二人だけの静かな夜
「こんなことで感謝するな」
やがてようやく唇を離し、呼吸を許したサイラスがそう言って低く笑う。
本来なら妃を愛でるのも王の役目なのに、それを果たしていないと責められても仕方がない——そんな冗談めいた言葉を口にしながら、彼はフィアの髪を優しく梳いた。
暖炉の炎が揺らぎ、部屋には橙色の灯りが柔らかく広がっている。窓の外には冷え切った夜が広がり、遠くの木々が風に揺られながら影を伸ばしていた。でも室内はそれとは対照的に、静かで穏やかで心を解きほぐすような温かさがあった。
息を整えようとするフィアは彼の胸に手を押し当てながらも、懸命に言葉を絞り出した。
「とにかく、お食事を……」
テーブルには、あらかじめ準備しておいた料理が並んでいる。その横で、暖炉の熱を利用して温かさを保っていた鍋が控えていた。フィアは静かに鍋の蓋を開けて、粥を皿に盛りつける。
「…なるほど、粥か」
深く席に腰掛けたサイラスがメニューに気づいて指摘する。
「ご多忙のあまり、お食事も召し上がられていないようでしたので……」
かつて食が細ってサイラスから粥を与えられた側の立場であるフィアがそう答えると、サイラスはふっと笑い、次の瞬間、彼女を軽々と膝に抱き上げてしまった。
「…!」
「ならば、手ずから食べさせてもらおうか」
フィアは驚きのあまり声も上げることが出来ずに、彼の強い腕の中に身を預けるしかなかった。ただ、これまでならすぐに逃れようと身を捩ったかもしれない。でも今は羞恥は感じても抗う気は起きなかった。
どうせ二人きりだということと、サイラスのこうした振る舞いに慣れつつあるということをフィアは自分でも分かっている。
言われるままフィアは匙を手に取り、サイラスの口元へとそっと運んだ。
粥を一口含んだ彼が静かに咀嚼するのを見届けながら、フィアは再び彼の胸に手を置く。厚く鍛えられたその胸板の向こうに、彼の多忙な日々が詰まっているように思えた。
「お疲れではありませんか?」
気遣い問いかけたフィアの問いに、サイラスは小さく鼻を鳴らした。
「普段通りだ」
つまるところ、やはり食事すら取れぬほど忙殺されているということでもある。
その短い返答に、フィアはふっと息を漏らしながら視線を落とした。
「私はずっとここに滞在しているだけで、何もお役に立てていません……少しでも何かできればと思うのですが……」
それを聞いたサイラスは口元を吊り上げ、にやりと笑った。
「そんなに早く、余と結ばれたいか」
予想外の返事に顔を赤らめ、息を呑む。でも確かにこのアーセリオンで妃候補ということになっているフィアが王の役に立つといえば、妃となることと解釈されても無理はない。自分から婚姻をねだったように聞こえた可能性に気づいてフィアは耳まで染めて首を振った。
「そ、そういう意味では……!」
腕の中で慌てふためくフィアの様子を楽しむように、サイラスは肩を揺らしながら続ける。
「冗談だ。だが、いずれ妃となれば必然的に内向きの仕事が山積みになる。それでもいいのか?」
「それは……考えていませんでした。でも、私は——」
フィアは言葉に詰まりながらも、視線を真っ直ぐに彼へと向けた。彼女は少し息を整えた後、まっすぐにサイラスを見つめながら口を開く。
「私は騎士として王女を守る立場にいました。たとえそれしか選択の許されなかった道であっても、自分の力で勝ち取った騎士団長という立場に誇りを持っていますし、それを恥じたことはありません」
サイラスは微かに目を細める。彼がエリンの口から聞いた話を、今ようやくフィア自身の言葉で耳にすることになった。
エリンはそうしたフィアの境遇をずっと憐れんでくれていたが、フィアは確かに王女としての矜持を傷つけられつつも、自らの道に対して迷いは持たずに来たつもりだ。
「エリンがどのように話したのかはわかりませんが、私は、もし許されるのであれば陛下のお側に仕えたいのです」
彼の膝の上に抱かれ、その胸に手を添えてフィアは真摯に訴えた。
「もちろん、陛下は強い武人でいらっしゃるので、私などがお守りすると申し上げるのはおこがましいことです。でも、おそばに控えて陛下が何を見て何を考え、どう動かれるのかを見届けることができたなら——私も、もう少しお役に立つことができるかもしれません」
フィアの言葉を受けて、サイラスはしばし黙って彼女を見つめていた。彼の瞳には何かを思案するような光が宿っていた。
「お前がアーセリオンの王に仕えるとなれば、アルストリアの者たちはどう見る。本当にそれで良いのか?」
その問いにフィアはふっと笑い、吹っ切れたように首を振った。
王家がフィアを手放した以上、もうアルストリアに戻ることはないだろう。フィア自身も戻ることは望まない。
「私の立場など、いまさら気にすることではありません。裏切りと取られるのは本意ではありませんが、妃となる者が王に尽くすのは当然のことです」
いずれ、おそらくはそう遠くない未来にアーセリオンはアルストリアをその手中に納めることになるだろう。併合か従属か、どういった形になるかは分からないが、反発なしには成し得ないことだ。そうなった時にフィアはアルストリア出身の妃としての自分を役立てたいと思っている。
フィアの覚悟を確かめたサイラスは、かつてないほど柔らかく微笑んだ。そして、彼女の細い首筋へと唇を寄せ、低く囁く。
「良かろう、我が妃よ」
暖炉の炎が揺れ、部屋の中に漂う温もりと、月明かりに照らされた静謐な夜が二人の距離をさらに近づけた。
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