51 名付け親
「ねえ、おじいちゃん」
呼ばれて目を覚ます。どうやら眠っていたらしい。
「おや、何時の間に来ていたんだ?」
私は、孫が何時の間にかやって来て、起こしたのだろうと思った。
「ねえ、お爺ちゃん。お爺ちゃんの足は、どうして片方が無いの?」
歳を取ると、視界が戻るのに時間がかかる。しかし、ぼやけた視界でも孫が私の無くした足をジッと見ている事が分かった。
孫は何にでも興味を年頃。あまり面白くない話だと思うが、一種の学びに繋がればと、私は昔話をすることにした。
あれは田舎道を歩いていた時だった。
当時の私は、徒歩旅を趣味としていた。
時間を作っては、目的地まで歩いたり、目的地を隅々まで歩いて見て回るという事をしていた。私はこの日、時間を忘れて進み過ぎていたのだ。
私があれに出会ったのは、そんな旅の中だった。
田舎は夜になると人の姿なんて無い。空の色が若干変化を始めた頃、私は急いで人の居る場所へ行こうと焦っていた。人の気配が無い場所にたった一人で居たのなら、それは野生動物の餌でしかない。
私はまだ、獣の腹に納まるつもりは無かったのだ。
そうして歩き続けていると、泣き声が聞こえてきた。人の子の声だった。
日も暮れているというのにこれは不味いと思い、声の方に近付く。
見つけたのは、小さな女の子だった。
「君、道に迷ったのかい? こんな所に一人じゃ危ない。送っていこう」
女の子は鳴き続けたままで何も言わない。大人でも気味が悪い状況だ、子供なら尚更だろう。
そう思い、私はこの時点では何も思わなかった。
女の子も、泣きながらも私の服を裾を掴んで付いてくる。
幸いな事に、分かれ道は無い。なので、整備された道を進めば何時かは民家に辿り着く。
私もこの道を通って深入りしてしまったから、そこは間違い無い。
そう、何事も無ければ……。
「君は地元の子なの?」
無言で居るのもなと思うと同時に、女の子の気持ちも軽くなればと考え、声をかけた。
彼女は無言で首を横に振る。
「じゃあ、旅行中にはぐれちゃったんだね。どこに泊まっているか覚えてる? パンフレットとか持って無い?」
安宿の事は調べてあるからある程度頭に入っているけれど、家族層が泊まりそうな宿だとさっぱりだ。
だからと、情報を得ようと女の子に訊ねた。
女の子はまた首を振った。確かに、ポシェットなどの入れ物を持っていないから望み薄だったのは確かだ。
(う~ん。近くに交番ってあっただろうか?)
記憶を探るも、覚えが無い。景色目当てだったから、残っていないのだろう。
それからも、女の子から話してくる事は無かった。
私は、それでも彼女の不安を和らげようと自分の事を話して場を持たせた。
すると、女の子は何処に持っていたのか、ネームプレートを握りしめ、私に見せてきた。
「……りな?」
ひらがなでそう書いていた。
「ああ、君の名前はりな。そうなんだね?」
私がそう確認すると、子供とは思えないとても嫌な笑顔で彼女は私を見ていた。
その笑顔を見た瞬間、寒気がした。魂を抜き取られてしまいそうな、そんな感覚だった。
「名前を付けてくれたね」
それまで泣く以外に声を出さなかった女の子が、初めて声を出す。
可愛らしい、子どもの声がこんなにも恐ろしく聞こえるとは思わなかった。
「付けたんじゃなくて、君が名前を見せてくれたんだろう」
肯定してはいけない。そう思い、否定する。
「りなという名前だって、私を呼んだよね」
「いや、それは……。そうだと思うだろう?」
「だから、思ったんだよね。名前をくれてありがとうね」
何を言っても自分の良いように解釈をする女の子。どうすればこのスパイラルを抜けられるのか、私は考えた。しかし、答えを出すまでの時間はもう無かった。
「お腹、空いちゃった。ちゃんと最後までしゃぶってあげるね」
おかしな事を言い出したと思ったら、女の子は人の大きさを越えて口を開けた。
口内には、サメの歯のように鋭く、突き刺す事に特化させた歯が並んでいた。
逃げようと、私は走り出す。だが、人を越えた速度で女の子が私の足に噛みついた。
悲鳴を上げてもおかしくない状況。しかし、私は叫ぶ事すら出来なかった。
女の子の目が爬虫類の目のようになり、一心不乱に私の足をもぎ取ろうと噛み続けていたから。
「は、離せぇっ」
相手は子供、という認識は当に無くなっていた。大人の私が全力で蹴っても彼女は吹き飛ばす事が出来ず、動じる事も無く、私の足に夢中になっているのだから。
私が感じていたのは、恐怖と骨が砕かれていく嫌な感覚だけ。
何度も心の中で助けを求め続け、彼女を蹴り続けた。
そして、やっと彼女が離れた。蹴り飛ばす事に成功したのだ。私は、立ち上がる事が出来なかった。きっと腰が抜けていたのだろう。
そう思い、必死で腕と足を使ってその場から逃げ出した。
命からがら、助かった私は、後で自分の状況を理解した。そう、片足を持っていかれたのだ。
「こんな事があったんだよ」
話し終えた頃、やっと視界のぼやけが無くなり、私は孫の顔を見た。
血の気が引いた。そこに居たのは、孫ではなかったからだ。
「知ってるよ。ずっと探してたら、熟成されたみたいだから、涎が止まらないよ」
口から滝のような涎を流し、私を見ていた。忘れもしない、あの爬虫類の目だ。
「今度は、ちゃんと最後までしゃぶってあげるね」
そう言うと、ずっと待ち焦がれていたと、あの女の子が大口を開けて私に迫ってきた。