53 ないえんの妻
男が一人、公園のベンチで呆けていた。
「おじさん、何してるの?」
声をかけてきたのは女の子。
男は、好奇心の強い子どもだなと思いつつ、女の子を見た。
「いや、余りにも信じられない事を思い出していてね」
「どんな事? ねぇ、どんな事?」
とても面白そうな話だと勘違いし、期待を込めた瞳で女の子は尋ねてきた。
余り人に聞かせるような話では無いのだが、話すような相手がいない男は、年齢などの問題は些細な事だと考えた。
まだ幼い女の子にはかなり早いとは思ったが、話をする事にした。
「人とは無縁の生活をしていたんだ。けれどもある日、、内縁の妻出来たんだ」
「とりあえずおじさん、最低だね」
気持ちいいくらいにバッサリ切り捨てる女の子。
「まあ、話はこれから始まるんだよ」
男は、数か月前の事を思い出していた。
男は所謂引きこもりだった。
買い物はネットスーパーで、誰とも言葉を交わさず、使う言語はキーボード。男が話せばカタカタと打音が聞こえる。それほどに口から音が出る事は無かった。
ある日の朝、男は奇妙な音で目を覚ました。
包丁の小気味いい音が目覚ましだった。
(こんな音、設定したか?)
と男は思った。だが、そもそもそんな音を探した記憶など無い。遂には隣りの部屋の音が自分の部屋で行われていると錯覚するほどに壁が薄くなったのかと焦ったほど。
やはりおかしいと飛び起きると、台所に女が立っていた。
「だ、誰だ!?」
かつての聞き覚えのある声とは全く違う。ガラガラで、酷く引っかかる声。
自身の声を久々に聞いた男は、女と自身の声とで、二重に驚いた。
女は、何も言わずに、コンロに乗せた鍋の中身をお椀によそい、箸と共に男の前に持ってきた。
(み、味噌汁……?)
味噌など勝った覚えの無い男。そもそも、自炊という行為に繋がるような事などヤカンにお湯を沸かす程度の事しかしていない。
男は、覚えの無い食材と調味料で出来た味噌汁の存在に戸惑う。
どう動くべきかと悩んでいると、女は無言でお椀を動かした。
(早く食べろというのか?)
こんな訳の分からない相手の手料理を? と困惑しきりな男。
そこに味噌の匂いが男の鼻を刺激した。
手作りの、食欲をそそる良い匂いだった。
鼻を通り抜け、男の胃が泣き出す。腹が減ったと。
(もう、どうにでもなればいいか)
人生の底も底にいる自分だ。明日の命なんてどうでも良いかと、ネガティブな意識が男の行動を決めた。
男は差し出されたお椀と箸を受け取ると、味噌汁を体内に通した。
「あぁ……」
喉が潤い、声の棘も多少は良くなり、自然と声が漏れた。
手料理何て久しぶりで、男は素直に美味いと感じていた。
それを見た女は、立ち上がると再び台所に立った。
「おい、お前は一体誰なんだ」
訊ねても女は何も言わない。男は、鍵のかけ忘れを疑ったが、昨日は荷物の回収なんてしていない。そもそも、鍵の確認を怠った事は無いから、こじ開けられでもしない限りは侵入などされるはずが無い。
男は不思議がった。
あれこれ考えていると、気付けば台所の音が止んでいた。
女の方を見ると、静かに手を振り、玄関に居た。女は男が自分の姿を見たのを確認すると、玄関から出て行った。
「な、何だったんだ……?」
新手の引きこもり改善押しかけボランティアなのかと考えたが、そんな訳が無いと頭を振った。
残されたのは、女が作った料理。味噌汁と何処から持ってきたのか、野菜炒めがあった。
埃をかぶっていた何年も前の炊飯器の中には、久々の仕事だとばかりに、湯気が立ち上る白米が男を待っていた。
奇妙な女は、それからも男の部屋に何時の間にかやって来ていた。
何の見返りも求めず、何も言わない女。その目的が理解出来ず、気味が悪かったが、料理が美味かったものだから、食べるとどうでも良くなっていた。
それに、女は男の好みでもあった。通い妻のような存在に、男の影も形も無くなっていた自尊心がまた新たに育ち始めていた。
男は、次第に引きこもりを改善させようという風に考えるようになった。
その手始めに、身辺整理を始めた。とは言っても、部屋の掃除をするというだけだが。
部屋を掃除していると、ネームプレートが出てきた。
「これは……」
プレートには、ひらがなでりなと書かれていた。
子どもの頃、飼っていたペットのプレートだった。
当時の事を思い出すと、男は寂しさと失った時の悲しみが押し寄せてきた。
気が沈み、男は横になり、何時の間にか眠っていた。
また台所の方か音が聞こえてきた。
男は、女がまた来たのだと思った。
(そういえば、名前すら知らないんだよな)
目を開け、女の後姿をジッと見る男。その視線に気付いたのか、女は振り返った。
そして、女は男に近づいてきた。
「あんたの名前を聞いた事が無かったな。何て名前なんだ?」
今更ながら、男は女に名前を聞いた。
けれども女は相変わらず何も言わない。ただ、今回は男の手をジッと見つめていた。
その視線を追った男は、自分がネームプレートを握りしめていた事に気付く。
「ああ、これは昔飼っていたペットのものなんだ。名前はりな」
ほら、と男はプレートを女に見せた。
女は、更にまじまじとプレートを見つめる。
「そんなに興味があるならあげるよ。今までのお礼にと言ったら安すぎる物だけどな」
女はそれを聞いてプレートを手に取った。
そして、プレートを男に向けて見せた。男は、プレートにある穴を見て思い出す。
「ん? ああ、首輪に付けていたんだよ。悪いけど、そこに通す紐は持って無いんだ」
女は、露骨にしょんぼりしていた。
男は女の様子が妙だという事に気付いたが、その理由が分からない。長い事引きこもっていた弊害だった。分からないなりに考えた結果、ペットの思い出話が聞きたいのかという結論に至った。
「りなはな、そりゃあ可愛い奴だったんだ。あれは――」
男が思い出話を始めた。すると女は途端に立ち上がった。
「あれ、どうしたんだ?」
男が尋ねても女は反応しない。それどころか、玄関まで行くとスゥーッと消えてしまった。
それを見て、男は心底驚く。今まで玄関の扉を開けて出て行っていたのが、そうせずに消えてしまったのだから。
自分はまだ寝ぼけているのでは? そう疑った。
しかし、男の目はしっかり覚めていた。
そして、これ以降女は男の部屋にやって来なくなった。
「結局何がしたかったのか、何者だったのかも分からない女だったな。残ったのは、美味い飯で蓄えられた脂肪だけだ」
男はそう言って昔話を終わらせた。
「縁が無かったから無い縁の妻だったって事?」
「まあ、そんな感じだな。そもそもどう考えてもあの女との接点が分からないから、そこも無い縁だったという訳だ。子どもにする話じゃなかったね」
と男は笑った。
「そういえば、その女は君と似ている気がするな。もしかして、親戚かもしれないね。ん? それは?」
男は、女の子が見覚えのある形のプレートを持っているのに気付いた。
「そうそう、女が持っていったのもその形のプレートなんだよ」
「へぇ、そうなんだー」
女の子はそう言うと、プレートに書かれている文字を見せた。プレートには、りなと二文字のひらがなが並んでいた。
「凄いな、奇遇だよ。うちのペットが正にこれと同じプレートを持っていたんだ」
男は、偶然だと女の子に言った。
「そうだ、ペットの話に興味はあるかい? あの子はとっても可愛い奴だったんだ」
男がそう言ってペットの話を始めようとすると、女の子は歩き始めた。
「あ、あれ?」
急に素っ気ない態度に男は変だなと思った。
けれども、女の子を追った視線の先で、男は目玉が飛び出そうなほどに驚いた。
なんと、数か月前にぱったり来なくなった女が居たのだ。
(え、子持ちだったのか!?)
男はまさかの家族構成に言葉が出ない。
女の子は、女の所へ行き、何やら会話をしているようだった。
そして、女の子が首を横に振ると、女は頷くような仕草をした。
女は、男の方を一度見ると、残念そうな反応をし、スゥーッと数か月前と同じように女の子と一緒に消えてしまった。