断罪された公爵令嬢は死に戻り、処刑人と共に復讐する物語
――処刑人様、私の首の代わりに仇の名を差し上げます――
第一幕 処刑前夜、死に戻り
アリス・ブラットレイ
「これで何回目の朝なのかしら……」
死刑囚の朝食は、意外と温かかった。
私はスプーンを置き、鉄格子の向こうに立つ看守へ微笑んだ。
「な、なんでしょうか?」
腐っても犯罪者だとしても、公爵家の令嬢。一定の敬意を保ってくれている。
「処刑人を呼んでくださる?」
看守は眉をひそめた。
「構いませんが……あいつは堅物だから交渉なんて聞きませんよ」
「ええ、わかっているわ。でも、最後にいろんな人と喋りたいでしょ?」
私は指先で膝の上の喪服を撫でた。処刑前の罪人に着せる、飾り気のない黒い衣装。首元だけが妙に開いているのは、斧の邪魔にならないようにするためだろう。
看守は私の顔をしばらく見ていた。憐れみか、嫌悪か、それとも恐怖か。いずれにせよ、彼はすぐに背を向けた。
足音が遠ざかる。私は息を吐いた。
処刑は今日の正午に行われる。そして、首を落とされた私は……処刑前夜に『死に戻る』。
もう何回繰り返したかわからない。一番初めの時は、地獄に堕ちたかと思った。でも、何か違う。だから、私は短い時間の中で行動をすることにした。
牢獄の中、短い時間でできることは限られている。しかも、同じ行動をしても毎回反応が一緒とは限らない。
揺るぎない事実だけが――この世界を支配していると悟ったのだ。
死に戻りから目を覚ました時、最初に感じたのは首の痛みだ。斧が落ちる瞬間の冷たさ。骨の奥まで届いた衝撃。悲鳴を上げる間もなく世界が黒く閉じた、あの感覚。
あれが『死』なんだ。
そして、私は死に戻る。
処刑前日の夜に。
私の罪状は、王太子アレクサ殿下の暗殺未遂。聖女エリン様への毒殺未遂。教会宝物庫からの聖遺物盗難。国家反逆罪。
……どれも私の罪ではない。
けれど、それを証明する者はもういなかった。薄情な父は公爵家を守るために沈黙し、友人は証言を翻し、侍女は泣きながら嘘をついた。元婚約者の王太子は私を見下ろし、聖女は彼の胸元で震えていた。
『アリス・ブラットレイ。お前のような悪女を、私は一度たりとも愛したことはない』
あの言葉を聞いた時、私は泣いた。でも、今は――怒りしかこの胸に湧き上がらなかった。
私は何度も首を落とされたとしても……この怒りが原動力となり、たった半日の死に戻り時間の中、地を這うように地道にフラグを探し続け、情報を探し続けた。
時には暴走して、処刑前に殺されることもあった。
時には自死を試したこともあった。
頭がおかしくなりそうな状況だけど――怒りが全てを凌駕した。
そして、今回の死に戻りは、私の総決算と言えるだろう。十八歳の子どもだった公爵家の娘はもういない。私は、死を乗り越えた――復讐の悪魔となった。
――重い足音が牢の前で止まった。看守は戻ってこなかった。その代わり、
灰色の外套。黒革の手袋。腰に吊るされた無骨な剣。左頬に薄い傷。
王国処刑人、元薔薇騎士団長ゼスト・ナイトハルト。
前の人生で、私の首を落とした男。……私が子どもの頃、何回か遊んでもらったことがある。たったそれだけの面識。でも、この人が私にとっての救いの糸。
「どうしました」
怒りも、憐れみも、侮蔑もない、人生を諦めた死人の声だ。私の首を落とすことも、ただの仕事の一つ。何も感情が浮かばないのだろう。
「ええ。来てくださって感謝します、ゼスト様」
「……要件を」
「では、ごほんっ。ミラ様のお話を」
彼の目がわずかに細くなる。滲み出るような怒りが発せられた。その圧は毎度のことながら、心臓が縮みあがる。
王国最強の薔薇騎士団騎士団長ゼスト・ナイトハルト。
「……ここで首を落とされたいのですか」
「それは困りますわ。私、今回が最後って決めていますから」
ゼストは微動だにしなかった。ただ、黒革の手袋に包まれた指が、ほんの一瞬だけ握り込まれた。そして、立ち去ろうとした時――
「ミラ・ナイトハルト。享年十六歳。騎士団長でありながら、名誉爵位しか持たないナイトハルト家。ミラ様は王宮礼拝堂の下働きをしていたわ。左耳の後ろに小さな火傷の跡があったわ。子どものころに事故があったらしいわね。休日は、朝早く起きて、お弁当を持ってあなたとお出かけをするのが好きだったわ。亡くなる前日に、あなたへ……銀糸で編んだお守りを贈っていたわ」
ゼストが鉄格子に近づいた。
「誰から聞いた」
「あなたから」
「……冗談はよせ」
私は真っ直ぐ彼を見つめた。死に戻りを繰り返してわかった。彼は死んでいる。諦めている。だから、私は命をかけて、彼との会話を続けた。たとえ、死んだとしても何度でも。私が彼を蘇らせる。それが私の生きる道筋なんだから。
「続けていいかしら?」
無言を肯定として受け取る。
「ミラ様は、あの聖女の宝飾品を盗んだ罪で処分されましたわ。公式にはそうなっています。でも実際は違う。彼女は見てしまったのです。バルバドス司祭が、聖女の奇跡を偽装するための特殊な魔道具を用意しているところを」
「……黙れ」
「それに、王太子殿下と聖女様の密会も見てしまったのですわ。だから消された。命じたのはバルバドス司祭。許可を与えたのは王太子殿下ですわ」
「黙れと言ったはずだ」
声は静かだった。けれど、その静けさには圧が備わっていた。
昔の私だったら怯えて泣いていただろう。でも、私はもうそんなに弱くない。
「様々な証拠は聖堂地下の青い聖櫃にありますわ。寄付金の裏帳簿。違法魔道具の保管。ミラ様の処分許可書。そして、私を嵌めるために用意された毒薬の注文書も」
「なぜ、お前がそんなことを知っている」
「何度も、死にましたから」
一度死んだだけでは無理だった。何度も何度も繰り返して、様々な変化から導き出した正解。
ゼストは笑わなかった。だってこの情報の一部は、ゼストから聞いたものだ。
信じたわけではない。ただ、笑い飛ばすには、私が口にした情報が正確すぎたのだろう。
ゼストは目を閉じて考えていた。
私は話を続ける。
「では、確認なさいませ。もうすぐ聖堂から使者が来ます。灰色の法衣を着た男。右手に火傷。彼はあなたに、処刑用の斧を聖堂から持ち込んだものへ替えろと言うでしょう。王太子殿下からの命令だとも」
ゼストは何も言わなかった。
やがて廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。灰色の法衣を着た男が現れた。右手には赤黒い火傷の痕。
「ゼスト殿、バルバドス司祭よりお言葉が。今日の処刑にはこちらの斧を使うようにと。王太子殿下の――」
男の言葉は途中で遮られた。ゼストがその手首を強く掴んでいた。
「なぜ斧を替える」
「そ、それは、私には、わかりません。で、ですが司祭様を通しで王太子殿下の命令で」
「……わかった」
ゼストが斧を受け取ると、男は顔を青くして去った。
ゼストはしばらく廊下を見つめていた。それから、ゆっくりと私の方へ向き直った。
「貴女は何がしたいんだ?」
私は立ち上がった。手枷の鎖が、小さく鳴る。
「私を……殺したことにしてください」
ゼストは怪訝な顔をする。
「私は今日、死にます。王国中がそう信じる。あなたは処刑人として職務を果たす。けれど、私は生き延びて復讐を遂げます」
「不可能だ」
「いいえ、あなただけが可能ですわ。……だって、この歪んだ繰り返しの中、あなただけが、私を信じてくれましたから」
ゼストの目が揺れた。答えないことが、肯定だった。
「代わりに、私はあなたの復讐を叶えます」
「俺の復讐……」
「ええ。ミラを罪人にした男を裁きましょう」
ゼストの視線が鋭くなる。その目からは生きる気力が湧いていたことに気がついていない。
「俺にバルバドスを殺せと言うのか」
私は首を横に振った。
「殺すだけでは、あなたの妹は罪人のままですわ」
「ミラ様の名誉を取り戻す。バルバドス司祭に、自分の口で罪を認めさせる。民衆と教会の前で、彼を地に落とす」
「そんなことできるのか? ……あいつらの力は強大だ」
「無論、わかっていますわ」
「失敗すれば?」
「私が死ぬだけですわ」
「お前はもう死ぬ予定だ」
「だから、失うものが少なくて便利でしょう?」
ゼストが私を確認するように見ていた。
私の髪と首。これから落とす予定だった場所だ。
「いいだろう」
私は微笑んだ。
賭けに勝ったのではない。これはこれまでの蓄積が新しいルートを構築できただけだ。……首を落とされない未来は未だに経験していない。
ようやく、盤上に駒を置くことを許されただけだ。
「ただし」
ゼストは鉄格子越しに、私へ顔を近づけた。
「裏切れば、俺がその首を再び落とす」
「まあ、頼もしい共犯ですこと」
正午まで、あと二時間。こんなに待ち遠しい処刑台は初めての経験だった――
第二幕 死んだ令嬢と処刑人の夜
処刑台へ向かう馬車の中で、ゼストは一言も喋らなかった。それもそのはず、私が逃げないように騎士団警備の人間が多数乗っているからだ。
私の両手には重い鎖、死刑囚が恐怖で震えているように見えただろう。
初めてこの馬車に乗った時は、呆然と過ごした。
もうすぐ死ぬのだと。誰かが助けてくれるはずだと。父が、王太子が、かつて私を友と呼んだ人たちが、最後の最後で真実に気づいてくれるはずだと。
誰も来なかった。
二回目の時は恐怖のあまり泣き叫んだ。いつしか、それにも慣れて……。
馬車が止まって、私は押し出されるように馬車から降りた。民衆の歓声が起こる。これから始まる処刑ショーへの期待。何度経験してもこの感覚には慣れなかった。
騎士団の人間が配置に付き、処刑人であるゼストが私の肩を押す。
その時、ゼストが私に囁いた。
「いいか、成功率は半分だ。生きて帰ってこい」
私は苦笑した。この人は王国で一番恐れられている処刑人。無骨で不器用なのに、にじみ出てしまう優しさが隠せていない。
「もう少し情緒のある言い方はできませんの?」
「黙れ。さっさと歩け」
歓声と罵声が飛び交う大通りを歩く。
私は「秘薬」を飲んだ。ナイトハルト家に伝わる秘薬だ。飲んだ者は三十分だけ仮死状態に陥る。三十分経っても意識が戻ってこなかったら……そのまま死んでしまう。その確率は五〇%。
効果は飲んでから一時間後。……計算ではもうそろそろのはず。
これは賭けだった。私は一度、その薬を飲んだことがある。哀れに思ったゼストが、濃度を高めたそれをくれたんだ。……本当に、あなたは。
中央に置かれている処刑台が見えた。
この時、私は少しだけ焦っていた。
なぜなら薬の効果が現れる前に、あそこに乗ってしまったら処刑を受けなければならないからだ。
『教会は偽善の塊ですわ。死者を冒涜しない。そういう決まりがありましてよ。ですので、処刑台に上る前に私が死ねばいいのですわ』
一歩、また一歩、ゆっくりと歩く。石が飛んでくる。冤罪という名の罪で、全てを失った私。
――私は、必ず復讐を果たしますわ。
死刑台に上がる寸前――私は込み上げてくるものがあった。
血を吐き出した。
その場で座り込み――だんだんと意識が遠くなっていく。そして、私は子どもの頃の夢をみながら――
***
「……これで顔はわからないわね」
処刑人、元騎士団長であるゼストの家。王都の郊外にあるアパートの一室。
鏡の前で私は自分の顔を確認する。
そこには公爵令嬢ではない女がいた。
長かった金髪はショートボブに切られ、魔道具によって髪色を地味な灰色に近い黒に染められていた。
その上で、認識阻害眼鏡型魔道具を装着し、平民と同じ格好をしている。
私は首に触れた。
つながっている。
それだけで、少し笑いそうになった。もう正午はとっくに過ぎている。初めて、私は処刑の運命を免れたのだから。
「余裕だな」
扉のそばに立っていたゼストが言った。
「笑わなければ、泣きそうでしたので」
「泣く女には見えないぞ」
「……何度も何度も泣きましたわ。涙なんてもう乾きました」
ゼストは返事をしなかった。
彼は机の上に一枚の紙を置いた。私の死亡証明書だった。聖教会の医者の署名。死体は教会墓地へ運ばれたことになっている。
私が血を吐いて倒れた後、痙攣してすぐに仮死状態に陥った。そして、現れた医者が私の死亡を確認し、すぐに教会へと移された。
死体の確認の後、私は霊安室へと運ばれ、そこでゼストが来るまで待機していた。
準備を終えた私は立ち上がろうとした――けど、薬の影響で少しだけたちくらみを起こしてしまった。
彼は何も言わず、私の背中を支えようとした。
「……日を改めるか?」
「いえ、ここからは私の知らない領域ですわ。なので、私の理念に従いますわ。すぐに証拠を押さえましょう」
「足手まといにならないでくれ。……しかし、あの聖堂に本当に地下なんてあるのか? 元騎士団長としても知らなかった」
「ええ、本当にごく一部の人しか知らないわ」
「なんでわかったんだ」
「死に戻りの中で、バルバドス司祭本人が教えてくれましたわ。彼、極稀に私の処刑前の早朝、牢へ来るときがあったの。……あのフラグを探すのが大変だったわ。それで、その時に親切にも自慢してくださったのですわ」
「自慢?」
「ええ。悪人は、勝ったと思うとよく喋りますわ」
なんとも妙な顔をしているゼストの背中を叩いて、私たちは聖堂へと向かうことにした。
***
聖堂には様々な裏口が存在していた。ゼストはそのうちの一つの裏口の鍵を持っていた。
月光を受けた尖塔。扉の上に刻まれた聖印。祈りの場にふさわしい静けさ。けれど、その奥で行われていることを知っている私には、墓標のようにしか見えなかった。
特に重要なものを置いていない、とされている聖堂の警備は少なかった。それでも、騎士団所属の警備がいる。
裏口に回り込み、鍵を開けて入る。
大聖堂の隣の部屋の本棚の奥に隠された秘密の通路。
湿った空気が吹き上がってくる。
ゼストが先に降りた。
私はその後に続く。
地下には小さな礼拝室があった。表の聖堂よりも古く、壁には剥がれかけた聖人画が並んでいる。奥には青い塗料の剥げた聖櫃。
「多分、あれかしら?」
ゼストが鍵を壊した。
中には帳簿、手紙、薬瓶、封蝋のついた命令書が詰め込まれていた。私は一つずつ確認する。
寄付金の横流し。
奇跡の魔道具の材料。
王太子の私兵への送金記録。
そして。
「ありましたわ」
私は一枚の命令書を取り出した。
ミラ・ナイトハルトの名。罪状は、当該の女が聖女様の奇跡の不都合な部分を目撃、また、聖女様と王太子様の逢引を目撃したことにより、処分。バルバドス。上部には王太子の私印。
ゼストの手が伸びた。
私はそれを渡した。
彼は紙を見つめたまま、長く動かなかった。怒るでも、泣くでもない。ただ、息だけが浅くなっていく。
「ミラは……冤罪だったんだな」
かすれた声だった。
「盗んでいないのだな」
「ええ」
「聖女を侮辱してもいない」
「ええ」
「なら、あいつらは」
彼の言葉が止まる。剣の柄に手がかかった。
「ゼスト、落ち着いてちょうだいね。あっ――」
その時、上から足音が聞こえた。私は書類を元の場所に戻し、そっと蓋を閉めた。
ゼストは素早く私の腕を掴み、私を抱きしめるように聖櫃の裏へ身を隠した。耳元で『動くな』と囁かれる。
突然のことで、私は固まってしまった。
「ううん? 王太子様が来たのか? あの方は小心者のクセにだらしないからな」
階段を降りてきたのは、バルバドス司祭だった。
彼は苛立った様子で聖櫃を開けた。
「ふむ、この場所は知っていても、この中に数々の証拠があることは知らないだろう。むふふっ、いつか王太子を脅すための証拠がたんまりと揃っている」
バルバドスは帳簿を乱暴に掴んだ。
「まったく、馬鹿ばかりで困ったものだ。私がこの国のトップにならないと、滅んでしまうな、がははっ」
「アリスもミラも同じだ。分不相応に勘が良すぎた。見なくてよいものを見た者は、口を封じるのに限る。死体は何も語らない」
ゼストは必死で自分の身体を押さえていた。私は……彼の身体を強く抱きしめて、首を横に振った。
今ここで殺せば、バルバドスの罪は闇に消える。ミラは罪人のまま。私は悪女のまま。それでは前と同じだ。
バルバドスはさらに呟いた。
「明日の礼拝堂で、聖女様はまた涙を流される。哀れな民はそれで満足する。悪女アリスは死に、王太子殿下は清らかな聖女を娶る。神の筋書きにしては、なかなか美しい。そして、私は教皇の道を最短で進み、王子を王へと引き上げ――私がこの国の一番となる」
彼は笑った。
その声が、地下の石壁に反響する。
私は聖櫃の内側に嵌め込まれた小さな水晶へ視線を向けた。
あれは記憶水晶だ。
古い聖堂に備えられた記録具だ。神への告白を残すためのものだが、今では存在を知る者も少ない。何回目かの死に戻りで、バルバドスが得意げに教えてくれた。
『あそこで交わされた言葉は、神だけが聞いている。もっとも、神は何も喋らんがね』
神は喋らない。けれど、水晶には残る。
バルバドスが満足そうに聖櫃を閉めて、階段を上がっていく。
足音が消えた後、ゼストは私の身体をポンっと叩いた。
「助かった……。俺だけでは衝動的にあいつを殺していた」
「ええ、私たちはあいつを殺すためにここへ来たのではありません」
「わかっている」
私は記憶水晶を取り外し、月明かりにかざした。淡い青が、内側で揺れている。
「明日の礼拝堂。バルバドスは民の前で、死んだ悪女と罪深い下働きについて説教するでしょうね」
ゼストは無言で私の話を聞いていた。
「その説教台で、彼自身の声を聞かせます」
ゼストの目が、水晶へ向いた。
「殺すよりも、残酷ですわよ」
私は微笑んだ。
「神を騙った男を、神の家で裁くのですから」
第三幕 神の目
礼拝堂は、人で溢れていた。
聖女エリンが涙を流すという噂が広まっていたのだろう。王太子の婚約者を害した悪女が処刑された翌朝、清らかな聖女が民のために祈る。筋書きとしてはよくできている。
私は礼拝堂の柱の陰に立っていた。
人は存外、人の顔を認識していない。誰も、昨日死んだはずの公爵令嬢がここにいるとは思わない。
ゼストは壁際にいた。処刑人の外套ではなく、ただの私服を着ている。彼の視線はずっと祭壇へ向けられていた。
バルバドス司祭が現れた。
白い祭服。金糸の刺繍。指には大きな聖印の指輪。昨夜地下で証拠を燃やそうとしていた男とは思えないほど、神聖な笑顔をしていた。
彼の隣には聖女エリンがいた。
白金の髪に薄いヴェール。彼女は民へ向かって微笑み、すぐに目元を押さえた。涙はまだ出ていない。バルバドスの合図を待っているのだ。
バルバドスは両手を広げた。
「さあ皆様、祈りましょう。昨日、王国は大きな罪を清めました。哀れな公爵令嬢アリス・ブラットレイ。高貴な生まれでありながら、嫉妬に狂い、聖女様を害そうとした下賤なる魂です」
人々がざわめく。
私は黙って聞いていた。
「罪とは、生まれでは決まりません。身分の低い者でも、心清ければ神に愛される。されど、心汚れし者は、たとえ公爵家に生まれようとも、断頭台へ導かれるのです」
彼はそこで、わずかに笑った。
「……かつてこの聖堂にも、聖女様の宝を盗もうとした下働きの娘がおりました。名はミラ・ナイトハルト。哀れな娘です。欲に負け、神のものへ手を伸ばした」
ゼストの拳が握られる。
私はフードを取り、柱の陰から一歩出た。
これ以上ミラの名を汚させるつもりはなかった。
「嘘ですわ」
低い声は、思ったよりよく響いた。聖堂中の視線が仮面姿の私へと集まる。
バルバドスの眉が寄った。
「誰です。礼拝の最中に――」
「ミラ・ナイトハルトは盗んでいない。聖女様を侮辱してもいない。彼女は、あなたの罪を見ただけですわ」
バルバドスの顔色が変わった。
「その無礼な女を捕らえなさい」
彼が叫ぶ。
兵士が動こうとした。その前に、ゼストが祭壇の横へ進み出た。
「待て」
低い声が聖堂を裂いた。
人々がざわめく。
処刑人ゼスト・ナイトハルト。前日に悪女アリスの首を落とした男。その顔を知る者は少なくない。
「ナイトハルト殿」
バルバドスの声が強張る。
「何のつもりですか」
「妹の名が出たのでな」
「あなたの妹は罪人として処分された。教会の記録にも――」
「その記録を作ったのは、お前だ」
ゼストが懐から一枚の命令書を取り出した。
ざわめきが大きくなる。
バルバドスは笑おうとした。しかし唇が引きつっている。
「そ、それは偽造です。そもそも、神の裁きに逆らうなど」
「では、神に聞いていただきますわ」
私は柱の陰から記憶水晶を取り出した。
青い光が、朝日の中で揺れる。
年配の司教が息を呑んだ。
「記憶水晶……まだ残っていたのか」
私は祭壇へ向かって歩いた。
兵士に守られた聖女エリンが小さく後ずさる。彼女の目は私の顔を探っていた。
私は水晶を祭壇の中央に置いた。
「昨夜、聖堂地下で神に捧げられたお言葉です。どうぞ、皆様もお聞きくださいませ」
「やめろ! こいつらを殺せ!」
バルバドスが叫んだ。
兵士が私に襲いかかってきた瞬間――ゼストが剣を振るった。一瞬で兵士を制圧した。そして、沈黙が生まれ、水晶が起動する。
青い光が強くなり、地下で聞こえた声が聖堂に響き渡る。
『まったく、馬鹿ばかりで困ったものだ。私がこの国のトップにならないと、滅んでしまうな、がははっ』
『アリスもミラも同じだ。分不相応に勘が良すぎた。見なくてよいものを見た者は、口を封じるのに限る。死体は何も語らない』
『明日の礼拝堂で、聖女様はまた涙を流される。哀れな民はそれで満足する。悪女アリスは死に、王太子殿下は清らかな聖女を娶る。神の筋書きにしては、なかなか美しい。そして、私は教皇の道を最短で進み、王子を王へと引き上げ――私がこの国の一番となる』
聖堂は沈黙した。
祈りのための沈黙ではない。
信じていたものが、足元から崩れる音を聞くための沈黙だ。
バルバドスは口を開けたまま、何も言えずにいた。
私は帳簿を掲げた。
「寄付金の横流し。様々な違法魔道具と注文書。違反行為の命令書の数々、ミラ・ナイトハルトの処分許可書。そして、昨日処刑されたアリス・ブラットレイに毒薬を押しつけるための偽証計画書」
聖女エリンの顔から血の気が引いた。
バルバドスが叫んだ。
「違う! それは王太子殿下が――」
言ってから、彼は自分の失言に気づいた。
もう遅い。
聖堂の扉が開いた。
入ってきたのは、教会審問官たちだった。昨夜のうちに、帳簿の写しと王太子の私印つき命令書を届けておいた。教会が己の権威を守るためなら、動きは早い。バルバドス一人を切り捨てて済むなら、彼らは喜んでそうする。
「バルバドス司祭」
審問官の一人が告げた。
「神聖職の濫用、寄付金横領、偽証、殺人教唆の疑いにより、身柄を拘束する」
バルバドスは後ずさった。
「待て、私は神に仕える者だぞ!」
ゼストが彼の前に立った。
「ミラも神に仕えていた」
その声には、怒鳴り声よりも深い怒りがあった。
「お前が殺した」
「私は命じただけだ! 手を下したのは別の者で――」
ゼストの拳が震える。私は彼の隣に立ち、そっとその腕を掴む。
「殺してはいけません」
「わかっている」
ゼストはバルバドスを見下ろした。
「こいつをここで殺せば、ミラの罪は消えない」
私は頷いた。
バルバドスは審問官に両腕を掴まれた。先ほどまで神の代理人のように立っていた男が、今は祭壇の階段に足を取られ、みっともなく膝をついている。
「誰だ」
彼は私を見た。
恐怖に濁った目だった。
「お前は誰だ」
私は少し考えたが、今日はまだ私の復讐の始まりじゃない。
今日は、ミラ・ナイトハルトの名を取り戻す日だ。
「通りすがりの死人ですわ」
そう言って、私はフードを深く被り直した。
バルバドスが引きずられていく。
民衆は道を開けた。罵声はまだ少ない。皆、何を信じればいいのかわからない顔をしている。
それでいい。
信仰も評判も、一度で壊れるわけではない。だが、最初の亀裂が入った。
やがて、年老いた司教が祭壇の前に立った。
震える声で告げる。
「ミラ・ナイトハルトの罪状は、ただちに再審理される。証拠が確認されしだい、教会は正式に名誉回復を行う」
「今ここで言え」
ゼストが言った。
助祭は彼を見てため息を吐いた。ゼストは一歩も引かなかった。
「妹は盗人ではない。神を侮辱してもいない。それを今、ここで言え」
長い沈黙。
そして司教は、深く頭を下げた。
「ミラ・ナイトハルトは、無実であった可能性が極めて高い。教会は、彼女と遺族に対し、深く謝罪する」
ゼストは目を閉じた。
たったそれだけの言葉。
けれど、その言葉を得るために彼は何年も処刑人として生き、妹と同じように罪人と呼ばれる者たちの首を落としてきた。
私は彼の横顔を見上げた。
泣いてはいなかった。ただ、少しだけ、生きている人間の顔に戻っていた。
礼拝は中止された。
聖女エリンは侍女たちに支えられ、奥へ消えた。王太子の名が出た以上、彼女も無傷では済まない。だが、二人を裁くのは今日ではない。
私はゼストに背中を押されて前に進んだ。彼は剣を持ったままだった。確かに、私はいつ殺されてもおかしくない状況だった。
恐怖はなかった。
だって、私は死を経験したから。
聖堂を出て、街へと戻る。
「終わったな」
ゼストが言った。
「一つだけですわ」
「一つ?」
「ええ。あなたの復讐は、まず一つ終わりました」
「お前の復讐は」
私は首に触れた。昨日、落とされたはずの首。つながっている命。死んだことにされた名前。
「これからですわ」
ゼストはしばらく黙っていた。
「手を貸してほしいか? といっても、俺は処刑人をやめる。冒険者にでもなって日銭を稼ぐ」
「あの……、よろしいのですか? 騎士団に戻れると思いますけど……」
「俺はもう、王家に仕えるつもりはない」
しばらくの間、私たちは無言で進んだ。そして、気がついたらゼストの家についていた。
ゼストが私の前でひざまずいた。
「俺は……あなただけの騎士になろう。剣が必要だろ?」
私はふっとため息を吐いた。
「……構いませんが……、私はもう公爵令嬢ではありません。それに、これから先、復讐を遂げるために非情な選択をすると思います。あなたが不快に――」
ゼストが立ち上がって私の手を取った。
「……安心しろ。俺は君を裏切らない」
私はその言葉に心臓を貫かれたような気がした。
気がついたら、涙が出ていた。
枯れ果ててもう出ないと思っていた涙が……。
私がコクリと頷くと、ゼストが笑ったような気がした。
なんだか、遠い遠い幼少期を思い出し……、懐かしい気持ちになった。
公爵令嬢アリス・ブラットレイは昨日、断頭台で死んだ。
ここにいるのは、死んだ女の名誉を取り戻すための亡霊。
そして、亡霊の隣には騎士がいる。
王国はまだ知らない。
首を落とされたはずの悪女が、神の家で最初の復讐を終えたことを。
――これは悪女と言われて断罪された私が、復讐をする物語。
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