120 いつもの
とある居酒屋に男が一人、現れた。
店員は愛想よく声をかけ、男を席に通した。
「こちら、お通しの旬の魚の煮つけです」
小鉢に出されたそれを見つめつつ、男は言った。
「いつもの」
男は地方からやって来たようで、アクセントがおかしかった。
「いつものですか? 少々お待ちください」
店員は、そう言うと裏に戻った。
「店長、いつものだそうです」
料理人兼店長の岩清水に店員が言った。
「本当にあのお客がそう言ったのか?」
岩清水は、店員に尋ねた。
「ええ、確かに。ご贔屓さんなんですよね?」
この店とほぼ同じ年数働いていた店員だったが、私は覚えが無いと、店長に丸投げていた。
それで困ったのは店長だった。
何せ店員に言われ、ちらりと客席の男を見たが、岩清水は思い出せない。
いつものと注文するくらいだから、自分とも面識があるはずなのに……。
「ちょっと、何時もの料理人が出ていて分からないとか言って確認し直してくれないか?」
「ええー、嫌ですよ。そういう確認って、すっごく気まずい空気になるじゃないですか」
「分かる。それ、すっごく分かるよ。でもさ、俺が行ったらお通夜だぞ。被害が尋常じゃないんだぞ」
二人は、その時の場面を想像した。
「店長です。いつものってなんですか?」
「あんなに同じのを頼んでいたのに……。認識一つも共通してくれてない……」
「すみません。顔も覚えが無くて……」
「冷えっ冷えですね。それより、顔も覚えていないは言う必要がありますか?」
「それは君の想像だろ。思いはしたけれど、口には出さないぞ」
「きっと態度で出るんですよ。見えないものを見ようともしていないのに見てしまったんです。私」
「長い付き合いで初めてそんな電波なタイプだって知ったよ。止してくれ。その電波を受信すると体によろしくない」
「私が毒電波を発生させているって言うんですか? 酷い。けど、良いです。今から毒をまき散らしてあげますから」
下卑た非道表情を浮かべ、出て行く店員。
(一体何をするつもりなん……はっ!?)
気付いて追いかける岩清水。しかし、手遅れだった。
「お客さん。うちの店長、あなたの事を覚えていないらしく、いつものが分からないので、教えてもらえますか? 通い続けてもらっているのにすみません。うちの店長が……」
平謝りしつつ、熟年夫婦の妻が自分の夫の事を口外するようなねっとり感で繰り返す店員。
これに対し、男は俯きながら言った。
「緊張で言い方が悪かったです。何時仕入れたものを使ったのかを尋ねたかっただけなんです……」
赤面しつつ、男は言った。
男はその後も何品か頼み、どれも満足して帰っていった。
岩清水と店員の間に気まずい雰囲気を残して……。
因みに、男はこの店に入ったのは初めてだったという。




