26 彼女
その日、僕はとても夢のような出来事を体験していた。
「あそこのお店ね、パスタが人気なんだよ」
「そうなんだ。楽しみだなぁ」
別の意味でも期待しつつ、僕は会話をしていた。こんなやり取りをしているのは、大学内でも評判の美人。
僕とはたまたま学部が同じだっただけで、今まで何の接点も無かった子。
同じ授業を取っていたから、彼女の方も顔だけは見覚えがあったかもしれない。
だからこうして、お話がてらランチに誘われるという驚きの展開に繋がったに違いない。
美人との食事もそうだけれど、ここから友人に関係が変化するかもしれない。もしかしたら、その先も……。こんな下心もありつつ、夢は果てしなく広がっていた。
「おい、お前!!」
突然背後の方で大きな声が聞こえた。僕は喧嘩かな? と思い、彼女が巻き込まれたら大変だと思った。
「少し、早く歩こう」
触れはしなかったけれど、彼女の背中に手を添える形で促す。
「待て、このやろう」
その声が聞こえた直後、僕は急に後ろに引っ張り倒された。
何が何だか分からずにいる僕。
「お前、俺の彼女と何してんだ」
鬼の形相の男。その声は、先程から聞こえていた大声の主だった。
「俺の彼女?」
僕は男の言葉を理解するのに時間がかかった。
「人の女に手ぇ出しやがって。きっちり金取るからな」
金を取る。それはつまり、慰謝料という事?
突然の事に、頭がどうにも付いて行かない。だからか、自分の状況を未だに理解出来ていなかった。ただ分かっているのは、多額の金を要求されようとしている事だけ。
「ちょっと待って。慰謝料を請求されるような事はしてない」
そうだ、していない。自分の言葉を聞き、頭の中で確証を得る。
「僕は彼女とランチを食べに行く所だったんだ。それが悪い事なのか?」
「悪いだろうよ。人の女と飯食いに行くんだぞ」
先を想像して、下心もあった。けれど、食事だけでこんな目に遭うのは理不尽だ。
そして、そもそもの話だ。
「あなたが彼女と付き合っているという関係なのは分かった。けれど、僕は今、その事実を初めて知った。美人だから、相手が居ても不思議じゃないけれど、僕はそんな話を今まで知らなかったんだ。何せ、今日初めて会話したんだし」
「は? お前、何をごちゃごちゃと……」
僕の話に、男は若干戸惑っていた。そして、彼女の方を向いた。
僕の言葉が真実なのかを確認するように。
「本当よ。今日、初めて声をかけて、食事をしに行く所だったのよ。連絡先だってまだ交換していないわ」
彼女の言葉の後、数回僕と彼女とで視線を往復させる男。
「お前、連絡先を寄こせ。後できっちり連絡するからな」
彼女を信じたいのだろう。けれど、そのためにも話し合いが必要だと考えたのか、僕の事は後回しになった。
数日後、男から連絡が在り、会いたいと呼び出された。酷く腰の低い話し方だった。
静かな喫茶店の端の席で、男は酷くやつれていた。
よほどの事があったのだろう。その話を聞けるのかは分からないけれど、僕は男に声をかけた。
「お呼び立てしてすみません。どうぞ、座ってください」
あの時とは打って変わって低姿勢。勘繰ってしまうくらいの変わりようだった。
「あの、今日はどのようなお話で?」
慰謝料の話をするつもりなのか? それにしては弱り果てているようだ。
「はい。先日の件で、あなたにお詫びをしたいと思いまして」
深々と頭を下げる男。
「お、お詫びと言われても、事情が分かりません。話を聞かせてもらえますか?」
僕がそう求めると、男は話してくれた。
「あの後、彼女と話し合ったんです。そうしたら、俺も含めて七股していた事が分かりました。そして、あなたとは本当に何も無いという事も分かりました。あの場では怒りのあまり、本当に失礼な態度を取りました」
繰り返し、男は頭を下げた。
あれだけの美人だ。異性と一緒に居る所を見てしまったら、気が気じゃないだろう。
そこは男に同情できた。
その後、男は彼女と別れたという。失恋と七股にショックを受け、ああなったようだ。
男と別れ、僕は家までの道を歩く。
(危ない所だった。もしかしたら、僕は八股目の男になっていたかもしれないんだから……)
僕は、オロチが生まれなかった事に安堵しつつも、独り身の寂しさに身を縮めた。