眠る狼
やわらかく溶けた粥の優しい味わいがじんわりと口に広がる。あたたかいものが染み入るようではあったが、羞恥に心が掻き乱されて、味を感じ取る余裕がない。
サイラスはフィアが一口食べると、また一匙を口元に運んできた。
これもまた、拒否する選択肢はどこにもない。
完全にサイラスの支配下にある自分が情けなく、フィアは羞恥を紛らわすようにぎゅっと目を瞑って、微かに震える唇でふたたび粥を飲み込んだ。
同じことを幾度となく繰り返し、粥を一椀分食べさせたことで満足したのか、サイラスはやっとフィアを膝から下ろしてその肩に自身の外套を着せかけると、自分は焚き火のそばにその体躯を横たえ、まるで森を支配する獣のようにゆったりと横になった。
長い脚を伸ばし、片腕を枕代わりに頭の後ろへと回しながら口を開く。
「水が飲みたければ、そこの清水はそのまま飲める。あの滝に差す光が消えたら起こせ」
言うなり、彼は目を閉じて動かなくなった。その姿はまるで無防備なように見えるが、あの威圧的な佇まいを知ってしまったフィアには油断などとは思えなかった。
フィアは長い外套を胸元に引き寄せるようにして、焚き火のそばを離れた。そっと川辺に歩み寄ると、透明な清水が小さな滝から勢いよく流れ落ちてくる様子が目に入る。水源に近いのか、光を反射する水はどこまでも澄んでいた。
粥を盛っていた木の椀で清水をすくう。唇に触れた水は冷たく喉を滑り降りていく。
「おいしい……」
静かに呟いて、もう一口すくう。冷たい水が喉を通るたび、心が少しだけ落ち着く気がした。
そのまま火から上げた鍋と椀を丁寧に洗ったフィアは再び焚き火のそばへ戻る。
横になったサイラスの横顔は、寝息すら聞こえそうなほどに穏やかだったが、その体躯から放たれる威圧感は変わらなかった。傍らに膝を抱えて座り込んだフィアの胸には、父王の言葉が鮮明に甦る。
『行って、アーセリオン国王の寝首を掻いてくるがよい』
父王は簡単に言った。だが、この相手の寝首を掻くというのがどれほど無謀なことか、それを思うといっそ笑ってしまいそうになる。目の前の男は、どこからどう見ても生粋の『武人』だ。筋骨たくましい体つき、その体躯にあわせて誂えたのであろう上等の革鎧、腰に下げた長剣――いずれもこの男が戦いに慣れた人間であることを示している。
(もし、この剣を奪えた——?)
ちらりと彼の腰の剣へと目をやる。だがフィアはすぐに自分でその考えを否定する。
きっと剣に手を伸ばしただけでも、この男は即座に跳ね起きるだろう。
(では、私の髪に挿しているかんざしなら?)
そっと髪を掻き上げるふりをして指先でかんざしを確かめる。細く鋭いそれは、人を傷つけるには十分かもしれない。しかし、彼の厚い胸板を前にして、かんざしごときでどこまで届くだろう。胸を狙っても心臓までは届くまい——いや、ならば喉を突けば? 目を潰せば?
色々と考えを巡らせるが、どれも実現する姿が頭に浮かばない。仮にどこかを攻撃しようとしたとしても、この男はたちまち反撃してくるに違いない。
先ほど馬に引き上げられた時も下ろされた時も、そして膝に抱き込まれた時にだって彼は身につけている体術の片鱗を垣間見せていた。
もし少しぐらい傷つけることが出来たとしても、即座に取り押さえられて次の瞬間にはこちらの命は尽きる。
傍らで眠る男の気配を、すぐそこに感じながらもフィアは何もできなかった。
膝を抱えたまま、ぼんやりと火を眺めて時間が過ぎていく。
風が揺らす木々の音、水のせせらぎ、そして滝の流れ——それらが静かにフィアを包み込む。焚き火の熱が彼女の足元をじんわりと温める一方で、冷えた秋の空気が頬を撫でて耳元にひんやりとした感触を残していく。厚手の外套に包まれているとはいえ、体はどことなく寒々しい。
外套をフィアに寄越してしまって、この男は寒くはないのだろうかとちらりと考える。
やがて滝に差していた陽光が徐々に弱まり、光を弾いていたはずのせせらぎは陰になった。指定された時間が訪れたのだ。
(……起こさなければ)
彼の眠る姿を見つめた。どう声をかけるのが適切なのか分からないまま、フィアは小さく声をかけた。
「陛下。お時間です」
静かに呼びかけるフィアの声は焚き火の爆ぜる音と同じくらいのものだったが、横たわっていたサイラスはまるで最初から眠ってなどいなかったかのように瞼を開き、素早く身を起こした。
一瞬で起き上がったサイラスにフィアは思わずたじろいだものの、すぐに与えられていた外套を彼の肩に掛け直す。
サイラスは無言のまま外套を留め、立ち上がって片手を上げる。それが合図となり、遠くに控えていた従者たちが即座に駆け寄ってきて、焚き火の後始末を始めた。火に土をかけ、薪の残りを炭の痕跡の残らぬように埋める。短時間できれいに片付けるその手際は見事だった。
洗ってあった鍋と椀を見つけた近衛騎士長ロウが、少し意外そうな表情を浮かべる。
フィアは何も言わず、彼らの邪魔をしないように控えていた。
やがて黒馬が引かれてくる。大きく美しいその馬にサイラスはひらりと跨った。そして、再び片手でフィアをすくい上げて横抱きにして馬上へと乗せる。
来た時の繰り返しのようだが、先ほどと違うのはサイラスが外套の内側にフィアを抱き込んだことだった。行きの道では冷たい風が容赦なくフィアの体に吹きつけてきたが、帰り道は外套が風を遮り、サイラスの体温がフィアを凍えさせることなくそばにあった。
(一体どういうつもりなんだ)
なんのためにこの外出があったのか分からない。
フィアの食が細ったからといって、わざわざあんな場所まで行かずとも粥なら厨房に作らせて出すことは出来るだろうに。
口数が少ないどころか、顔色さえ変わらないから何も読み取れない。黒い瞳はフィアを見てはおらず、馬の行く先を見据えているだけだ。
一行が城に戻ると、正面玄関の外で高い身分の者たちと思しきその一団が待ち構えていた。
「おお、陛下。お戻りでございますか」
サイラスはフィアを馬から下ろすと、馬を従者に引き渡してすぐに彼らと言葉を交わし始めた。話し込む様子からして重要な案件であるらしい。フィアはその場に残された形となり、玄関でしばらく立ち尽くした。
(結局、今日の出来事は何だったのだろう)
フィアは内心で溜息をつく。彼女にはサイラスの意図がまったく測れなかった。
すると、いつの間にか近くに立っていたロウが声をかけてきた。
「我が国の食事はお口に合いませんか?」
その眉間には深い皺が刻まれ、表情に抑えきれない不満げな色を滲ませている。
「いいえ」
フィアは即座に否定する。だが、ロウはその答えを受け流すかのように続けた。
「ほとんどお召し上がりになっておられないとか?」
「いいえ」
少し眉をひそめながらも、フィアはもう一度否定する。
このロウという男は、やはり自分に対して少なからず敵意を持っている。もちろん、打ち負かした国から来た人身御供なのだから好意的に思われないのは当然のこと。フィアとしてはアルストリアの誇りを失わぬよう毅然と振る舞うしかない。
「いただいております。今日も陛下が手ずから食べさせて下さいましたので」
その言葉を聞いたロウの表情が硬くなる。
「差し餌されねばお召し上がりになれないわけでもありますまい」
不機嫌そうに吐き捨てるようなその言いように、フィアの胸にはわずかな苛立ちが芽生えた。
(匙で差し餌をされる私は、いかにも籠の鳥だな……)
ロウの言葉に皮肉を返すように、フィアは冷静な口調で答えた。
「そうですね。陛下のお手を煩わせるわけには参りませんので、霞で生きていけるよう精進いたします」
一礼してロウの前をすり抜け、フィアはそのまま自分の部屋へ引き上げた。
† † †




