新人警察官と女子高生の話
夜の空気は重たく、湿っていた。
夏も終わりが見えてきたけれど、まだまだ夜も汗ばむ温度が続いている。
交番の中はとても静かで、ガラス扉の向こうに時折現れる、ぼんやりとした車のライトだけが時間の経過を実感させた。
新人警察官の僕は、心臓の奥が強く締め付けられるような不安を感じていた。
まだ数えるほどしか夜の勤務を経験していないからだ。
先輩からは「夜は昼とは違うからな」とか「怖くても起こすなよ」とか、意味深なことを言われたけれど、その言葉の真意まではわからない。まあ僕をからかっているのだろう。
先輩が仮眠室に入ってから、どのくらい経っただろうか。
この辺りは治安も悪くなくて、いわゆる不良少年もいないらしい。だから夜勤は暇だという。
僕は少しだけがっかりしていた。
ドラマで見たように、深夜に徘徊して暴れる不良などを捕まえて活躍してみたかったからだ。実際にそんなことがあれば怖いと思うし、何より平和なのが一番だけど。
静寂に耐えきれず、交番から出てみる。
人気のない生活道路には誰もいない。夜空には星を覆い隠すような、どす黒い雲が見えた。
もうすぐ雨が降るかもしれないな。
そんなことを思っていると道路の中央に見慣れない影が見えた。
最初は捨てられたゴミかと思ったけれど、近づくにつれて、それが人の形をしていることに気づく。こんな時間に、こんな場所で、一体何をしているんだろう。
近寄って声をかけようとした瞬間、その人影がゆっくりとこちらを向いた。
街灯の光を浴びたその顔は、信じられないほど蒼白く、そして目がなかった。
正確に言えば、瞼すらない。その奥にも何も存在しない。
ただの井戸の奥を覗くような深い暗闇が広がっている。
僕は反射的に後ずさりした。
ひゅっ、と喉が張り付き、声が出ない。
目の前の異形はゆっくりとこちらに手を伸ばしてくる。その動きはまるで壊れた人形のようだった。
「うわっ……」
やっとのことで悲鳴を上げた時、背後から涼しげな声が聞こえた。
「あーあ、やっぱり出てるんだ」
振り返ると、そこには制服を着た女子高生が立っていた。
夜の闇に紛れていたのか、今まで全く気づかなかった。
長い黒髪の少女は片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手には傘を持っている。
その目は、この世の全てを諦めたような、あるいは全てを見透かしているような……そんな目だ。
「あなた、見えちゃう人?」
女子高生はそう問いかけてくる。
その声は意外なほど落ち着いていた。異形な老人が今も近づいて来ている状況だというのに、あまりにも気にしていない彼女に、僕はますます混乱する。
「え、あ、その……目のない人が」
指をさして言おうとした時、先ほどまでそこにいたはずの異形の老人が、もうどこにも見当たらなくなっていた。
夜の静けさだけが、より一層深く辺りを包んでいる。
「消えた? まさか」
動揺する僕を見ながら「まあ、よくあることですよ」と、女子高生は肩をすくめた。
「ただ、放っておくと悪さをするから定期的に見回ってますけど」
僕には彼女の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
一体何の話をしているんだ。僕は自分が何を間違っているのかさえ、もう分からなくなっていた。
「悪さと言っても、危害は加えて来ないので。まあ気味が悪いのは確かですけど」
彼女が言うには『あれ』は脅かしてくるだけ、らしい。
事実だとしたら迷惑が過ぎる。
「本当に?」
そんな存在がいるのも信じがたいが、それ以上に呪われたりしないのか不安だった。
すると女子高生は顔を上げ、僕を見つめた。その瞳にはわずかな怒りの色が宿っている。
「警察官なのに、市民のことを信じないんですか?」
その言葉には、皮肉と、ほんの少しの冗談にも似たものが含まれているように感じた。
僕は言葉に詰まってしまう。だって、警察学校では幽霊の対処法なんて教わらなかった。
警察官が相手にするのは、人間による犯罪のはずだった。
「まあ、信じられないのも無理はないですけど」
彼女はすぐに言葉を変えた。
「でも、実際に見たんでしょう? 目のない老人を」
その一言で、僕は息を呑んだ。そうだ、確かに見たのだ。あの異様な姿を。
あれがただの幻覚だったなんて、ありえない。
「それで、君は、その……幽霊をどうにかできるんですか?」
僕は藁にもすがる思いで彼女に尋ねた。
女子高生は「やろうと思えば」と、肩をすくめる。
「でも、あんなのは弱い方ですよ。もっとこう、ドロドロした悪意の塊みたいなのが出てくると、ちょっと面倒くさいですから」
ドロドロした悪意の塊。想像しただけで全身の毛が逆立ちそうになる。
目の前にいる女子高生は、そんなものと日常的に接しているのだろうか。
「あの、もし差し支えなければ、あなたの名前を教えてもらえませんか?」
僕は、どうしても彼女のことを知りたくなった。
女子高生はにっこりと微笑む。
「知ってます? 目のない老人が出るのは、決まって大雨の前なんです」
質問への答えとしては想定もしてないものだ。
言いながら、彼女は持っていた傘を広げる。りんごのように赤い色が花開いた。
「いや、あの」
名前は?
もう一度聞こうとした時だ。ぽつりぽつり、と雨が降り始めた。
それはあっという間に大粒の雫へと変わる。
バケツを返したような雨、という言葉はよく聞くが、まさにそんな雨だった。
赤い傘の女子高生はそんな大雨の中を帰っていく。僕はその背中を呼び止めようと思ったけれど。
「まあ、いいか」
交番に濡れ鼠になって戻ると、どこに行っていたのかと、仮眠から起きてきた先輩に怒られた。
数日後。
交番の前に立っていると、通学中の学生たちの姿が見えた。
その中に、あの大雨の前に出会った少女の姿があった。
「朔先輩、どうして傘なんて持ってるんですか?」
後輩だろう、彼女よりも幼く見える女子高生が話しかけている。
ふと朔先輩と呼ばれた彼女がこちらを見た気がした。
「今夜は──きっと雨が降るから」
後輩の少女は天気予報では数日晴れだったとか言っているが、朔先輩と呼ばれた彼女は、聞こえていないかのように歩いていく。
僕は空を見上げた。青く、雲ひとつない晴天だ。
だが、傘を用意しておこうと思った。
そして奇しくも今日は、また夜勤の当番なのだと思い出した。
祓い屋先輩シリーズです。
良ければ他も見てください。