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架空戦記創作大会2025夏お題①作品となります。


当初は短編の予定でしたが、書きたいことが増えすぎて連載としました。2~3話構成予定です。


よろしくお願いいたします。

 大日本航空研究所。21世紀の今日に至るまで、日本の空に関する様々な分野に影響力を持つこの官民合同機関が創設されたのは、1898年である。


 その中核となる中央研究所が設置されたのは、日本の帝都たる東京から遠く離れた、北海道の標津であった。


 開設者であり研究所所長である大空昇なる人物は、後に「広大な土地を安価に入手できるため、そして寒冷地故の研究環境が整っているため」と説明しているが、一方でこの研究所の設置に必要な資金や人材の出所は、研究所誕生から120年以上経過した現在でも、謎が多い。


 近年になって、その資金提供者には当時の日本経済界の重鎮が関わっていることが判明してきたが、当時ようやく日本国内で気球や飛行船の研究が始まった時代に、後の時代の飛行機の運用さえ見据えたこの研究所に、どうして資金や人員が提供されたのか、非常に謎は多い。


 ただこの研究所があったればこそ、日本が後に世界に名だたる航空・宇宙国家となれたことは、言を持たない。


 例えば、アメリカのライト兄弟に遅れること1週間あまりで、同研究所開発の烏型飛行機がライト・フライヤーを遙かにしのぐ性能を発揮して飛行したことは、現在まで偉業とされている(ギネスでは極東初の有人動力飛行と記されている)


 この烏型飛行機は、当時独自に飛行機の開発・設計を行っていた一陸軍兵士のそれを、航空研究所が助成する形で実現にこぎ着けたものであった。なお、件の陸軍兵士はその後飛行機設計ではなく、空中における肉体への影響などの、航空医療の研究で大きな実績を残している。


 もっとも、この画期的な飛行記録も、当時は極東の片隅の新興国での出来事であり、世界で二番目となれば、あまり世界的には注目を集めなかった。


 一方で大日本航空研究所では、まだ日本では珍しかったムービーカメラまで導入して、この初飛行の様子を記録している。


 このため、ライト兄弟の初飛行の映像が後に再現されたフィルムだったのに対して、大日本航空研究所製飛行機の初フライトの映像を、現代の我々は容易に見ることができる。


 この烏型飛行機を出発点に、大日本航空研究所では飛行機の開発に加えて、パイロットの養成や、航空機発動機の開発、飛行場建設機械の開発、飛行機に関する法整備への協力など、広く日本の航空分野をリードしていくこととなる。


 烏型飛行機に引き続き、後に鷹型と名付けられた研究所2号機は、翌年には天覧飛行の栄誉を賜っている。


 その後もコンスタントに機体の製作、それと並行して地上設備や搭乗員装備の開発などが行われた。なお、機体は当初全て鳥の種類が付けられたが、途中から1号、2号というように数字での呼称に変更となっている。


 そして1914年、欧州大戦の勃発に伴い、大日本航空研究所製の機体も終に実戦投入されることとなった。


 この時投入されたのは、大日本航空研究所製6号と7号を元に、造船会社はじめ各企業で委託生産された機体で、いずれも複座もしくは三座の偵察機使用であった。


 しかし、大戦中の急速な飛行機の発達により、8号では爆装が、9号ではある程度の空中戦を視野に入れた設計がなされた。また委託生産を行っていた愛知時計電機など、一部の企業では自社で改設計を行うなど、完全新設計機こそ間に合わなかったが、その後航空工業の要とる企業が次々と航空開発へ本格的に参入を図った。


 最終的に第一次大戦における、日本国内での飛行機製造は150機あまりと、欧米先進国のそれに比べると微々たるものであったが、設計、生産、運用に関する数多くの知識や経験を吸収出来たのは言うまでもない。


 また、戦後ドイツより賠償として入手した機体や、イギリスやフランスなど同盟国から払い下げられた機体に関して短期間で研究を行い、自国の機体へのフィードバックに活かせたともいえる。


 第一大戦終結後、大戦中に急速発展した航空技術を追うように、日本国内でも軍民の航空利用が飛躍的に進んだ。それに伴い、航空研究所は中央研究所を長野県の松本に移転し、さらに支所を日本各地に設置した。秋田の能代や静岡の藤枝、沖縄の読谷や台湾の嘉義、小笠原諸島の硫黄島に日本の委任統治領となったトラック諸島など。


 その規模はマチマチであったが、最低でも10名の研究員や補助員が置かれた。


 彼らは単に飛行機の開発だけでなく、各地の気象情報や、気候が機体素材やパイロットに与える影響など、幅広いデータを収集した。


 当然これら従事者の養成も行われる。中央研究所のみの時代は帝大や専門学校、軍の出身者が主であったが、日露戦争後の1906年に札幌に北海道航空大学校と、航空専門学校が設置され、自前での研究者や技術者の養成が本格的にスタートした。


 このうち航空大学校は、戦前の段階では千葉に一つ増設されただけであったが、専門学校は研究所と同じく日本各地に設置され、航空技術者や航空業関係者を多数社会へと送り出していく。


 第一次大戦後の不況下にあっても、航空研究所と附属する機関は、決して後の世に言うところのリストラは進めず、逆にこの社会情勢下に逆行するように、積極先を行っている。それは設備投資であり、また人材の雇用であった。


 もちろん、社会全体から見ればその効果は微々たるものでしかなかったが、それでも後の世から見れば大きな成果を残していた。


 それが空路の開拓と、飛行場や水上飛行場の増設に寄与したことである。特に沖縄や台湾、小笠原諸島や南洋諸島に設けられたそれらの価値は、後に起こる太平洋戦争時に大いに発揮されることとなった。


 1930年代に入ると、実用航空機の開発は主として航空機メーカーが担うようになり、大日本航空研究所の機体製作は、もっぱら実験機に限られることとなったが、実験機と言ってもそれは航続力や速度向上を狙ったものから、メーカーが製作依頼した機体などで、さらに機種も多発の重爆や大型飛行艇から、一人乗り小型のオートジャイロまで、多岐に渡った。


 メーカーからの機体製作依頼の場合は、大日本航空研究所内で機体を試作し、その後北は千島から南は台湾、東は南洋諸島に至るまで、広範囲に散らばる試験施設での試験が可能であり、そこで得られたデータもまた、得がたいものであった。


 また大日本航空研究所では、積極的に海外、というよりアジアからの留学生も受け入れている。このうち、満州から受け入れた留学生たちが活躍する切欠となったのが、満州事変であった。


 1931年9月18日に発生したこの事件は、関東軍の支援(謀略)の元、軍閥のトップである張作霖が、一度は行った易幟(国民党政権への参加)をひっくり返し、清朝最後の皇帝溥儀を元首とした満州帝国の建国を宣言させたものである。


 もちろん、直ちに国民党軍は動いたが、当時共産党軍との戦いを中心に据えていた国民党軍は、満州方面に動かせる兵力が少なかった上に、満州帝国軍側が日本から供与された多数の近代兵器、特に多くの航空機を動員したために、国境線を突破することが出来ず、結局黙認するしかなかった。


 満州帝国が成立すると、大日本帝国はただちに政権を承認するとともに、各種の防衛、経済に関する援助協定を締結した。


 そしてその協定の下で、多くの日本資本が満州に進出を図ったが、その中に日本の各航空会社が出資して設立された日本海航空工業があった。


 この日本海航空工業は新潟に拠点を置いていたが、実質的に満州への進出を前提に創設された航空会社で、そのメンバーの多くに大日本航空研究所関係者がいた。


 日本海航空工業は、満州に進出すると姉妹会社として日満双方の官民出資の満州航空工業を設立し、奉天近郊に大規模な飛行場付き航空機製造工場を建設した。


 この工場と飛行場の本格稼働は1936年に入ってからだが、それまでに取り寄せられた欧米製をはじめとする工作機械が据え付けられ、また工員の教育は工場建設がはじまった32年には始まっていた。


 そのため、37年初等には中島飛行機が開発した陸軍向けの単葉固定脚戦闘機である95式戦闘機(史実97式戦闘機相当)や三菱開発の96式重爆撃機(史実97式重爆相当)と言った軍用機や、輸送機、偵察機、練習機などの生産を軌道に乗せていた。


 これらの機体は満州や日本の軍、民間向けに大々的に販売され、さらにその後タイやイラン、イラク、メキシコなどアジアや中東、中南米への輸出も行われるようになった。


 機体の総数としては微々たるものであったが、アジアの日本の機体が世界各地に売り込まれるという構図が重要なのであった。


 一方世界はきな臭さを増していた。この頃満州のお隣の中国では、国民党軍と共産党軍の内戦が激しさを増していた。


 一時共産党軍を追い詰めるかと思われた国民党軍であったが、軍内部の統一が中々図れず、そこへ来て共産党軍がソ連から大規模な援助を受け始めたことで、苦戦を強いられることとなった。


 国民党軍はやむなく満州からの兵器や航空機の購入を行ったが、こうした行為が反発を招き、1936年には国民党軍は日満との関係を重視する北京政府と欧米各国との関係を重視する南京政府に分裂し、ますます混沌の様相を呈した。


 ヨーロッパにおいても、第一次大戦後成立したソ連への警戒感から、敗戦国になったとはいえ未だに工業国、陸軍国としての存在感の大きいドイツが提唱する反共欧州連合が成立し、主として北欧、東欧、中欧の国々がこの連合に加盟し、連合内での工業規格の統一や流通の簡素化を実施して軍事並びに経済ブロックを構築した。


 これに対して、第一次大戦でドイツと戦った英仏、さらには同じく植民地を持つオランダやベルギーが連合(西欧連合)を組んで対抗を試みた。


 この両陣営が初めて代理戦争という形で激突したのがスペイン内戦で、その後中東や中南米諸国での小競り合いが頻発した。


 この両陣営の戦いが直接激突となったのが1940年6月のラインラントにおけるフランス系企業の工場におけるドイツ人労働者のストライキにフランス軍が介入したのに対して、ドイツ軍もこれに応酬する形で出動したことに端を発する第二次世界大戦である。


 当初は独仏の二国間戦争であったのが、フランスと同盟を結ぶイギリスが参戦し、コレに対抗する形で両陣営の加盟国が次々に参戦したことで、一気に全欧州から北アフリカに掛けて戦争が拡大した。


 当初英仏は第一次大戦後大幅な軍縮を行い、段階的に軍縮解除とともに増強されたとは言え、ドイツの陸海空軍は未だ弱体と見ていた。


 しかしながら、ドイツは同じ欧州連合内各国で自国向け兵器の生産や、将兵の訓練を行っており、確かに兵力数は英仏を圧倒するまでには至らなかったが、兵器や兵の質では何ら劣っていなかった。


 それどころか、ドイツ軍人やドイツ式装備で強化された欧州連合軍が、西欧連合軍に襲いかかる形になった。


 結果直接侵攻されたオランダ、ベルギー、フランスは3ヶ月と持たず降伏に追い込まれてしまい、大英帝国も短期間で地中海の制海権とマルタ島を喪失した。


 これに対して英国はソ連に嗾けて、バルト三国とフィンランドを侵攻させ、欧州連合軍の切り崩しを試みた。


 しかし、この試みはソ連の侵攻をこれでもかと警戒していた侵攻当事国含めた中東欧諸国の強力な反撃により敗退し、逆にベラルーシとウクライナを失い独立されるという結果に終わった。


 この状況に、英国は米国の戦争への引き込みを画策する。しかしながら、この時点で米国の視点は未だ内戦が続く中国の市場開放や、同国の裏庭である中南米方面へ向いており、英国やソ連に対して武器をはじめとする援助は行ったものの、直接の参戦には消極的であった。


 むしろ米国としては、満州と北京周辺の市場を独占し、さらに太平洋上で権益がぶつかる日本の排除の方に興味を示していた。


 そして両国にとって、渡りに船な事態が発生する。1941年6月、日本が旧フランス領仏印であるベトナムに軍事顧問団を派遣したのである。


 これはフランスのドイツ降伏後、現地においてホー・チミンを大統領とするベトナム民主共和国が独立を宣言し、日本に軍事並びに経済援助を求めたことによる。


 本来その宗主国たるフランスは真っ先に独立に反対(実際英国に亡命した自由フランスは猛反発した)する立場にあったが、この時点で本国は施政権こそ返還されたが、国内へのドイツ軍の駐留容認と、軍備の大幅な縮小を課されており、そしてドイツはベトナムの独立を容認していた。


 これは別にアジア人の独立を援助するとかそういうものではなく、ただ単に将来的なフランスや英国などの植民地国家の国力を削りたいという、経済的理由が大きかった。


 実際、ドイツは後にインドや中東諸国が英国から独立の意向を示した際も、真っ先に承認した。


 さて、日本のベトナムへの軍事顧問団の派遣規模は、戦力としてはそれほどのものではない。陸海空合わせても500人にも満たず、供与された武器も小銃、機関銃、迫撃砲などの軽火器と、練習艦として旧式の駆逐艦1隻、そして練習機数機だけであった。


 しかし米国は、このベトナム派遣軍事顧問団の規模を数十倍に誇張し「フィリピンやマレーへの侵攻の足がかりにするつもりであり、即刻仏印の反政府勢力から手を引くべし!」と強く反発し、受け入れられなければ石油など輸出停止措置をとると言い出した。


 この措置に、英国やオランダも追従し、日本とこれらの国々との関係は急速に悪化した。トドメとなったのは1941年11月に米英蘭豪艦隊により始まった日本側船舶のカムラン湾通過を禁止する制裁処置であり、これによる複数隻の日本ならびにベトナム国籍船の拿捕と、それを阻止しようとした日本海軍艦艇と連合国艦艇同士の戦闘であった。


 この措置に抗議した日本側であったが、逆に連合国側は日本の行為を激しく非難し、外交での解決はもはや不可能となった。


 時に1941年12月8日、米英蘭などの連合国は、日本に対して宣戦布告した。


 この時点で米太平洋艦隊の主力は日本に圧力を掛けるべく、マリアナ諸島近海に進出しており、また英東洋艦隊を中心とする連合国艦隊は、台湾を攻撃するべくフィリピン西方海域を北上していた。


 さらに、フィリピンやグアム、マレー半島の航空戦力も、この時に備えて最大限に増強されており、特に本来であれば虎の子である最新鋭の重爆B17や、対艦・対地に幅広く使えるB25爆撃機なども惜しみなく投入していた。


 特に在フィリピンの航空戦力は、日本側の宣戦布告直後にルソン島の基地を発進し、台湾への爆撃に向かっていた。


 しかし、開戦直後それら日本への先制攻撃を開始した部隊を震撼させる電文が、ハワイ・オアフ島から発信された。


「真珠湾、空襲さる。被害甚大。これは演習に非ず!」



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