121 ぬるまゆ
とある山奥に秘湯があるという話を聞いた岩清水。
銭湯大好きな彼が噂を頼りにやって来たその場所には、明らかに怪しい一軒の銭湯が在った。
「いらっしゃい」
番頭代に居たのは、老人だった。
「この場所で秘湯に浸かれると聞いたんですけど」
場所を間違っていないかと、老人に確認する岩清水。
「間違い無いよ。でも、本当に入るの?」
厳しい眼差しとは逆に、口調はフレンドリーな老人。
「銭湯好きとしては、是非とも」
岩清水は、所謂自然浴には興味が無かった。スコップ片手に汗水流して浴槽を作ったり、身の危険を感じながら入るつもりが無かったからだ。
しかし、秘湯というものには興味があった。
今回、岩清水が関心を持ったのは、ただ人気が無い場所に佇んでいる温泉屋の中に秘湯がある点だった。
行けば後は流れのままに出来るのが良かった。
「そうかい。じゃあ、どうぞ」
採算が取れているのか分からない安い金額を払い、岩清水は中に入った。
山奥にあり、秘湯と呼ばれるほどのマイナーさに違わず、脱衣場にも浴槽の方にも人の姿は無かった。
入り口の所で、男女でのれんで分けされていた。岩清水が見る事の出来ない女湯の方からは音が聞こえてこない。完全に貸し切り状態だった。
タオル一枚で奥へ進んだ岩清水は、ついに秘湯をその目に拝む。
「白濁してるのか」
ここの秘湯は濁り湯だったのかと、期待に胸を高鳴らせ、身を清めに入る岩清水。
全ての支度が整い、岩清水はいよいよ秘湯に片足を入れた。
(とろみ?)
熱すぎず、冷たすぎない、丁度良い温度でぬるっとした感触。まず思ったのは、餡掛けの餡だった。
一体何の成分でこんな湯になっているのだろうと考えつつ、肩まで浸かる岩清水。
肩まで使ってみると分かった。ゲルに包まれる感覚の良さを。
(これは餡じゃなくて、ゲルだ。全身が包まれて、ウォーターベッドよりも安心感があって、浮揚感があるぞ)
マナー違反だと分かっているが、この湯の中で浮かんでいたい。岩清水は思った。
幸いな事に、今は誰も居ない。人の目も、周囲の迷惑にもならない。
これはやってみるしかないと、岩清水は体を横にした。
沈んでいく体。顔までとろみに包まれたが、不快感も恐怖も無い。
あるのは包まれているという安心感。
ゲルの中に自分が溶けていく心地良さを感じていた。
(これ、生まれ変わるわぁ~)
(どれほどそうしていただろう。途中で意識が途切れた感覚があったのは、眠ってしまったからか。そろそろ起きないと……)
体を動かし、湯から出ようとする岩清水。
湯に浸かっていたはずなのに、パリパリ、ペリペリと湯とはほど遠い音が聞こえてきた。
しかし、その音が体から聞こえる度に解放されていく喜びを感じる。
これは何かと、岩清水が思っていると、番頭の老人が浴槽の扉を開けた。
「お疲れさん」
岩清水は、老人の言葉など聞いていなかった。解放された扉の向こうへと猛烈に向かいたくなり、飛び出していたのだ。
大きく開いた羽を羽ばたかせ、岩清水は銭湯を飛び出し、空へと飛び出した。
その日、岩清水が飛び出した同時刻。
近くに居た人が言う。
「人間みたいな大きさの蝶が飛んでたんだ!!」