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この手を離すことはない

 かつての戦を思い出しているのか僅かにその目を眇め、思い出すようにサイラスは囁く。


「目の前が赤に塞がれるという経験をした。その後も剣を振るうのをやめなかったせいで尾鰭がついて、首が飛んでもその首を担いで戦うという噂になったと聞く」

「我が国では、首を刎ねられても戦い続けたと」

「悪鬼の類と思われたな」


 恐ろしげな噂などどうでもいいと言わんばかりにサイラスは鼻で笑い飛ばす。その彼の傷に指を添えてフィアはもう一つ告白する。


「私は、アルストリアでは女にあるまじき長身と言われますが、御身は遥かに勝ります。その威容を恐れる者も多いでしょう」

「女にあるまじき? お前の丈でか? アルストリアの女とは、よほど小柄な者が多いとみえる」

「初めて見下された折、かつてない経験に内心震え上がりました」


 その存在感に圧倒され、その眼差しに気圧された。今、その目が穏やかに自分を見つめていることが嘘のようだった。

 フィアの告白を聞いてサイラスは首をひねった。


「とても怯えたようには見えなかったがな。よほど胆力のある女だと思っていた」

「アーセリオンの王は人を喰うとも聞いていましたので……」

「まあ――戦の上では悪評はむしろ好都合だ。それに、これから実際、人を喰らってやろうというところだから、あながち間違いでもあるまい」


 そう喋りながらサイラスはフィアを横抱きに立ち上がり、簡素な天幕の寝台へと運んでいく。

 その最中から喰うと宣言した通り、フィアの耳元へ、首筋へ、そして胸元へと繰り返しの口づけで濡れた彼の唇が触れてまわり、あるいは甘噛みし、そこここに赤い痕を刻んでいく。喰うというには控えめな愛咬ではあったが、寝台の上に降ろされたときにはフィアの肌のあちこちに小さな花弁が舞うようだった。

 いつの間にかきつく結ばれていたはずのドレスの紐が緩められ、大きな手に愛撫されるうち着崩れて肌が一層露わになってゆく。塔で骨身に沁みるようだった冬の寒さを男の体温が打ち消して、息が乱れ、肌が湿る。

 漏れ出そうになる震える吐息を殺しながら小さく悶えるフィアの上に覆いかぶさって、その体に影を落としたサイラスが低い声で囁いた。


「神に誓ってお前を妻に娶ろう。我が妻は、馬に乗り剣を取る騎士。この上なく余に相応しかろう」


 フィアが、フィアであることをもって妻にと彼は望む。左胸のたわわな丸みの上に誓いとともに彼の唇が降ってきた。鼓動する心臓に約束された誓いが赤く刻まれる。フィアがひそやかに息を飲むと彼は笑ってこう言った。


「誓約の神にはまだ当分、よそ見をしていてもらわなければな」


 † † †


 翌朝、フィアが目を覚ますとそこは天幕の寝台の上、そしてサイラスの腕の中だった。泥のように深い眠りに落ちる前もそんなふうに抱かれていたから、それからずっと彼の腕を枕にして寝ていたらしい。

 すでに天幕を透かして冬の朝日の淡い光が感じられた。

 凍えるほどの夜も寝台を暖かく保つ毛皮の下はいまだ裸体のままと気づいて、フィアはうっすらと頬を染める。一晩中、愛された体はどこもかしこも、いまだ甘く絡みつくような気だるさに苛まれていた。

 広がった赤い髪を弄んでいたサイラスが目覚めに気づいて半身を起こし、悪戯にフィアの首筋に顔を埋める。彼は昨晩自分が刻んだいくつもの痕跡を、もう一度愛おしむように唇を滑らせた。


「まだ早い」


 もっと寝ていても構わなかったという囁きに鼓膜を震わされたが、フィアは施される愛撫にささやかな抵抗を示して彼の厚い胸を押し返した。


「ご多忙の陛下が、アルストリアまで遠征し、ゆるりと過ごすことなど許されないことではないのですか」

「……また色気のない話題か」


 呆れたように言いつつもサイラスは悪戯をやめて「我が国の馬は疾いからな」と喉を鳴らした。

 最初の行程のお陰でそのことは十分に理解しているフィアだったが、それでもアーセリオンからアルストリアまでの往復にある程度の日数がかかるのは間違いない。その間というものサイラスが城を留守にしていることで、アーセリオン国内でなにか問題が起きはすまいかと案じたのだった。

 サイラスは、このまま馬で国境まで行けば、そこから先は迎えの馬車を待たせていると説明した。アーセリオン国内は馬車と聞き、フィアは毛皮で裸身を隠しつつ体を起こすとサイラスに申し出る。


「陛下、お願いが」

「なんだ」

「私にも馬をお与えください。そうすれば国境までと言わず、城まで速く戻れます」

「ふむ、早駆けに出れば近衛騎士のハーヴェイを置き去りにする腕だそうだな。それなら確かに馬で同行させたほうが良いか」

「それから可能であれば乗馬に適った服を」


 それを聞いてサイラスが僅かに目を細めた。要求が続き、図々しかっただろうかとフィアは懸念したが、それはすぐ余計な心配だったと分かった。サイラスがフィアの腕を掴み、くっと喉奥で笑ったからだ。


「できることなら乗馬服でなく、ロウが目を奪われたという我が旗の如き赤と黒のドレスとやらを着せて華々しく連れ帰りたかったが」

「お戯れを…!」

「まあ良かろう」


 溜息と共にサイラスはフィアを再びあたたかな寝具の中へと引きずり込む。そして低く囁いた。


「我が花嫁に、服はまだ渡さぬ」


 かつてないほどに愛を注がれ白い肌を朱に染め上げて、フィアは逞しい未来の夫の首に腕を絡めて甘く瞳を閉じた。


 † † †


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