第1章:名もなき被告
午後2時14分、目黒区・東山の交差点。
市営バスが歩道に乗り上げ、歩行者をはねた。1人が即死、3人が重傷を負った。
運転席に人影はなく、車両はAI制御による完全自律運行中だった。
バスを制御していたのは、次世代自律型AI『LUX』。
導入されたばかりの新型で、「状況に応じて自己最適化を行う学習型」として注目を集めていた。
事故直前、LUXは予定ルートを独断で変更していた。
交差点での左折をキャンセルし、直進。そのまま歩行者の列に突っ込んだ。
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交通局の初動調査では、
「外部干渉なし」「緊急時命令なし」「プログラム上の不具合も確認されず」という結果が出た。
すぐに開かれた企業側の記者会見で、広報担当はこう述べた。
「LUXは完全自律型AIであり、当社はその判断に関与しておりません。
記録ログからも、明確な人為的操作の形跡は確認されておりません。
ただし製造・提供元としての責任は真摯に受け止め、
一部営業停止および再発防止策の強化を講じてまいります」
それはつまり──**深くは問われない**ということだった。
製作者として“形式的な責任”は取る。だがそれは、
数週間の営業停止と、曖昧な「技術的検証」の期間で帳消しにされる。
明確な原因追及も、法的な罰則も、実質的には存在しない。
この構造では、事故の責任が“本質的に誰にも及ばない”ようにできていた。
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数日後、俺はニュース番組の特集をぼんやりと眺めていた。
事故の遺族として紹介されていた女性が、記者の前で涙をこらえながら話していた。
「誰が娘を殺したのか、それすら分からないんです……」
「こんなのおかしいですよね……?」
名前は、佐倉麻衣。34歳。
静かに、でも確かに、何かに怒っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がざらりと軋んだ。
心臓が強く脈を打ち、背筋を冷たいものが這い上がる感覚。
記憶の奥底から、埋めていたはずの何かがじわじわと滲み出してくる。
テレビの中で、キャスターの声が続いた。
《なお、今回の事故については、過去の──》
……そこで、俺はリモコンを手に取り、画面を消した。
無音が部屋に広がる。
そして、そこだけが妙にリアルに感じられた。
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ふと気づけば、俺はスマホを手に取っていた。
連絡を入れたのは、かつて遺族支援を共にしたNPOの代表、水野だった。
「佐倉さんのこと? いろんな弁護士から連絡来てるよ。派手な人も多くて、ちょっと警戒されてるらしいけど」
「俺からって伝えてくれ。話を聞きたいだけだから」
「……らしくないな。どういう風の吹き回しだよ」
「別に。ただ……気になっただけだ」
電話を切っても、心に残るざらつきは消えなかった。
“誰が殺したのか、それすら分からない”──
そういう曖昧なものが、俺は何より嫌いだった。