望まぬ再会は突然に
聴取が終わって数日、エラの体の調子はほとんど元に戻った。充血していた白目も元の澄んだ色を取り戻したし、首に残っていた跡は見えなくなった。ただし皮膚に食い込んで傷を残した爪痕だけは首に存在したままだ。一週間もすれば見えなくなると、宮廷医は塗り薬だけ処方して診察を終えたがクラウディウスとシシィはその診断に納得していない。
「何日も経つのにまだ赤みを残したままだなんて、本当に跡もなく消えるのか?他の医師にも見せた方がいいのではないか?」
「殿下、そんなことをしては宮廷医様の威厳に傷が付きます…。どうか、あと一週間は我慢してくださいませんか」
エラに控えめに嗜められたクラウディウスは「分かった」と気持ち小さな声で了承した。部屋の端でクラウディウスの発言に合わせて首を縦にふりふりしていたシシィも肩をすくめて動きを止める。ふたりの様子がなんだか面白くて、エラはフフッと笑った。
「明日からまた授業に参加しようと思うのです」
「無理はしないでくれよ。君の体が第一だ」
「ありがとうございます。この通りもう元気いっぱいですから、大丈夫ですよ」
エラは細腕で力こぶを作ってみせた。実家であるホルト家では廊下の拭き掃除やらシャーロットのドレス運びやらをさせられていたので、貴族令嬢にしては筋肉がある方だ。でもクラウディウスからすればうっすら上腕二頭筋が膨らんでいるくらいにしか見えず、なんてか弱い腕なのだと心配を募らせる結果となってしまった。
それでも、勉強が遅れて不安になる気持ちもクラウディウスは理解している。まだまだ休ませたい気持ちは山々だがグッと自分の気持ちを飲み込んで応援の言葉を口にした。
「頼もしいな。君の頑張りに報いることができるよう、私も政務に励むよ」
「お忙しい中ご訪問くださりありがとうございます。…うれしい、です」
自分にも周りにも遠慮して、色々な気持ちを封じ込めていたエラが気持ちを口にしてくれた。それだけでクラウディウスはたまらない気持ちになる。嬉しくて、愛おしくて、その気持ちのままに抱きしめたかった。
でも、拳をギュッと握り込み自分の行動を制御する。病み上がりのエラに無理をさせたくない気持ちもあるが、エラを怖がらせたくないというのが本音だ。
(エラは、おそらくまだ俺のことが好きではない。)
空気感や視線からクラウディウスはそれを感じ取っていた。
あの日、エラの意思もきちんと確認しないまま強引に婚約したのは自分だ。クラウディウスはエラに惹かれるからこそ自分勝手な婚約を悔いていた。せめてこの先はエラに不快な思いをして欲しくない。だから、手に触れる以上のことはしないと、自身に誓ったのだ。
「また夕食で会おう。今日はゆっくり休むのだぞ」
「はい。また後ほど」
エラの小さな手の甲を覆うように握ってから、クラウディウスは部屋を出る。エラの手の感触を思い出しながらクラウディウスは我慢していたものを放出するかのように息を吐いた。
「手の甲への口付けは…許されるだろうか」
未練の残る手のひらを見つめながら呟くと、存在を消していたジョナスが他人事の無責任なアドバイスをする。「試してみればどうですか」と。クラウディウスはジョナスをジトっと睨む。
「それで少しでも嫌な顔をされてみろ。お前は責任を取ってくれるのか?」
「あいにく、私は貴方様の妃にはなれませんので」
「叩っ斬るぞ」
「お言葉遣いにお気をつけ下さい、殿下」
ジョナスはクラウディウスよりも口が達者である。負けを認めたくないクラウディウスは、王太子の顔に戻ることでジョナスとのやり取りに終止符を打つことにしたのだった。
*※*※*※*※
久しぶりの授業になってしまったというのに、アデライト夫人は怒ることも不機嫌になることもなくひたすらにエラのことを心配してくれた。エラは強張っていた体がフッと解けるのを感じる。
その昔、家庭教師に少し授業に遅れたからと人格否定の言葉を混ぜながら小一時間もお説教されたのが夢だったのかもと思う。今思うとあの家庭教師は、家族の中で地位の低い子どもだったエラをターゲットにして憂さ晴らしをしていたのだろう。
舞踏会の日以降、王宮で否応なしに様々な人の視線にエラは晒されている。使用人からの視線だけでなく、廊下ですれ違っただけなのに擦り寄ろうとしてくる貴族もいるのだ。そういう汚さに触れて過去の自分が受けていた扱いは不当なものだったのだと改めて気が付く事もある。
人の優しさも、醜悪さも知れて良かったとエラは思う。王宮で出会う全ての感情と出来事がエラの教科書だった。
「エラ様、お疲れ様でございました」
「ありがとう。よろしくね」
授業が終わり、シシィに教科書等を預ける。部屋に戻るために廊下を歩いていると、何やら曲がり角の向こうが騒々しい。主人の身を案じたシシィがエラを庇うように前に出た。
近付いてきた騒がしさの原因は、ビル・ホルトとその妻ベロニカだった。どうやらビルとベロニカは騎士たちの制止を聞かずに王宮内を歩き回っていたらしい。
久しぶりに両親の姿を見たエラの心臓は、嫌に軋んだ。エラが背を向けることも目を逸らすこともできずに固まっていると、ビルの目が彼女たちを捉える。ビルは妖精のイタズラが解けた娘の姿を見るのは初めてだったが、自分譲りの髪色とベロニカに似たペリドットの瞳、そして噂に違わぬ美しさを見て瞬時に『あれがエラではないか』と勘付いた。自分の利になる事への嗅覚は流石だとしか言いようがない。
騎士への迷惑になる行動を平然と行う二人に対してエラは『恥ずかしい』と感じたが、その感情を脳が理解する前に二人は娘に詰め寄る。エラを隠すように前に立っていたシシィをビルがグイッと押しやったせいで彼女は床に倒れてしまった。すぐに立ち上がれない様を見ると、足を痛めたのかも知れない。エラはシシィが心配ではあったが、体がすくんで動けない。
「おお、エラではないか!?我が愛しの娘よ!!探したんだぞ!」
「おと…さま…」
「私の若い頃に似ているじゃない。なんて可愛らしいのかしら。王太子殿下が求婚してくださったのも納得だわ!」
「おかあさ、ま」
つい先日までエラを嘲笑い蔑んでいた口から出てくるのは褒め言葉ばかりだ。彼らの笑顔があまりにも自然で、エラは戸惑った。演技でもなんでもなく本心からの言葉だとしたらそちらの方が何倍も恐ろしい。
(私にした事を…忘れているの…?)
馴れ馴れしく手を取ってくる両親にエラは戸惑いを隠せない。暗い表情のままのエラを見てビルはさらに言葉を紡ぐ。なんとかエラの気持ちを自身に向かせようと、必死だ。
「全く…。急に帰って来なくなるなんて心配したんだぞ?いつまでも王宮にいるなんてお前も気が休まらないだろう?そろそろ家に帰ってきなさい。家から王宮まで通えばいい。馬車も出してやるから」
「あら!それはいいわね。親子水入らずで食事もできるわよ」
「お前の部屋も新調したんだ。今日にでも帰ってくるといい。な?そうしようじゃないか」
ビルは見違えた娘の肩に手を回し、ガシリと掴む。母親のベロニカからはキツい香水のにおいがし、その両方に不快感が湧いた。無遠慮で自分勝手な二人にエラは何も答えなかった。様々な感情をグッと飲み込みながら、なんとか言葉を搾り出す。
「お父様たちはどうして王宮にいらっしゃるのですか?」
「…ああ可愛いエラ!!お前のその首、シャーロットにやられたんだろう?我々もシャーロットのせいで呼び出されて釘を刺されたのだよ。困った娘だ。散々金を使ったくせに家門を貶めるなんて信じられない金食い虫だよ。あんなのが娘だとはもう思えんな。なあ?」
「そうよねぇ。エラの方がよっぽど親孝行よね。あの子は領地にでも送ってエラの目に入らないようにするわ。
…ね、エラ。今までごめんなさいね?これからは仲良くしましょう。私たちの可愛い子」
エラは目の前の光景が信じられなかった。散々可愛がって甘やかしてきたシャーロットを、もういらないものとして扱う二人。信じたくなくて、理解したくなくて、吐き気がした。
(私が欲しがっていた”愛”なんて、この人たちのどこにも存在しなかったのだわ)
私に優しさを、愛をくれるのは両親ではない。家族に愛されたいと泣いている幼い自分を、エラは心の中で抱きしめる。
閉じた瞼の裏に浮かんでくるのはホルト侯爵家の使用人たち、シシィを始めとする侍女や家庭教師、アンナそして、クラウディウスだった。
エラは二人の手をそっと振り払うと、すぐさまシシィに手を伸ばした。エラの手を借りてシシィはなんとか立ち上がる。父親のせいで怪我をさせてしまったと申し訳なくなったが、償いは後だ。
「お二人とも、騎士の方々が困っていらっしゃいますよ。今日のところはお帰りになって下さいませ」
「せっかく来たんだぞ。お茶にでも招待してくれないか」
「是非そうしたいところなのですが、あいにく本日の授業が終わっておりません。お父様たちを早く皆様に紹介したいのでもうひと頑張りして参ります。一刻も早く王太子妃教育を終えて社交界に出たいのです」
「…仕方がないな。さっさと勉強なんぞ終えて連絡してくるんだぞ」
エラは王太子妃教育の成果をここぞとばかりに披露した。優しく理想的な娘の顔で微笑むと、両親はあっさりと引き下がってくれた。エラの思惑通りに『社交界で二人を紹介する』と好意的に解釈してくれたらしい。エラの手綱を握っているのは自分たちだと安心したホルト侯爵夫妻は、ようやく騎士の案内にしたがって下城してくれた。
「お父様がごめんなさい。足は大丈夫?」
「私の方こそ申し訳ございません。何ともありません」
「足を引きずっているじゃない。…あなた、手を貸してくださるかしら?」
近くにいた騎士にシシィを医務室に連れて行ってもらうことにした。シシィの代わりの侍女を伴って自室に戻る道中、震える手を誰にも気付かれないようにギュッと握りしめた。
姉の訃報を聞いたのは翌朝のことだった。
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