象と蟻
扉を開けた瞬間に、広々とした空間には厳粛な気配が満ち、その空気が重くのしかかってくる。高い窓から差し込むまばゆい光。天井から吊り下がる無数のカットガラスで彩られた繊細にして豪奢なシャンデリア。壁には見事なタペストリーが並ぶ。そのどれもがアーセリオンの歴史や威厳を示す場面を描いているようだ。
中央には長大なテーブルが一つ。その両脇に整然と並ぶ椅子も装飾的な見事なものだった。端と端のそれぞれ一席だけが用意され、白いクロスの上に美しく輝く銀器が配置されていた。
アーセリオン王の姿はまだない。
(やはり二人きりか…)
フィアは一瞬、戸惑いを覚えたが、それを表情に出さぬように努めた。
案内されるままに用意された席に腰を下ろすと、控えの従者が静かに退く。
テーブルの両端は果てしなく遠い。
壁にかかる装飾に目をやりながらも、王の訪れを聞き逃すまいと意識する。
広大な空間の中で、彼女はまるでこの部屋そのものに試されているかのような圧迫感を感じていた。もともとフィアは自国の外交的な場に同席を許されたことがない。父王は外国からの来訪者に対して自慢げにマリエンナを披露する一方で、フィアの存在は伏せて明かさなかった。
そうした際の妹についての紹介の口上は『アルストリアの王女マリエンナ』。第二王女だとは決して説明しない。
そんな扱いに兄エメリックは何度となく抗議してくれたが、結局ほとんど効果はなく、フィアがメインホールのテーブルにつくことが出来るのは国内の重臣を集めた場くらいのものだった。
テーブルの上にはワイングラスが置かれており、給仕がそこに赤ワインを注いでいった。深い赤の液体が光を宿して揺れている。
(まだ来ない……)
招いた王が現れないまま、時間だけが過ぎていく。沈黙を破る音といえば、外で風が窓枠を揺らす微かな音や、控えの従者が漏らすわずかな咳払いの音くらいだった。
フィアはじっと視線をグラスに向けたが手を伸ばそうとはしなかった。まだこの城の主が現れない以上、礼を欠くべきではない。それでも、長く続くこの待ち時間に彼女の心には様々な思いが過ぎる。
(意図的に待たされているのか……それとも単に時間に無頓着なだけなのか?)
考えが堂々巡りする。いざ王が現れても冷静さを保たねばならないと自分に言い聞かせながら、軋むような緊張感に耐える。だが彼女は表情一つ変えず、椅子に深く腰を落ち着けたまま耐えた。
やがてかすかな物音が聞こえてフィアは迷うことなく席から立ち上がった。
扉が低く軋む音と共に、余裕のある足音が近づいてくる。重厚な扉の間からゆっくりと入ってきたのは、やはりアーセリオン国王サイラス・ヴァーモントだった。
今日は昨日のような革鎧ではなく上質な略装に身を包んでいる。ただ略装といってもそのたくましい体躯と風貌に合わせると十分に威圧感があった。堂々とした姿は時間に遅れてきたことへの申し訳なさなど微塵も感じさせず、彼はそのままフィアとは反対の席に向かう。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しく……」
フィアはお辞儀をして丁寧に挨拶を述べようとしたが、その挨拶を受け流すように彼は片手を振って用意された席へと座ってしまった。出鼻を挫かれたフィアも仕方なく挨拶を中断して再び席へ腰を下ろす。
王が現れたのを合図に給仕が入ってきてテーブルに料理が並べられていく。
前菜から始まり、次々に皿が運ばれてくるがフィアはどれも一口か二口ほど口に運んだだけで手を止めていた。緊張で何を口にしても味がしないような感覚だ。
一方のサイラスは黙々と食べては皿を空にしている。彼の無駄のない所作は洗練されているが貴族的というよりはやはり武人の様相が強い。
しかも料理が数皿を数えても、サイラスは一言も発しないままだった。こちらからなにか話を切り出すべきなのかフィアが迷っていると、おもむろにサイラスが口を開いた。
「貴国の現状をどう捉えている?」
その低く響いた問いに肉料理の皿の上のフィアの手が止まる。彼女はフォークを皿にそっと置き、心を静めるように一瞬目を閉じた。
(……どう答えるべきか)
彼の視線が鋭く自分を貫いているのを感じる。フィアは意を決して口を開いた。
「我がアルストリア王国は、貴国とグランヴィスカ帝国という二つの強国に挟まれた地に位置しています。これまで中立を保ち独立を守ってきましたが……両国の意向次第で如何様にもなりうることは想像しておりました」
父王がどう考えていたのかは知らないが、少なくともフィア自身はそう思っていた。任地に赴く前の兄と話した時に、エメリックも同じように考え、せめてもグランヴィスカへの対抗力となれるように王太子自らが軍の先頭に立つ姿を見せるために行くのだ、と語っていた。
外交的な努力を自国がどの程度なしえていたのかフィアにはわからない。アーセリオンが少数精鋭で王城制圧に出たことを思えば外交は失敗だったと評価するほかないのだろう。
フィアはその眼差しをサイラスに向けて、更に続けた。
「今回、貴国が先んじて一手を打たれたということ……そう理解しております」
サイラスは短い沈黙を挟んだ後、わずかに口角を上げた。
「賢明な見解だ」
その先に続いた言葉がフィアに重い現実を突きつけてくる。
「いかにも、貴国は我が国とグランヴィスカという巨象の如き大国に挟まれた蟻だ。もし二頭の象が本格的に争うことになれば、アルストリアは戦場となろう。両国の軍勢に踏み潰され、戦火に巻き込まれるのは必定だ」
象の足下で蹂躙される蟻のような運命——その比喩はフィアの胸を抉った。
騎士であるからこそ、たった六十騎で王城制圧を成し遂げたアーセリオンの強さがよく分かる。アルストリアは無力だ。相手がグランヴィスカでも同様に抵抗できずにすり潰されることになるだろう。
自国を想うフィアの瞳が暗く沈み、視線は力なく皿の上に落ちる。




