79 アリの巣
私は、とある事情から独り身を貫いているしがない昆虫博士の岩清水。
専門はアリだ。
私のメールボックスには何時も世界各国からのアリの情報が送られてくる。
日課となっているメールチェックをしていると、とても興味を惹かれる内容のものがあった。
とある場所に巨大なアリの巣があるという。
住所とGPSの位置情報まで添えられていたから、早速調べてみると、二駅先の山の中だった。
これはすぐさま向かわねばならない。
私は、調査セットを担いで現地に向かった。
「ここか……」
場所に間違いが無いことを確認すると、目の前の人がすれ違える程の大きな穴の存在に喉が鳴った。
元はクマ辺りが掘った穴なのだろうか。
何にせよ、随分と深い横穴のようだ。
まだ見ぬ新種のアリなのか、まだ断定は出来ない。
慎重に奥に進んだ。
「な、なんだここは……」
しばらく進んで驚いた。
穴を進んだ先に、一軒の店が在った。
目を疑う光景。しかし、確かに穴の中だというのに電気は通っている。
訳が分からず、とりあえず腰を落ち着かせたいと思い、怪しみはしたが店に入ることにした。
中に入ると客の顔を見えにくくするためか、薄暗かった。
入ってすぐ客席、というようなタイプではないらしい。
奥へ進むと開けた空間に出た。
(普通にバーだな……)
キャバクラのような店か、一人で飲めるような店か。
奥に見えるのはカウンター席。
その向こうに見えるのはこの店の店長だろうか?
どうしたものかと迷っていると、カウンターの向こうに見えていた人物がやって来た。
「いらっしゃいませ。この場所は初めてですか?」
「ええ、はい。ここはお酒を飲む店、で間違いないですか?」
「ここは飲酒も出来る店となっています」
どうやらジュースなども置いているらしい。
喉は乾いていたが、調査中に酒を飲むのは抵抗があったからとても助かる。
「とりあえず水で」
「水、ですか?」
店員が驚いたような反応。酒を飲む場でいきなり水というのは失礼だったか……。
言い訳がましいが、こちらの事情を分かってもらおう。
と、口を開きかけた時だ。
「酒場でいきなり水。そういうのも有りです」
店員の反応がとても好意的な反応だった。
出てきた水を飲みつつ、店内の状況を探る。
「しゃぶしゃぶにレモン塩が良いんだよ。ジャブジャブで良いんだよ。ジャブジャブが良いんだよ」
何処かの席の話し声が聞こえてきた。
女性と一緒なのだろう。相手の反応も聞こえてきた。
「それも有りね。私、しゃぶしゃぶには甘納豆で食べてたけど、それ今度やってみるわ」
内容を聞けばそれはどうなんだ? という味覚の話だった。
おかしな会話に首を傾げていると、店員が言った。
「ここは何でも受け入れられる場所なんですよ」
私は、そんなバカなと疑った。
人には必ず拒否してしまうものがある。
ここに来る客は、そんなものを受け入れるという。
私が未だ信じないとみると、店員が突然大きな声を出した。
「私は、牛乳に砂糖とからしを入れて飲むのが大好きです。和がらしならなお最高です‼︎」
まず試す人はいないであろう組み合わせ。
「よっ、味の開拓者‼︎」
「未知を切り開いたあなたは素敵よ‼︎」
と声援が。
時代と場所次第では石を投げられそうな宣言だが、ここの客は好意的だった。
「さあ、溜め込んだ思いをぶちまけてください」
店員は優しく背中を押すように言ってくれた。
その優しさに心動かされ、私は立ち上がった。
「わ、私はっ。高級ティッシュに醤油を浸し、イチゴ味の歯磨き粉を包んで食べるのが大好きです‼︎」
言ってしまった。私が独り身を貫いていた理由を。初めて来た店で、顔すらも分からない客に向かって、大声で……。
すると、沈黙が場を支配すると思っていたというのに、方々から拍手が巻き起こる。
「よく打ち明けてくれた」
「私も、焼いたカニの殻にマヨネーズをつけて食べるのが好きなの‼︎」
「俺は、穴が空いた靴下を労いながら食べるぞ‼︎」
外で言えば誰もが顔を顰める内容ばかり。
でもここでは、私を受け入れ、皆が胸筋を開いて話してくれた。
「温かい。ここはなんて温かいんだ……」
気付けば、涙が流れていた。
私はこの日、とんでもなく大きなアリに出会った。
そして、私も巣の住人になった。