予兆
やっとひと心地ついたものの、エリンには気にかかることがあったらしい。寝ていなさいというフィアに抗して、「陛下へのお目通りは叶わなかったのですね」と切り出してきた。
「多忙だと取り付く島もなかった。この分だと、夕食でもご一緒出来ないだろう」
茶で喉を潤したフィアは淡々と呟いて嘆息した。エリンは眉を寄せて悔しげだ。
「なんと無礼な…! いくらアルストリアの立場が下であっても、王女を迎えておきながら挨拶さえ拒むなど、考えられませんわ」
「それが立場が下だということだ」
厳然たる事実を前にフィアは苦笑する。
無茶な旅程で連れてこられたことも、側近に冷たくあしらわれることも、王との面会が叶わないことも、求めた戦利品を与えなかったアルストリアに対して当然の振る舞いといえた。
「明日には顔合わせぐらいさせてもらえると良いのだが」
フィアが呟いたこの言葉は、結局そのまま十日を過ぎても叶うことのないまま過ぎていった。
流石に十日目の夜にも夕食の並んだテーブルに王の姿がないのを知ったフィアは食事もそこそこに部屋へ引き上げた。誰もいないテーブルで一人食事をし、給仕される恥をいつまでも晒していたいとは思えなかった。
神経を張り詰めているからか、そもそも食事が喉を通りづらいこともあって食が細っている。エリンは変調に気づいて、小間使いを通して菓子を入手してくれるなど懸命に気づかってくれるのだが、胃腸が働いていないのか残念ながら何を食べても味がしない。
部屋に戻ってしばらくすると、俄に外が賑やかになった。エリンが王の訪れかとふと腰を浮かす。だが、その思惑は外れてドアのノックの後に聞こえたのは、荷の到着の案内であった。
小間使いが扉を開くと、外にはアルストリアからの荷物を詰め込んだ箱がいくつも並んでいた。それに十日にしてすでに懐かしいミラの顔がある。
「フィア様! ただいま到着いたしました」
彼女が満面の笑みを浮かべると、ぱっと場が華やぐ。けれど嬉しそうに部屋へ入ってきたミラはフィアを見上げてすぐに顔を曇らせた。
「お加減がお悪いのですか…!?」
「いや、そんなことはないよ」
「でも、お痩せになられました…!」
瞳を潤ませんばかりのミラを宥めて、フィアは荷物の到着を歓迎した。中身は当然のように検められており、その確認に時間がかかってミラは随分長いこと外で足止めをされていたらしい。彼女を労いながらフィアは荷物を室内へと運び込ませた。
出立に合わせて無理やり持ち出した数少ない衣装も装身具も、一通り使い果たしてしまっていたが、これで替えがきく。
といっても、見せる相手がいないのだが――ということを、エリンがミラに伝えるとミラもエリンと同じように憤慨して、悔し涙を浮かべた。
「そんな! はるばる呼びつけておきながら、お顔合わせさえないままに十日もほったらかしだなんて酷すぎます」
フィアとしては、このままここで飼い殺しにされたとて文句は言えないと思っているので表立って不満を口にする気はないが、そんなフィアを大事に思ってくれている侍女達の思いは違う。自分たちの主人はしかるべき扱いを受けるべきだと深く嘆いて、二人は肩を落とす。
ともかくフィアとしてはミラが無事に到着してくれたことが嬉しい。長旅の疲れをゆっくりと休んで癒やすようにと伝えて、その晩は眠りについた。
苦労して荷解きをした翌日も、その翌日もやはり王との対面は叶わぬまま過ぎていった。荷解きをしながらミラが本当は荷物の中にフィア様の甲冑と剣を忍ばせておきたかったのです、と言うのでぎょっとしたが、賢いミラはもちろんそんな危ういものを持ち込んだりはしない。ただし、城を離れた後でそれらが勝手な扱いをされぬよう、自身の家に運んで王女の預かり物として厳重に保管するよう家人に頼んでくれたそうで、フィアはそのことにも大変感謝をした。
自分の体に合わせて作らせた鎧も長年苦楽を共にした剣も、毎日当たり前のように手にしていたものだから、離れるとなんともいえない寂しさを感じる。
騎士としての鍛錬も怠って女物のドレスに身を包んで、日がな一日することもなく敵国の王の訪問を待つばかりの日々。覚悟はしていても虚しさがなくなるわけではない。
と、昼の陽の差す窓辺に座ってそんなことを考えていたフィアの耳に、甲冑の足音が聞こえてきた。ぴり、と空気が張り詰める。椅子から立ち上がったフィアに気づいてすかさずエリンも席を立つ。ミラがそれに従って居住まいを正した。
ノックの音が響き、エリンが許可を出すと扉が開いておおよそ十日ぶりの近衛騎士長が姿を現した。そして彼は以前と同じく慇懃に腰を折って告げる。
「陛下がお呼びです。ご同行ください」
ついにその時がやってきたのだった。
† † †
玉座のある部屋へ連れて行かれることを想像していたフィアは、近衛騎士長のロウがもっと奥向きと思われる廊下を歩いていくことを意外に思っていた。公的な対面でなく、私的な面会という扱いだろうか。
やがて辿り着いた重厚な扉の前で、ロウが声を張った。
「アルストリア王女殿下をお連れいたしました」
その声に応えるように内側からガチャリと音がしてゆっくりと扉が開く。フィアは前だけを見つめてロウの背に続いて室内へと歩を進めた。
ロウが右に一歩引き、フィアの視界が開ける。大きくどっしりとした執務机が鎮座しており、その中央に置かれた椅子にゆったりと座った男が一人。
凝視する無礼を避けてフィアは静かに足を引いて頭を下げ一礼した。