帚木(ニ)
放課後の廊下は、昼と違いただ静観としているだけだ。ゆゆきの後ろについてきているのは、竣だけである。放課後に学校を案内しますね、と告げた筈なのだがとゆゆきがあたふたしているところにとどめを放ったのは、竣だ。
「蓬生なら、猫と戯れに行った」
蓬生くんって、電波なのでしょうか。などと聞ける筈もなく、ゆゆきは苦笑を顔に貼り付けながらとにかくと竣だけを連れて学校を歩いている。それにしても、とゆゆきは職員室に行くついでにと持っている名簿を抱きしめながら唾を飲み込んだ。
沈黙がこれほど恐ろしいとは思ってもいなかった。家の環境状況、黙るという事には慣れているつもりだったのだが。どうにも自分でもまだ慣れぬ状況に、本来ならばあまり喋らない男の人と一緒なのだ。それとも――ゆゆきは振り返った。
どうしたの、と首を傾げる竣の肩にはやはり一匹の象のような生き物が居座っている。ぎょろりとその大きな瞳が動いているのに、ひっと小さな悲鳴を上げると竣は眉を顰めた。ねえ、と竣の声にゆゆきの声があがる。
「日向さん、さっきから――」
竣の声と、その生き物の悲鳴が重なった。鼓膜が破れるのではないかと思うほどの、高く大きな声だった。勢いのまま耳を塞ぐのが気に入らなかったのか、その象は跳躍した。竣がゆゆきに手を伸ばそうとする前に、その動きが止まる。
「あ」
ゆゆきは口を開けた。ゆゆきの腕に確かに当たった筈のその象は、ゆっくりと光の粒になっていく。ちょうどゆゆきの身体に当たったところから綺麗に粒子となってだ。あらまあ、とうっかり呟いたのと同時に竣が頭に手を当て叫ぶ。
「ああああっ! おま、俺のバク消しやがったな!」
「へ、け、消すぅ!? 消してません、知りません、というかバクって何ですか、あの生き物のことですか!」
「……いや、違う。あいつの存在は俺が完全に消していたんだ。それだけは完璧だったんだ。ここは揺るがねえ。つまり、お前が変なんだ。そう、お前は――異質だ」
白い髪の下から、鋭い瞳がゆゆきを睨む。ゆゆきはそれよりも、下された評価にまるで鈍器で叩かれたような衝撃を受けた。
わたしが、異質。そんなこと無い、と震えた声に竣は一瞬戸惑っていたけれど、髪の毛をぐしゃぐしゃにしてそのままゆゆきの手を握り締めた。
「分かった、日向。それは放っておく。それよりも今はバクだ。あいつがいなきゃ、俺は仕事が出来ないんだよ! 今月の家計簿がピンチなんだよ! だから、バクを連れ戻さなきゃならねえ。あんた、誰もいなさそうな所知らないか?」
「へ、え、えーと、体育館倉庫裏とか……かな?」
「うわ、ベタ……」
呆れきった声に、ゆゆきは色々な意味でもっと泣きそうになった。
体育館倉庫裏には、人がいた。猫を抱きかかえ、片手にはまたたびを持って、もう片方には猫じゃらしを持って。蓬生葵はそこにいた。二人を見て、ほお、と頷く。
「つまり、デート?」
「違うつーの! おい、葵。バクが消えた。こいつに触ってからだ。どう思う?」
「バクちゃんが? それは――」
困るね、と葵が真剣な顔で頷いた。
「今夜の食料がいなくなるの、良くない」
「おい!」
「冗談、冗談。それよりもそれなら戻さなきゃ。竣、バクちゃんの石どれだったっけ?」
猫が葵の頭を引っかく。そんな事気にもせずに、葵は鞄のチャックを開けて探り出した。竣もあーと疲れたような声をあげる。ゆゆきは竣の手を握ったまま動けない。葵の足元に移動していたあの象のような生き物は、今度は怯えている。今、取り残されているのはゆゆきの思考だ。だけれど、確かに巻き込まれている。ゆゆきが、この状況に巻き込まれているのは確かだ。
「藍晶石、カヤナイトだ」
「ん、了解」
放り投げられたその青色の宝石に、竣は胸ポケットから取り出した鍵を勢い良くそれに突き刺した。ひびが入り、宝石の欠片が竣の頬を切り裂く。垂れた血を指で掬い、何か文字を書いている。
「解放。来いよ、莫奇」
その声で、宝石は宙に浮かび今度こそ飛び散った。何も残らない。ただ、よし、と笑いながら竣が血を拭いながら振り返る。葵がポケットから取り出した絆創膏を傷跡に貼りながらそのままゆゆきへと首を傾げた。
「質問は? 日向」
軽い声だ。貴方たちは、とゆゆきの声はどうにか言葉になったのだろうか。
「誰?」
二人は、同時に微笑んだ。
「ただの、夢食士」
「右に同じく」