2,争点
もう一月近く、王と王妃の離婚裁判が行われていた。
結婚期間が一ヶ月だったため、そろそろ同じ月日を裁判のために費やしたことになる。
結婚期間と言ってもライディアからすれば実質は一日、夫婦らしく過ごしたのはたった一日、結婚式当日だけだった。
それ以降たったの今まで、二人で過ごしたことがなかったからだ。
(こんなことになるのだったら、最初からあんな思いを…しなければ良かった)
かろうじて自分を鼓舞して伸ばしている背筋を、ここが公開法廷の場であることを忘れ丸めて泣き崩れたくなった。
ライディアはヴァイナンドと過ごしたそのたった一日を、これ以上ない幸せな記憶として残していた。
結婚式も初夜のヴァイナンドも忘れられなかった。
あの夜の彼は、久しぶりに少年の時のような笑顔で笑ってくれたのだ。
(………もう、あの笑顔は見られない)
この国や王国民、そしてヴァイナンドのためなら、この身を犠牲にすることは耐えられた。
大勢の民衆の前に出ることも。
その好奇の目に晒されることも。
そして第三皇女が、王妃になることも。
それがこの王国にとって、一番良いことだから。
(ヴァイナンドの笑顔を見られないことの方が、堪えるなんて……)
それほどヴァイナンドのことを愛していたのだと、ライディアは改めて自分自身に思い知らされた。
せめて、王妃として毅然とした態度でいたいと思ってはいるが、その決意もくじけてしまいそうだった。
そもそも国教によると、一度婚姻を結ぶと離婚ができない。それがどんなに過酷な婚姻であっても、だ。
逃れるためには、どこまでも遠くへ逃げるか死を選ぶしかない。例え遠くへ逃げたとしても、待っているのは過酷な現実だ。
そのせいで王国民の生活が一部でねじ曲がったものとなり、破綻をむかえているのも事実だった。
それが一月前、本来なら認められるはずのない離婚裁判の発端となった、苦しんでいる人が多いこの教義を根底から覆すかも知れない出来事が起こった。
ヴァイナンドが隣国であるトイヴェネン帝国との戦争終了後、帝国の第三皇女を連れて帰還したのだ。
しかも、王妃とするべく迎い入れる相手として。
王族も帰依する国教では、離婚を認めない。しかも、国王は側妃を置かない。
なのになぜ堂々と王妃候補として、国王は隣国の皇女を同行させたのか?
それは《ライディア王妃との離婚が可能だからだ》と、国王側は言い出した。
言葉の便宜上離婚裁判とされているが、国王側が求めたのは正しくは“婚姻無効を確認する訴え”だった。婚姻契約の成立要件を満たしていないのでこの婚姻は無効でありそれを確認する、と主張したのだ。
無効であるということは、成立はしたけれどその時点から未来に向かって解消される“取消し”と異なり、《始めから婚姻は成立すらしていない》ということだ。
契約内容がすでに履行されていれば契約は成立し、教義から言えば"取消し"はできない。
でも、《最初から契約が履行されていない》のだから、契約は不成立のままだ。
“そもそも不成立”なのだから、無効として契約破棄しても神への誓いを破ったことにならないのだ。
そう、これは教義に反する“離婚”ではない。そもそもの成立要件を充たさず、"婚姻は成立していない"のだから。
では何の成立要件を充たさなかったのか。
“婚姻”とはすなわち神への誓い、神の認めたもうた相手への誓い、身も心も相手のために捧げ誓いを守り抜くことの婚姻という名の“契約”である。
その中の一つ、身の契約に国王側は目を付けた。
《白い結婚は、結婚の成立要件である身の契約が済んでいない》と言い出した。
この裁判は婚姻契約の成立の有無を争うものであり、《白い結婚は、婚姻が成立したとは言えない》のだ、と。
新聞が取り上げ、光明が見えたと歓喜する風潮も生まれたが、すぐ、その歓喜は廃れた。
なぜなら、よっぽどの事情がない限り白い結婚は成しえないからだ。
初夜は民衆の中では特別なものとして重要視され、結婚して身の契約がないことなど皆無であった。
そして、そのような結婚は普通はしない。子供ができないからだ。これは多くの庶民にとって労働力と老後の保険がなくなる事を意味する。
民は容易に離婚できない、教義は守られる。
しかし、特別の事情のある白い結婚なら証明して離婚、もともとの契約不成立、とする事が可能である。
こうして教会にも、証明が出来そうな貴族や王族にも都合のいい裁判が、国民周知の元大々的に繰り広げられることになったのだった。
しかもこの理屈からすると、この離婚裁判で争われるのは、女性側からすると非常に屈辱的なものだ。
そう、まさしく初夜、これが争点だった。
「では、前回の原告側からの請求の通り、証人尋問から行います。原告側の申請証人は前へ」
左陪席の裁判官が、原告側を見て言った。
ライディアの気持ちにお構いなく、裁判は粛々と淡々と進む。
原告側の弁護人から促され、女官の制服を着た手に本のようなものを持った二十代くらいの若い女が前へ出た。
「証言台の上に、宣誓文の書いた紙が置いてあります。宣誓をすると、偽りを述べた場合罪に問われます。ご承知おきの上、宣誓をお願い致します」
証人が台の前に立つと、左席裁判官が言った。
その言葉に証人は頷き、置かれていた紙を取り、宣誓をした。
「神に誓い、神の子として隠さず真実のみを証言する。心は神のみに捧げたもうたもので、口は神の御心に従い己の心の忠心を紡ぎ出す。故に我に偽りはあらず。神のみに帰依する」
証人は読み終わった後に、紙を台の上に置いた。
「では、原告代理人どうぞ」
裁判官の言葉を受け、続けて原告の代理人が前に出てきて、その証人に向け尋問を始めた。
「まず、お名前と所属をお聞かせください」
「はい。カイア・クアドラと申します。王妃殿下付きの女官です」
カイアは、やや没落気味の伯爵家の娘だった。
気が利くので、ライディアが側に置いていた一人だった。
「争われているものの性質上、答えにくいことを伺うことになるかも知れません。答えたくないときは答えなくても大丈夫です。調書として提出致しますので」
「はい」
カイアは頷いた。
「国王夫妻の結婚式があった当日の、午後から夜にかけてですが、あなたはどちらにいらっしゃいましたか」
「王城にいました。主に王妃殿下のお部屋を中心に、作業をおこなっておりました」
「何時頃まで、そこにいましたか?」
「ずっとです。夜も担当女官でしたので、控えの間に詰めておりました」
「王妃殿下はいつお部屋に戻られましたか」
「十九時ごろでした。お疲れのご様子で、少し一人で休みたいからとおっしゃいましたので、それから控えの間におりました」
「その日、陛下はいらっしゃいましたか」
カイアは、ヴァイナンドのことになると、少し答えにくそうだった。
「………はい。二十一時を過ぎた頃いらっしゃいましたので、軽食と寝酒や茶器の確認をし、すぐ私は下がりました」
「控えの間から、王妃殿下のお部屋の様子はうかがい知ることはできますか?」
カイアは首を振った。
「いえ。……お話等も、聞こえません。必要な時は扉の横にある紐を引き、鐘を鳴らしていただくことになっております。二十一時頃に陛下がいらっしゃった時も呼び出しの鐘が鳴りました。控えの間で聞こえるのは、正面の扉を開閉する音くらいです」
原告代理人は頷くと、質問を続けた。
「その日の夜、あなたが下がってから、扉の音は聞こえましたか?」
「はい。詳しいことは日誌を付けておりますので、少々お待ちください」
カイアは、手に持ってきた日誌を開いて確認する。
「二十一時半頃に、少し間を開けて、二回ですね」
「少しの間とは?」
「約五分ほどです。詳しくはわかりません。五分単位で書き込んでありますので」
「ありがとうございました」
原告代理人は、結婚式当日の王妃の部屋の出入りの様子を確認すると、カイアに礼を言った。
王妃はしばらく一人でいたこと、その後に国王が来たこと、その後あまり時間が経たないうちに扉の開閉が二度あったことがわかった。
カイアは無事に終わったと胸を撫で下ろした顔をし、頭を下げた。
ライディアは攻める風でもなく、カイアの様子を無言で見ていた。
「裁判長。後ほど、日誌を証拠物として提出させていただきます」
原告代理人は、裁判長へ向かい声を掛けた。
「わかりました。では被告代理人、何かありますか」
裁判長が頷き、声を掛けた。
今度は、被告代理人が出てきて質問を始めた。
「あなたは先程、呼び出しには紐を引くことが必要だとおっしゃっていましたが、ご自分から伺うことは一切ないのですか?」
「一切、と言われますと……。緊急時には駆けつけると思います。ただ、王妃殿下の扉の前にはいつも護衛騎士がおりますので……」
「その必要はない、ということですか?」
「……はい」
食い気味に少し厳しめの口調で被告代理人に聞かれて、カイアは尻込みするように答えた。
「扉の開閉の音は分かる、とおっしゃられていましたが、それは通常の開閉時ですよね? 例えば、そっと開閉されたときは、どうでしょう? 同じですか?」
「……そのような事は今までなかったので、わからない…です。扉は、担当騎士が開けますので」
「経験はない、ということですね?」
「……はい。もしかしたら……そっとなら、気付かないかもしれません」
被告代理人の勢いに押され、カイアは操られるように答えた。
「それでは、扉番がいない時に静かに扉を開け誰かが王妃殿下の部屋に入ったとしても、直接鐘で呼ばれない限りは部屋を訪れないので一切気がつかない、ということですね?」
何に関して被告代理人は質問したいのだろうと傍聴席の人々は思っていたのだが、ここに来てやっと、国王が来るまでの王妃一人の空白の約二時間の間に、実は国王が扉をそっと開閉し訪れていたのではないか、その時に契りを交わしていたのではないかという疑問を抱かせたかったのだと気付いた。
素早く意図を見抜いた原告代理人は声を上げる。
「裁判長! 被告代理人は憶測でものを言い、証人から証言を引き出そうとしています」
「意義を認めます。被告代理人は質問を変えてください」
裁判長は平坦な声でそれに応えた。
被告代理人は何事もなかったかのように、質問を続ける。
「陛下が来られたときに、何か仰っておられましたか」
「はい。確か、『待たせて、ごめん』と」
被告代理人は大きく頷く。
この『待たせて、ごめん』の言葉の意味は、通常ならば純粋に待たせた事への本来の使い方である詫びの意味だ。しかし、さきほどの証人と被告代理人のやり取りの経緯と質問のあとならこう聞こえる。
“少しだけ席を外す予定だったけど、予想外に待たせてしまったかな。ごめん” という意味にも、無理矢理こじつけた話のようだが、推測し読み取れるのだ。
傍聴人達の中には、代理人は有利な事実の積み上げを行うときにこのような手法をつかうのかと興味深く聞く者もいた。
ライディアも晴れない気持ちのまま、人の思い込みの心を利用する物語本を読むときのようだと思う。
そして心持ちとは裏腹に、客観的に分析してしまう自分に内心苦笑した。
「ありがとうございました。以上です」
気にならない人にはさほど気にもとめないが、しかし痛みは確実に少し伴う小さい棘ほどの疑惑を残して、被告代理人はカイアと続いて裁判長に頭を下げた。
【登場人物】
ヴァイナンド(ホーヴァルト王国国王)
ライディア(ホーヴァルト王国王妃)