116 酔う人々
ここはバー。立ち寄った人々にお酒を提供し、思い思いの一時を過ごして頂く場所。
今宵、カウンター席に、一組の男女が腰を降ろしていた。
「お待たせいたしました。よく分からないマティーニです」
バーテンダーがスッとグラスを男に寄せた。
「ありがとう」
男はそう言うとクイッと飲み干した。
男は酔っていた。何となく覚えていた名前の酒を適当に注文し、出てきた一杯が良い感じなものだったから。まともに覚えていなかったが、センスのある一杯を選べる自分のセンスと、男らしく飲み干した自身に酔っていた。
「よしこちゃんも何か飲む?」
自分に寄り添い、注文をしていない女に、さり気無く注文を促す男。
「私、飲み過ぎちゃったみたい。酔っちゃってぇ」
「そっか。じゃあ、休める所に行った方が良いね」
男は、またしてもさり気無く相手を気遣う自分がナイスガイだと、酔っていた。
一方の女も、酒では無く自分に酔っていた。
(こうやって自分は気遣いが出来るって思い込ませてあげる私、やさし~。無理してお酒が強い風で頑張ってるけど、けっこうギリギリな彼を思いやっている自分、超やっさし~)
そう、女は、酒瓶を八本開けてもまだはっきりと意識を保っていられるほどの酒豪だった。
このバーに来る前に飲んだ酒の量は、大ジョッキにして二杯分。男と同じ酒量だったが、まだまだ素面の域だった。
「それじゃあ、会計頼むよ。これでね」
男は、決め顔でゴールドカードをバーテンダーに差し出した。
自分ではビシッと決まったと思っている男。だがしかし、彼がカードを向けた先には誰も居ない。男は、正面に居るバーテンダーでは無く、酔いで左にズレて見えていた幻影にカードを渡そうとしていた。
(ああ、こっちは店の入り口だもんな。ええっと、支払いってどうやるんだ? カード払いの時って、どうするんだったっけ?)
バーテンダーは動揺している事を隠し、男が向いている側に動き、カードを受け取った。
(なんか分からないけれど、酒は最低八百円って言ってたっけ。ジングルベル? みたいな感じの名前の酒と手直にあったのを混ぜたから、手間賃とジングルベルの三種類で二千四百円くらいで良いか)
バーテンダーは、四苦八苦しながら値段の入力に成功し、それっぽいタイミングで機械にカードを通した。
最大の山場を乗り越えたバーテンダーは、自分の凄さに酔いしれていた。
(俺、けっこういけるんじゃなね。天職っていうの? 来年には俺目当てで行列出来ちゃうんじゃね?)
このような感じで意気揚々と男にカードを返しに行くバーテンダー。
「一杯しか飲まなくてすまなかったね。また来るよ」
男は、千鳥足にならないように気を付け、上半身を左右に揺らしながら女と帰っていった。
男と女が居なくなると、店内に客は誰も居なくなった。
「おいおい、感謝されちまったぜ。バイト初日でワンオペとかどうしようかと思ったけど、適応した俺、超すげー。でも終電過ぎたし、怖いから勝手に閉めちゃお」
三人は、とても満たされた気持ちだった。
三者三様、それぞれ、自分という何よりも酔える酒を飲んだからだ。
その後、三人は二日酔いに悩まされた。
男は深酒。女は男の事後処理に突き合わされた。
そして、バーテンダーはバーから姿を消した。