60 尻に矢を受けてしまって……
「尻に矢を受けてしまって……」
「うお!?」
(何だこいつは。町を歩いていたら、変な奴に絡まれちまった)
何処かの病院から抜け出してきたような風貌だった。年齢も爺さんと呼べるほどに老けていた。車椅子に乗っているから、足が悪いのだろう。
(ああ、だから尻に矢……。いや、待て。この現代において矢なんて飛んでこないだろ。矢を使う競技中の事故か? 分からない。けれど、関わるのは止めよう)
「そうですか。大変でしたね」
足早に去ろうとする。が、変な奴に腕を掴まれ、動けない。変な奴はゆっくりと立ち上がり、言う。
「尻に矢を受けてしまって……」
(くそ、握力が凄い。それに、こいつが車椅子を使っているのは周囲の目から見ても明らかだ。そのせいで突き飛ばす事も出来ない)
下手な事をしたら、弱者に暴力を振るったとか言われてしまう。人は都合の良い事しか受け入れないから、こっちの言い分なんて聞きゃしないだろう。
「尻に矢を受けてしまって……」
また同じ事を繰り返す。
(本格的にヤバい奴だろ。仕方ない。ここは適当に流して早く逃げよう)
そう決め、相槌を打った。
「そうですか。それはついてなかったですね。それで病院に居たんですか?」
変な奴は頷いた。
「道に迷ったんですかね。どこの病院ですか?」
情報を聞き出し、警察か病院の人間を呼ぼうと考えていた。が、変な奴は首を横に振った。
(どういう事だ?病院が分からないって事か?)
理解出来ずにいると、変な奴は言う。
「尻に矢を受けてしまって……」
「それは分かりましたって。一旦。一旦座りましょう」
車椅子に座るよう促す。
変な奴は、こっちの腕を掴みつつ、座った。まだ腕を放さない。
「そうだ。少し歩いてみますか。どちらから来たか分かりますか?」
後ろから押す振りをして逃げる。そういう作戦だった。
変な奴は、上をジッと見上げていた。
(空? 宇宙人だとでも言いたいのか?)
変な奴は、腕を掴んだまま、また言う。
「尻に矢を受けてしまって……」
(これしか言えないのか。いや、もしかすると何かの隠語なのか?)
仮にそうだとしても、全く分からない。
何時まで経っても腕を離さない変な奴に、いよいよ打つ手が無くなっていると、一人の女性が声をかけてきた。
「もー、探しましたよ。いけない人ですね。プンプン」
(若作り? ぶりっこ? いや、そんな必要が無いくらい若い相手だな)
突然話しかけてきた相手は、変な奴の事を知っているようだった。
「あの、この人とお知合いですか? 良かった。放してくれなくて」
「まあ、そうですよねー。知ってます」
おかしな事を言う女性だ。
「え、ずっと見てたんですか?」
「いえいえ。見てませんが、分かります」
意味が分からない。
「とりあえず、決まっていた事とはいえ、お手間を取らせてしまいました。寸分の狂いも無く今後の予定を行ってください」
おかしな言い回しをする女性だ。
「尻に矢を受けてしまって。尻に矢を受けてしまってっ!!」
変な奴が頻りに繰り返す。
「はいはい。矢を受けてしまいましたねー」
女性は軽く流して、変な奴の手をあっさりと開かせた。
(やっぱり本職は違うという事か。扱いに慣れているんだな)
感心していると、女性は別れの言葉を口にした。
「ではでは~、またお会いしましょう~」
「え、ええ。はい」
正直、また会いたいとは思わなかったが、社交辞令的な感じで返事をした。
女性と変な奴は人ごみの中に消えていった。
「さて、俺も行くか」
変な体験だったと、歩き始めた。
それから五十年後。
「これで、これで未来を変えるんだ……」
あの後、尻に矢を受けてしまう事故に遭ってしまった。おかげで車椅子を使わないと動きづ付ける事は出来ない。
けれど、そんな生活を変えてみせる。
決意を胸に、過去へと飛んだ。
その先で、言葉が制限され、同じ事しか言えなくなるとも知らずに。