100 恋のおにぎり
「査察だ。その場から動くんじゃない」
突然入ってきた男に、私は何事かと驚きました。
「査察って、どういうことですか?」
脱税なんてしていないし、怪しい取引をしている覚えはありません。
「俺はこの店のおにぎりを食べるようになってから一か月。一か月になる」
「え、あ、ありがとうございます」
客商売で染みついた習慣は、萎縮して動けなくなるような状況でも体を動かしていました。
おにぎり屋を初めてから何年も経ちますが、こんな状況で通っている報告をされるのは初めてですし、今後も無いでしょう。
「それで、一か月通ったという事でしたが、それは査察と何か関係があるのですか?」
「あるっ。大有りだ!!」
そんなに大声で言われても、私には分かりません。一か月の間に何か特別な事をした覚えなんてありませんし……。
私が原因に辿り着けないでいると、男は言いました。
「ずっとこの味が俺の頭と口に残り続けているんだ。何かおかしな物を入れているに違いない。逮捕だ、逮捕」
査察から逮捕へと表現が代わり、より状況が悪化してしまいました。
「何かの誤解です。私は妙なものなんて入れていません」
「いいや、入れた。こんなにも頭と口に残るというのは只事では無い。きっとこれが恋なんだ」
「はぁ?」
年単位で通ってくださっているお客さんを常連客と見るのは当然でしょう。私は、一か月だって通ってくれたお客さんなら常連客だという風に考えています。
継続的にお店を支えてくださるお客さんなら、他生の融通を利かせるくらいはします。
ですが、彼の妄言には融通を利かせる事は出来ません。こんな勘違いをするお客さんなら、今後のためにバッサリと切り捨てるのも手です。どうするかはもう決まっていました。
「失礼ですが、一か月通ったというお話でしたが、覚えていないんですよね」
言葉通りなら、私は覚えているでしょう。例え忙しい時間帯の常連客だとしても、繰り返しがあったのなら覚えているでしょう。これは数年店を続けているので実証済みです。
「そ、それは……。毎日通っていると思われたら恥ずかしいし……。部下とかにお願いしていたし……」
思春期の過剰な自意識を持ち越しているのかと思いました。
恐らくは私と同年代だと思われる相手。仕事場が近いのであれば、通い続けるのは特におかしなことではないでしょう。
こんな事を言っていたら、スーパーやコンビニを利用できないでしょう。
私は呆れ果てていました。
「あの、警察呼んで良いですか?」
「その必要は無い。俺が警察だ」
手帳を見せてくる男。私は、躊躇う事無く警察を呼びました。
数分後、お巡りさんがやって来てくれました。
「ちょっと、岩清水さん。何やってるんですか」
「同業者を捕まえるこっちの身になってくださいよ」
どうやら本当に警察の人だったらしい。世も末です。
「この人の作ったおにぎりが俺を恋に落としたんだ。実家の母が作ったおにぎりと同じ味なんだ」
お巡りさん二人に両脇を抱えられつつ抵抗する男。
余計に危ない発言。と、他の人が利いたら思うでしょう。
「すみませんが、早く連れて行ってください」
二人のお巡りさんを急かし、男を追い出す私。
静かになった店で、私は額に何時の間にか搔いていた汗を拭った。
(ふぅ。危ない所だった。まさか、岩清水流の血縁者の生き残りが居ただなんて……)
おにぎり十家と呼ばれる、凄腕のおにぎり握りの家系が存在していた。
私はかつて、自身のおにぎりを極めるため、その十家を襲い続けていた過去があります。
所謂道場破り。岩清水という家も十家の一つでした。
命懸けの勝負の末に会得した岩清水の技。
それは、私に一番馴染んだ技法でした。
(大丈夫。あの男はおにぎり十家の存在すら知らないようだったし)
危機を回避した私は、今日も一般人として店を開く。