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婚約破棄の場で王子の恋人(♂)のスカートをめくった令嬢の話

作者: 汐見 ゆゑ
掲載日:2026/07/25

「ヴィオラ! 貴様との婚約を、今この場で破棄させてもらう!」


 貴族がひしめく王宮の大広間に、アルベルト第二王子の声が高らかに響き渡った。

 

 楽団の演奏がつんのめるように止まる。談笑が消え、シャンデリアの降らせる光の下、視線という視線が名指しされた私へ突き刺さった。

 

 出た。

 

 台本でもあるのかしら、この男。よりにもよって、国の貴族が集うこの夜に。

 

 いえ、あるのでしょうね、台本が。夜会、衆人環視、婚約破棄、そして真実の愛。物語で百回は読んだ様式美だもの。ここまで型通りだと、いっそ拍手を送りたいくらいよ。

 

 私は手にした扇をぱちりと閉じ、精いっぱい優雅に見える角度で小首を傾げてみせた。

 

「あら殿下、ご機嫌よう。……それで、理由をうかがっても?」


「し、知れたこと! 貴様の日頃の傲慢な振る舞いだ! 男のように剣を振り回し、口を開けば理屈と皮肉! およそ王家に嫁ぐ者の器ではない! 現に貴様は先日、私の側近を殴っただろう!」


「殴ってなどおりませんわ。淑女の名誉に懸けて訂正いたします。――投げ飛ばしただけです」


「同じだ!」


 会場のどこかで、ぶふっと吹き出す音がした。扇の陰で肩を震わせるご婦人が、ざっと三名。殿下の耳が屈辱で赤く染まっていく。

 

 一応申し上げておくと、あの側近は嫌がる侍女の腕を掴んで離さなかったのだ。だから物理で解決した。何も間違っていない。

 

 そもそも私と殿下の婚約は三年前、王家からの打診で結ばれた純然たる政略だ。恋も情も、最初の一滴からありはしない。破棄と言われて痛む心など、あいにく持ち合わせていなかった。

 

 ――ええ。問題は、そこではないのよ。

 

「承知いたしました、殿下。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


「な……っ!? あ、あっさりすぎるだろう!? もっとこう、泣いて縋るとか、悔しがるとか……!」


「お望みでして?」


「い、いや、いい! ……こほん。と、とにかくだ! 私にはすでに、真実の愛を誓い合った女性がいる! ――リリー! こちらへ!」


 来たわね。

 

 人垣がさざ波のように割れ、その奥から一人の”令嬢”が、おずおずと進み出た。

 

 淡い金の髪をハーフアップに結い、純白のレースのドレスに身を包んだ小柄な姿。伏せがちな睫毛は長く、薄紅の瞳はしっとりと潤み、白い喉元には幅広の黒いチョーカーが一筋、巻かれている。

 

 会場中の男性陣が、一斉に息を呑んだ。

 

 近くの伯爵などはグラスを傾けた姿勢のまま固まって、葡萄酒を自分の袖にとくとくと注いでいる。

 

 なるほど、可愛い。

 

 認めましょう。この会場の令嬢が総出で挑んでも勝てない可愛さだわ。歩く姿はさながら百合の花。


 資料では知っていた。似顔絵も見た。前の夜会では会場の隅から遠目に観察だってした。それでも駄目ね。真正面から浴びる実物は、火力の桁が違う。


 何なのこの生き物。睫毛の物量で小さな竜巻が起こせるでしょう。涙袋に国家予算でも注ぎ込んだの? ハーフアップから覗くうなじ、白レースに黒の差し色、小首の角度に至るまで――情報量。情報量が多いのよ。

 

「リリー男爵令嬢だ! 心優しく、淑やかで、慎ましい……そこの誰かとは大違いの、天使のような女性だ!」


「まあ、天使」


 あながち間違いでないのが、余計に腹立たしいわ。でもね、知ってるのよ。

 

 あなたが令嬢ではないことを。

 

  ◇

  

 私はドレスの裾を軽く摘まみ、リリー嬢――と呼ばれている人物のもとへ、ゆっくりと歩み寄った。

 

「なっ、何をする気だ! リリーに危害を加えるつもりか!」

「ご挨拶ですわ。婚約者の座をお譲りする相手ですもの。礼を欠いては公爵家の名折れです」


 殿下が口をぱくぱくさせている間に、私はリリー嬢の正面に立つ。

 

 リリー嬢はびくりと肩を跳ねさせ、それから恐る恐る、上目遣いにこちらを見た。潤んだ瞳に、震える睫毛。世の庇護欲の急所を正確に撃ち抜く角度である。

 

 計算でやっているなら大した技術だけれど――これは素ね。だからこそ、たちが悪い。

 

「初めまして、リリー様。ヴィオラと申しますわ」


「は、初めまして……。あの、その…………ごめんなさい……」


 蚊の鳴くような声だった。

 

 謝ったわ。開口一番、婚約者を奪った相手に謝ったわよ、この子。悪女の才能が絶望的にないわ。

 

「謝っていただくことなど何も。……それより、その首飾り。個性的な意匠ね。ご自分でお選びに?」


 一瞬。リリー嬢の細い指が、喉元へ跳ねるように触れた。

 

「……いえ、あの。……いいえ……は、はい。自分で……選びました」


「そう。では、殿下のことは心からお慕いしていて?」

「…………はい。心から、お慕い、して、います」


 抑揚のない、台詞を読み上げる人形のような声。目が完全に死んでいる。隣で殿下だけが、うんうんと満足げに頷いていた。

 

 節穴にもほどがあるでしょう、この王子。

 

「では最後に、ひとつだけ。――あなたは、女性?」


「おい! さっきから何なのだ、失礼にもほどが――」


 殿下の抗議など、もう耳に入らなかった。

 

 リリー嬢の顔から、さっと血の気が引いたからだ。喉元のチョーカーの縁が、ちりっ、と針の先ほど赤く光る。

 

「……はい。……わたくしは……女、です……」


 絞り出された声は震え、体の前で組まれた小さな手は、白くなるほど握りしめられていた。

 

 ええ、ええ。言えないのよね。

 

 知っているわ。何もかも、調べはついているの。

 

 ――半年前、殿下に急接近するフェルティ男爵家を不審に思い、私は密かに人を放った。上がってきたのは胸の悪くなる報告の山。以来三ヶ月、私はこの夜のためだけに、証拠を積み上げてきたのだ。

 

 だから今夜、ぜんぶひっくり返して差し上げる。

 

  ◇

  

「殿下。婚約破棄はお受けしましたので、最後に一つだけ、皆さまの前で申し上げておきますわ」


 私はくるりと会場を見渡し、腹の底から声を通した。

 

「そちらのリリー様は――男性ですわよ」


 一拍の、沈黙。

 

 直後、大広間は割れんばかりの笑い声に包まれた。

 

「捨てられた腹いせに、なんという言いがかりを!」


「見苦しいですこと!」


「あの可憐なご令嬢が殿方? 公爵令嬢は目までお悪いらしい!」


 アルベルト殿下に至っては、腹を抱えてげらげらと笑っている。

 

「は、はははは! 嫉妬で頭がどうかしたか、ヴィオラ! リリーほど女性らしい女性が、この世のどこにいるものか!」


「あら。どなたも、お信じになりませんのね」


「当然だ!」


「そう」


 なら、話は早いわ。

 

「――では、確かめて差し上げます」


 私はリリー様の前に、すとんと膝を折り。

 

 ごめんなさいね。この件は、あとで百回謝るわ。


 私は、その純白のスカートの裾を両手で掴むと――ばさりと、勢いよく、たくし上げた。


「ひゃあっ!?」


 会場の視線が、一点に集中する。

 

 幾重にも重なるレースとフリルの、その奥。白絹の下着に包まれたそこは――


 ――もっこり、していた。



 がしゃん! と誰かのグラスが床で砕け散った。

 

 再開しかけていた楽団のヴァイオリンが、きゅいっ、と裏返った音を立てて止まる。

 

 先ほどまで頬を染めてリリー様に見惚れていた紳士諸君は、口を開けたまま彫像と化した。先週リリー様に熱烈な求愛の手紙を送ったともっぱら噂の侯爵子息など、白目を剥いて侍従に支えられている。ぽたり、ぽたりと、例の伯爵の袖から葡萄酒の滴る音だけが、やけに大きく響いた。

 

 誰も、何も言わない。言えない。現実の処理が、追いついていないのだ。


「や……いやああぁ……っ! 見ないで、見ないでくださいぃ……!」


 リリー様は真っ赤になってスカートを押さえ込み、ぺたんとその場にへたり込んでしまった。大きな瞳から、ぽろぽろと涙の粒がこぼれ落ちる。

 

 ……この大暴露の渦中にあって、なお会場でいちばん可愛いのが本気で解せないわ。


「り……リリー……? い、今のは……え? な、何かの見間違い……」


「殿下。現実を直視なさいませ」


「い、いや、だって、リリーは女性だ! 本人の口からそう聞いた! 今しがた皆も聞いただろう!」


「ええ。――言わされておりますのよ。その、首のチョーカーで」


  ◇

  

 私は立ち上がり、扇の先を、へたり込むリリー様の喉元へ静かに向けた。

 

「あれの正体は『服従の首輪』。禁制の隷属魔道具に改造を加えた代物です。着けられた者は、登録された主人の命令に逆らえません。おそらく彼に下されている命令は――『自分が男であると明かしてはならない』。先ほど私の問いに答えるたび、縁が赤く光っていたのにお気づき? あれこそ、強制の術式が働いた証ですわ」


 ざわり、と動揺が波になって広がる。服従の首輪、と誰かが掠れた声で繰り返した。

 

「ご本名はリオン。フェルティ男爵家のご令息、れっきとした殿方です。ただし生まれつき、稀少な『魅了』の加護をお持ちでね。視線を合わせた異性を、老いも若きも問わず、ぽうっとのぼせ上がらせてしまう。……お心当たり、おありでしょう? そこの伯爵様も、子爵様も。今夜ずっと鼻の下が伸びきっていらした、紳士の皆さま?」


 扇で示された紳士たちが、ぎくりと一斉に目を逸らした。幾人かはすでに、そろそろと壁際への後退を始めている。

 

「フェルティ男爵は、我が子のその加護に目をつけました。物心もつかぬうちから令息を『令嬢』として矯正し、着飾らせ、社交界に放ったのです。狙いは高位貴族への色仕掛け――情報を聞き出し、弱みを握り、生涯にわたって強請るため。……殿下? あなたは釣り上げられる寸前だった、過去最大の大物というわけですわ」


「う、嘘だ……嘘だ嘘だ! で、では、私とリリーが紡いだ愛の日々は……!」


「最初から最後まで、男爵の台本ですわ」


「に、庭園での、あの運命的な出会いは!?」


「殿下のお散歩の時刻を男爵が調べ上げて、配置しましたの」


「風に舞った彼女のハンカチが、私の胸に舞い降りた、あの奇跡は!」


「風上から侍女に投げさせておりますわね。ちなみに三回失敗して、あれで四回目だそうです」


「そんなぁ……」


 殿下はよろよろと後ずさり――それでも往生際悪く、かっと顔を上げた。

 

「ち、違う! わ、私は……そうだ、気付いていた! すべて気付いた上で、あの可憐な魂を愛して――」


「まあ、素敵。では殿下は、殿方と承知の上で、このままリオン様を妃にお迎えになると?」


「」


 殿下は口を開いたまま、声もなく白目を剥き、磨き抜かれた大理石の床に、ゆっくりと崩れ落ちた。そんな殿下に近衛騎士が二人がかりで駆け寄る。

 

 現実を直視できずに、気絶ですって。情けないこと。

 

 まあいいわ。あちらの処遇は陛下と宰相閣下に丸投げしましょう。

 

 私の用事は、最初からこっちなの。

 

  ◇

  

 私はドレスが汚れるのも構わず、へたり込んだままのリリー様――いえ、リオン様の前に、あらためて膝をついた。

 

 視線の高さを合わせる。細い肩が、びくりと震えた。

 

「怖い思いをさせたわね。もう、大丈夫よ」


 腰の飾り帯から、細身の短剣を静かに抜く。呪具を断つために教会から借り受けた、聖銀の刃だ。

 

 リオン様の瞳が、怯えに揺れる。

 

「大丈夫。じっとしていて。――あなたを縛るものは、これで最後にするわ」


 チョーカーの黒革に刃を当てた。ばちり、と紫の火花が散る。術式が悲鳴じみた抵抗を上げた。

 

 構うものですか。

 

 この三ヶ月、報告書の中で何度この首輪を見たことか。夜会のたび、笑顔の下で彼の言葉を縛り続けてきた、黒い枷。

 

 手首を返し、一息に――引き切る。

 

 ぷつん。

 

 呆気ないほど軽い音を立てて、忌々しい首輪は二つに裂け、床に落ちた。

 

 リオン様が、大きく目を見開く。白い喉が、こく、と上下した。

 

「あ……。こ、声……。……い、言える……。ぼ……ぼく、は……」


 零れ出たのは少し掠れた、けれど確かに、青年のものである声。

 

「ボクは……男、です……っ。ずっと、ずっと、言いたかっ……」


 言葉は最後まで形にならず、嗚咽に溶けた。リオン様は床に両手をつき、堰を切ったように泣きじゃくる。

 

 大広間は、水を打ったように静まり返っていた。事情を悟ったご婦人方が、扇の陰でそっと目元を押さえている。

 

「ああ、それから、ご安心なさいな。フェルティ男爵夫妻でしたら、今ごろお屋敷ごと王宮騎士団に押さえられておりますわ。裏帳簿も、魔道具の入手経路も、標的にされた殿方の一覧も、まとめて宰相閣下へ提出済み。……ふふ。今夜のこの茶番も、しっかり記録に加わりましてよ」


 隷属魔道具の使用は、王国法でもっとも重い禁忌のひとつ。男爵家の取り潰しはまず動かない。そして被害者たるリオン様の身柄は、裁定が下るまで、しかるべき貴族家の預かりとなる――そこまで見越しての、今夜だった。

 

  ◇

  

「……あ、の……ヴィオラ、さま……」


 ようやく涙の引いたリオン様が、濡れた目のまま、おずおずと私を見上げた。

 

「どうして……ボクなんかの、ために……。今日は、あなたが、婚約破棄される場……だったのに」


「気に食わなかったのよ。我が子を道具にする親も、ずっと隣にいた女の顔より加護の術中を選んだ婚約者も、まとめて全部。……それに、ね」


 それに?

 

 続きの言葉を、私は柄にもなく、少しだけ探した。

 

「あなたを調べるうちに、知ってしまったの。首輪を嵌められた身で、罰を受ける使用人を庇っていたこと。加護に惑わされて群がる殿方を、あなたなりに必死で遠ざけようとしていたこと。……あなたが優しい人だと、知ってしまった。なら――見捨てる理由が、ないでしょう?」


 リオン様の頬に、じわりと赤みが差した。

 

「フェルティ男爵家は取り潰しになるわ。あなたは行き場を失う。……だから」


 私はすっと、右手を差し出した。

 

「――私が、貰い受けます。公爵家へいらっしゃい。今度こそ誰の命令でもなく、自分の意志で生きなさいな。……ああ、もちろん、嫌なら断っていいのよ。もうこの世のどこにも、あなたに命令できる者はいないのだから」


 リオン様は、差し出された手と私の顔とを、何度も、何度も見比べた。

 

 そうよね。それはきっと、生まれて初めて「自分で選んでいい」と差し出された問いなのだ。

 

 急かさない。私は黙って、待った。

 

 やがて――細い指が、遠慮がちに、私の手のひらへ重なる。

 

 その手は想像よりずっと冷たくて、小さく震えていた。私はただ、少しだけ強く、握り返す。

 

「……っ、よろしく……よろしく、おねがい、します……ヴィオラ、さま……」


 はにかんだ笑顔は涙の跡ごと、暴力的に可愛かった。

 

 会場がどっとどよめいたけれど、知ったことではないわ。

 

「ええ、こちらこそ。さ、立てるかしら。まずはお屋敷で着替えましょうね。ずっと着せられてきたのだもの、ドレスなんて今夜を最後に――」


「あっ……い、いえ、あの……その……」


 リオン様が、もじもじと視線を泳がせた。ドレスの裾を、細い指がきゅっと摘まむ。

 

「……この、ドレス……じつは、その……き、気に入ってて……。これからも、着ちゃ……だ、だめ……でしょうか……」


 ――――。

 

 上目遣い。上気した頬。もじ、と内側に揃えられた膝。


 私は扇をばっと広げて口元を覆い、鼻から深く、三つ数えて息を吐いた。

 

 何? あの可愛い生き物は?

 

 落ち着きなさい、ヴィオラ。この場で悲鳴を上げては駄目。抱きしめても駄目。あなたは仮にも、公爵令嬢なのよ。

 

 後でいくらでも堪能出来るのよ。そう、今は我慢。我慢……。

 

「……お、お好きになさいな。あなたの、人生ですもの」


「! ……はいっ」


 ふわり、と。夜明けに花がほころぶように、リオン様は笑った。

 

 ああ、もう。可愛すぎて倒れそう。

 

 ――婚約破棄、万歳だわ。

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