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失うには惜しいもの

「そうですよ。前回はフィア様を散々お待たせしておいて、今度は急に呼び出すなんて!」


 先日の様子をフィアが説明してやっていたこともありミラも憤慨した様子で声を上げるが、フィアは二人を見つめながら平坦な口調で言った。


「ここはアーセリオン。そして私は人身御供として捧げられた王女にすぎない。どんな扱いを受けても文句は言えない」


 命があるだけ感謝しなければならない、とまでは言わないがそれくらいの状況であることをフィアは理解している。

 短い言葉に込められた静かな諦念に、エリンはさらに眉をひそめた。口惜しげな様子からは納得出来ていないことは明らかだったが、彼女はフィアに仕えて長いだけあって冷遇される者の立場の不安定さには理解が深い。アーセリオンに対して抗議できないフィアの立場をよく分かっている。


「仕方ない」


 フィアは静かに溜息をつきながら首を振る。


「とにかく、急いで支度して行かなければ」


 与えられた猶予が限られていたため、正式なドレスに着替える余裕はなかった。

 エリンが素早く髪を結い上げ、美しい形に編んで化粧を整える。ミラが「これで華やかになります」と言いながら銀の髪飾りをフィアの赤い髪に挿した。

 部屋の外で待っていたロウの先導で向かった晩餐ではサイラスがすでに席についていた。彼はテーブルの端に座り、すぐ脇の席には貴族らしい装いの男性がいる。二人は何かを話し込んでいるようだった。

 前回と同じサイラスの向かいの端にカトラリーの用意があり、それはフィアの為の席であるらしい。


(別の客が同席するとは聞かされていない…)


 フィアは一瞬戸惑ったが、彼女が現れたことに気付いたサイラスは隣の男性に軽く片手を振り、あっさりと彼を退室させた。男性は一礼し、何も言わずに去っていく。

 フィアは席につく前に足を止め、一応尋ねてみた。


「よろしかったのですか?」


 サイラスは一瞥をくれると、あくまで無頓着な様子で「少し用があっただけだ」と答えた。

 その短い返答にフィアはそれ以上追及するべきではないと判断し、丁寧に頭を下げた。


「それでは席に着かせていただきます」


 過去二度の同席で多少は慣れてきたので今日は緊張で喉を通らないというほどではなく、フィアも今日は多少食が進んだ。

 サイラスが黙々と皿を空けていくので、フィアもそれに倣って慎ましく手を動かしている。会話はなく、テーブルを囲む音といえば食器の軽い触れ合いの音ばかりだ。

 だが、フィアの胸には、先日の昼食で語られた「アルストリアを守る」というサイラスの言葉が引っかかっていた。アーセリオンの王がなぜそんなことを言うのか。理由を知りたいという思いが、どうしても口を開かせた。


「……陛下」


 フィアが静かに話を切り出すと、サイラスはワイングラスを持ち上げたまま、手を止めて視線を彼女に向けた。


「先日のお話ですが、なぜアルストリアを守ることもできる、などと仰ったのですか?」


 問いを受け、サイラスはグラスをテーブルに置き、淡々とした口調で答えた。


「その価値があるからだ」


 その一言では具体性に欠けると感じたフィアが次の言葉を待っていると、彼は続けた。


「南方、グラナ丘陵からの眺めを見たことはあるか?」


 自国の思いがけない地名が出てきてフィアは驚きに目を見開いた。


「いえ、自分の目で眺めたことはありません」

「あれを戦火に失うには惜しい」


 まるで手中の宝石を慈しむようにサイラスは言った。しかしフィアの胸には疑問が浮かぶ。


(どうしてアーセリオンの王がアルストリアのそんな辺鄙な場所のことを知っている……?)


 アルストリア国内でいえば、その景色は有名でよく絵画にも描かれ、王宮内にも飾られていたので絵の中の風景としてならばフィアも目にしたことがあった。

 でも、今の言い方からは本物の景色を知っている者特有の感慨を感じる。

 といってフィアの知る限り、過去にこの男がアルストリアを公式に訪問したことはないし、戦時に国境際を通過していったことはあるものの、それとも場所が合わない。


「この話はいずれ」


 フィアがなにか口にするより先にサイラスが素っ気なく話題を終わらせてしまった。彼の口調にはそれ以上の深追いを許さない潔さがあり、どうしようもない。フィアが口を閉ざすと逆に彼が問いかけてきた。


「そのように惜しいと思うものはないのか?」


 不意の問い返しにフィアは押し黙った。自分にとって大事なもの……。視線を落として言葉を探そうとするが、何も浮かんでこない。

 民の笑顔も、朗らかな笑い声も、かつてフィアに向けられたことはなかった。城から見渡せる美しい景色も、それはあくまで父王のものであり、自分が手に入れることも守ることもできるものではなかった。

 ふと心に浮かんだのは、自分のすぐ傍にいる人々のことだった。

 優しく気遣ってくれるエリンと、明るく場を和ませてくれるミラ。その二人の存在が自分の心の中に光を灯してくれる。


「大事なものは……今もわたしの傍らにあります」


 そう答えるフィアの口元には、自然と微笑が浮かんでいた。

 サイラスはその笑顔をじっと見つめ、何かを考えるように目を細めた。そんな彼の視線に気づいたフィアはもう一つ、惜しむべきものを思い出した。


「……愛馬を置いてきてしまいました」


 ぽつりと漏らしたその言葉は、フィア自身思いがけないほど寂しげな響きを帯びていた。


「ほう、愛玩用か? それとも乗るのか」


 珍しく興味を惹かれたようにサイラスが首を傾げて問う。フィアはそれに少し笑みを浮かべて答えた。


「これでも、それなりの乗り手なのです」

「ほう」

「それに武芸も少し。女の手習いに過ぎませんが」


 目の前の圧倒的に己を上回る力ある武人を前に、自身のちっぽけな力を誇れる無邪気さは持たないフィアは控えめに告げる。


「少し、か」


 表情をほとんど変えなかったサイラスが、口元をわずかに弛めて笑みを浮かべた。その笑顔にはどこか含みのあるものが見え隠れしていた。

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