの笑い声に包まれた。
「捨てられた腹いせに、なんという言いがかりを!」
「見苦しいですこと!」
「あの可憐なご令嬢が殿方? 公爵令嬢は目までお悪いらしい!」
アルベルト殿下に至っては、腹を抱えてげらげらと笑っている。
「は、はははは! 嫉妬で頭がどうかしたか、ヴィオラ! リリーほど女性らしい女性が、この世のどこにいるものか!」
「あら。どなたも、お信じになりませんのね」
「当然だ!」
「そう」
なら、話は早いわ。
「――では、確かめて差し上げます」
私はリリー様の前に、すとんと膝を折り。
ごめんなさいね。この件は、あとで百回謝るわ。
私は、その純白のスカートの裾を両手で掴むと――ばさりと、勢いよく、たくし上げた。
「ひゃあっ!?」
会場の視線が、一点に集中する。
幾重にも重なるレースとフリルの、その奥。白絹の下着に包まれたそこは――
――もっこり、していた。
がしゃん! と誰かのグラスが床で砕け散った。
再開しかけていた楽団のヴァイオリンが、きゅいっ、と裏返った音を立てて止まる。
先ほどまで頬を染めてリリー様に見惚れていた紳士諸君は、口を開けたまま彫像と化した。先週リリー様に熱烈な求愛の手紙を送ったともっぱら噂の侯爵子息など、白目を剥いて侍従に支えられている。ぽたり、ぽたりと、例の伯爵の袖から葡萄酒の滴る音だけが、やけに大きく響いた。
誰も、何も言わない。言えない。現実の処理が、追いついていないのだ。
「や……いやああぁ……っ! 見ないで、見ないでくださいぃ……!」
リリー様は真っ赤になってスカートを押さえ込み、ぺたんとその場にへたり込んでしまった。大きな瞳から、ぽろぽろと涙の粒がこぼれ落ちる。
……この大暴露の渦中にあって、なお会場でいちばん可愛いのが本気で解せないわ。
「り……リリー……? い、今のは……え? な、何かの見間違い……」
「殿下。現実を直視なさいませ」
「い、いや、だって、リリーは女性だ! 本人の口からそう聞いた! 今しがた皆も聞いただろう!」
「ええ。――言わされておりますのよ。その、首のチョーカーで」
◇
私は立ち上がり、扇の先を、へたり込むリリー様の喉元へ静かに向けた。
「あれの正体は『服従の首輪』。禁制の隷属魔道具に改造を加えた代物です。着けられた者は、登録された主人の命令に逆らえません。おそらく彼に下されている命令は――『自分が男であると明かしてはならない』。先ほど私の問いに答えるたび、縁が赤く光っていたのにお気づき? あれこそ、強制の術式が働いた証ですわ」
ざわり、と動揺が波になって広がる。服従の首輪、と誰かが掠れた声で繰り返した。
「ご本名はリオン。フェルティ男爵家のご令息、れっきとした殿方です。ただし生まれつき、稀少な『魅了』の加護をお持ちでね。視線を合わせた異性を、老いも若きも問わず、ぽうっとのぼせ上がらせてしまう。……お心当たり、おありでしょう? そこの伯爵様も、子爵様も。今夜ずっと鼻の下が伸びきっていらした、紳士の皆さま?」
扇で示された紳士たちが、ぎくりと一斉に目を逸らした。幾人かはすでに、そろそろと壁際への後退を始めている。
「フェルティ男爵は、我が子のその加護に目をつけました。物心もつかぬうちから令息を『令嬢』として矯正し、着飾らせ、社交界に放ったのです。狙いは高位貴族への色仕掛け――情報を聞き出し、弱みを握り、生涯にわたって強請るため。……殿下? あなたは釣り上げられる寸前だった、過去最大の大物というわけですわ」
「う、嘘だ……嘘だ嘘だ! で、では、私とリリーが紡いだ愛の日々は……!」
「最初から最後まで、男爵の台本ですわ」
「に、庭園での、あの運命的な出会いは!?」
「殿下のお散歩の時刻を男爵が調べ上げて、配置しましたの」
「風に舞った彼女のハンカチが、私の胸に舞い降りた、あの奇跡は!」
「風上から侍女に投げさせておりますわね。ちなみに三回失敗して、あれで四回目だそうです」
「そんなぁ……」
殿下はよろよろと後ずさり――それでも往生際悪く、かっと顔を上げた。
「ち、違う! わ、私は……そうだ、気付いていた! すべて気付いた上で、あの可憐な魂を愛して――」
「まあ、素敵。では殿下は、殿方と承知の上で、このままリオン様を妃にお迎えになると?」
「」
殿下は口を開いたまま、声もなく白目を剥き、磨き抜かれた大理石の床に、ゆっくりと崩れ落ちた。そんな殿下に近衛騎士が二人がかりで駆け寄る。
現実を直視できずに、気絶ですって。情けないこと。
まあいいわ。あちらの処遇は陛下と宰相閣下に丸投げしましょう。
私の用事は、最初からこっちなの。
◇
私はドレスが汚れるのも構わず、へたり込んだままのリリー様――いえ、リオン様の前に、あらためて膝をついた。
視線の高さを合わせる。細い肩が、びくりと震えた。
「怖い思いをさせたわね。もう、大丈夫よ」
腰の飾り帯から、細身の短剣を静かに抜く。呪具を断つために教会から借り受けた、聖銀の刃だ。
リオン様の瞳が、怯えに揺れる。
「大丈夫。じっとしていて。――あなたを縛るものは、これで最後にするわ」
チョーカーの黒革に刃を当てた。ばちり、と紫の火花が散る。術式が悲鳴じみた抵抗を上げた。
構うものですか。
この三ヶ月、報告書の中で何度この首輪を見たことか。夜会のたび、笑顔の下で彼の言葉を縛り続けてきた、黒い枷。
手首を返し、一息に――引き切る。
ぷつん。
呆気ないほど軽い音を立てて、忌々しい首輪は二つに裂け、床に落ちた。
リオン様が、大きく目を見開く。白い喉が、こく、と上下した。
「あ……。こ、声……。……い、言える……。ぼ……ぼく、は……」
零れ出たのは少し掠れた、けれど確かに、青年のものである声。
「ボクは……男、です……っ。ずっと、ずっと、言いたかっ……」
言葉は最後まで形にならず、嗚咽に溶けた。リオン様は床に両手をつき、堰を切ったように泣きじゃくる。
大広間は、水を打ったように静まり返っていた。事情を悟ったご婦人方が、扇の陰でそっと目元を押さえている。
「ああ、それから、ご安心なさいな。フェルティ男爵夫妻でしたら、今ごろお屋敷ごと王宮騎士団に押さえられておりますわ。裏帳簿も、魔道具の入手経路も、標的にされた殿方の一覧も、まとめて宰相閣下へ提出済み。……ふふ。今夜のこの茶番も、しっかり記録に加わりましてよ」
隷属魔道具の使用は、王国法でもっとも重い禁忌のひとつ。男爵家の取り潰しはまず動かない。そして被害者たるリオン様の身柄は、裁定が下るまで、しかるべき貴族家の預かりとなる――そこまで見越しての、今夜だった。
◇
「……あ、の……ヴィオラ、さま……」
ようやく涙の引いたリオン様が、濡れた目のまま、おずおずと私を見上げた。
「どうして……ボクなんかの、ために……。今日は、あなたが、婚約破棄される場……だったのに」
「気に食わなかったのよ。我が子を道具にする親も、ずっと隣にいた女の顔より加護の術中を選んだ婚約者も、まとめて全部。……それに、ね」
それに?
続きの言葉を、私は柄にもなく、少しだけ探した。
「あなたを調べるうちに、知ってしまったの。首輪を嵌められた身で、罰を受ける使用人を庇っていたこと。加護に惑わされて群がる殿方を、あなたなりに必死で遠ざけようとしていたこと。……あなたが優しい人だと、知ってしまった。なら――見捨てる理由が、ないでしょう?」
リオン様の頬に、じわりと赤みが差した。
「フェルティ男爵家は取り潰しになるわ。あなたは行き場を失う。……だから」
私はすっと、右手を差し出した。
「――私が、貰い受けます。公爵家へいらっしゃい。今度こそ誰の命令でもなく、自分の意志で生きなさいな。……ああ、もちろん、嫌なら断っていいのよ。もうこの世のどこにも、あなたに命令できる者はいないのだから」
リオン様は、差し出された手と私の顔とを、何度も、何度も見比べた。
そうよね。それはきっと、生まれて初めて「自分で選んでいい」と差し出された問いなのだ。
急かさない。私は黙って、待った。
やがて――細い指が、遠慮がちに、私の手のひらへ重なる。
その手は想像よりずっと冷たくて、小さく震えていた。私はただ、少しだけ強く、握り返す。
「……っ、よろしく……よろしく、おねがい、します……ヴィオラ、さま……」
はにかんだ笑顔は涙の跡ごと、暴力的に可愛かった。
会場がどっとどよめいたけれど、知ったことではないわ。
「ええ、こちらこそ。さ、立てるかしら。まずはお屋敷で着替えましょうね。ずっと着せられてきたのだもの、ドレスなんて今夜を最後に――」
「あっ……い、いえ、あの……その……」
リオン様が、もじもじと視線を泳がせた。ドレスの裾を、細い指がきゅっと摘まむ。
「……この、ドレス……じつは、その……き、気に入ってて……。これからも、着ちゃ……だ、だめ……でしょうか……」
――――。
上目遣い。上気した頬。もじ、と内側に揃えられた膝。
私は扇をばっと広げて口元を覆い、鼻から深く、三つ数えて息を吐いた。
何? あの可愛い生き物は?
落ち着きなさい、ヴィオラ。この場で悲鳴を上げては駄目。抱きしめても駄目。あなたは仮にも、公爵令嬢なのよ。
後でいくらでも堪能出来るのよ。そう、今は我慢。我慢……。
「……お、お好きになさいな。あなたの、人生ですもの」
「! ……はいっ」
ふわり、と。夜明けに花がほころぶように、リオン様は笑った。
ああ、もう。可愛すぎて倒れそう。
――婚約破棄、万歳だわ。




