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ほどかれる夜

「正直なところ、王女が泣き濡れて怯えながらやってくる姿を予想していた。一方的に攻め込まれた国からたった一人でやってくる王女だ。襲撃者である我が国に対して恐怖して当たり前、平然としていられるはずがないと考えていたからな」

「……それは」


 確かに、もしアーセリオンにやられたのがマリエンナであったなら、毎日泣き暮らしていたかもしれない。急ぐ旅路にもきっと耐えられなかっただろうとフィアも思う。

 だが自分は戦場にこそ立ったことがなくとも、長く騎士として心身を鍛えてきたというだけのことだ。


「だが実際は泣き濡れるどころか、毅然と構えていた。それどころか敵国の騎士にまで旅路の苦労を労う言葉をかける余裕さえ見せたというので、同行した連中は誰も彼もすっかり『アルストリアの王女は我が国の妃に相応しい』と口にする様だった」


 まさかアーセリオンの騎士達の目に、自分の姿がそのように映っていたとは想像もしていなかったフィアは今更知った事実に目を瞠る。

 それに、とサイラスが唇の端を吊り上げた。


「ロウがな」


 その名前にフィアは僅かな反応を示した。彼は彼女にとって常に不愛想で口の悪い男という印象しかなかった。それに彼はフィアに対してあまり好意的ではないだろうと感じていた。


「ロウ近衛騎士長が?」

「ああ、口が悪く皮肉っぽいことで知られる奴でさえ、恐れも怯えも見せず、平然とやってきたお前は人身御供に差し出された王女とも思えぬとぼやいていたぞ。馬車を降り立った姿に真っ先に目を奪われたと」


 これらの言葉にフィアは純粋に驚かされていた。それを嬉しいと、思っても良いのだろうかと逡巡してフィアは唇を噛んだ。自分の経験や身につけてきたものがあるいは僅かながらの誇りが少しでもアルストリアの王女としてあるべき姿に寄与していると、人々に認めて貰えるならば。


「それで俺自身も興味を持った。といっても、多忙ゆえに滅多に顔を合わせる時間も作れない。婚姻の誓約など当分先のこと——と思っていたが、王女の食が細っているという話があっては放ってもおけない。とにかく飯を食わせなければと思った」


 それであの粥の食事に繋がるのかとフィアはやっと腑に落ちて息を吐いた。


「一度腕に抱けば、ただ王宮でぬくぬくと育った体でないことは分かる。鍛えた者特有の体つきというものがあるからな」


 言葉と共に再び動き始めた掌にするりと腿を撫でられてフィアはびくりと身体を揺らす。アルストリアでは歓迎されない長い脚をサイラスは慈しむようにその手でなぞっていく。奥まったほうへ指先が忍ぶのをフィアは膝を擦り合わせて阻もうとするが、彼の手は止まらない。


「第一王女は騎士として修練を積んでいるという話は事前に聞いていたが、それこそ『女の手習い』だろうと侮っていた。それが良い意味で裏切られた。馬もそうだが、謙遜のしすぎだな。それなりどころか相当の遣い手だ」

「……っ、私の国では、女はそのようなことをしないものと決まっているのです。例外が私のいた騎士団でした」

「王族の女を守る騎士団、か。王女がそこに属するのはてっきりそのような倣いなのだろうと思ったが、違いそうだな。あの侍女もひどく嘆いていた」


 サイラスに対してエリンが何を語ったのかは分からないがフィアは微かに首を振った。


「少なくとも私は望んでその立場にありました」

「それは我が国がアルストリアに『選ばせた』のと同じことだ。違うか」


 アーセリオンと関係を深めるためにアルストリアは王女を差し出した。でなければもっと酷い状況になるとわかっていたから、選ばざるを得なかった。

 だがそんなふうに他人によって絞られた選択肢の中からいずれかを選ぶことは、自ら望んだのとは違うだろうとサイラスに看破されてフィアはぎゅ、と手を握りしめる。指摘されたくない、気付かされたくない。自分を辛うじて支えるちっぽけな自尊心が剥ぎ取られてしまいそうで恐ろしい。

 身を屈めたサイラスの唇がフィアの耳元に寄せられる。熱を孕んだ吐息が肌を撫で、フィアの体はびくりと震えた。


「っ……」


 口づけに湿った唇が首筋に触れた。ゆっくりと、丁寧に。まるでそこに刻み込むように唇を押し当てる。その感触にフィアはとっさに目を閉じた。


(あぁ、こんな……)


 肌をなぞる感触が心の奥にさざ波を立てる。サイラスの手は彼女の腰に沿い、じわじわと愛撫が深まっていく。それに戸惑い、フィアは思わず彼の胸元に弱々しく縋るように手を伸ばした。


「どうして」


 首を振って呟いた声はわずかに震えていた。問いなのか、拒絶なのか——自分でも判然としなかった。ただ、抑えきれない何かが胸の奥から込み上げてくる。

 己の胸を掴んだフィアの指先に目を落とし、サイラスは動きを止めて孤独な王女の瞳を覗き込む。彼にとっては子猫が爪を立てるほどの感触であっただろうにその仕草は存外に繊細だった。


「何が知りたい?」


 思わぬ優しさを含んだ声だった。あまりに自然で、彼らしくないとすら思えた。

 聞きたいことは山ほどある。フィアは彼の本心も、目的も、何も分からないままここにいるからだ。


「どうして……アルストリアを守ると……?」


 その問いにサイラスは微笑んで、以前見せたのと同じように懐かしむ仕草で微かに目を細めた。


「グラナ丘陵の風景だ」


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