少女はいつも戦争~現代版『オオカミと七匹の子ヤギ』~
「希美は過保護だよ」
呆れたようにそう告げた夫を見て、思い出したのは小学生の頃の出来事だった。
◇
一人っ子として育った私は留守番をする時、必ず母との合言葉を決めていた。
合言葉、と言ってもそれほど難しいものではない。私が「ポケット」と口にすれば母が、出かける前に決めた単語を返す。その単語は毎回変わり、「ビスケット」、「モンスター」、「猫型ロボット」、最終的には「スリッパ」のようにポケットと何の関係もない単語まで合言葉にされるようになった。
まだ小学生だった私はそれを深く考えず、ただ忍者ごっこやスパイごっこのつもりであくまで母とゲームをしているのだと考えながら行っていた。だが母の方はそうではなかったらしく、私がうっかり忘れて何も言わずにドアを開けたら「きちんと合言葉を言いなさい」とこっぴどく叱られたものだった。たかが合言葉ぐらいで、と理不尽に思い父にそのことを話すと、
「それはママが悪いね。いくらなんでも合言葉ぐらいで大袈裟だよ」
そう苦笑し複雑な表情をする母を窘めていた。しかし母が合言葉の習慣をなくすことなく、成長に伴いだんだんと面倒になってきた私にいつまでも合言葉を強要し続けた。
◇
ある日の留守番中。チャイムを鳴らす音がして、玄関に向かうと「お母さんだよ」という声がした。あぁもう帰ってきたのか、と思うと同時に「ちゃんと合言葉を言わないとまた怒るだろうな」とうんざりしながら私は「ポケット」と口にした。
だが。いつもはすぐに返ってくるはずの合言葉が、今日は返ってこなかった。ちなみにその日の合言葉は「カツ丼」だ。今日の合言葉を決めようと母に言われた時、テレビに映っていたのを適当に口にしたのだ。母は「カツ丼だね」とわざわざ確認して出て行ったので、間違いない。
私の声が聞こえなかったのだろうか? と考えながらやや大きめの声でもう一度「ポケット」と言ったが、やはり何も返ってこない。どうしたんだろうと思っていると、ドアの向こうにいる母——母を名乗る何者かは「ゴートのチョコチップメロンパン買ってきたよ。作りたてのを買って来れたから、冷めないうちに早く開けて」と言い始めた。
「ゴート」というのは当時、地元で人気を博していたショッピングモールのパン屋だった。特にそのメロンパンが絶品と言われていて、カリッとした表面と中のふわふわの生地に入ったチョコチップの味がたまらないと子どもに大人気の商品だった。「昨日ゴートのメロンパンを食べたよ」と言えば周りのクラスメートは口々にそれを羨ましい、とこぼしていたものだ。
だが。私は女子としては珍しく、甘いものにあまり興味が無かった。特にメロンパン、ましてチョコチップが入ったメロンパンとなるとパンなのかお菓子なのかよくわからないその中途半端さがどうにも苦手で、ゴートのチョコチップメロンパンも一度も食べたことがなかったのだ。私がケーキやお菓子をねだらず、歯医者から褒められたこともある母がそれを知らないはずがない。
そう気がついた瞬間、急にドアが揺れ始めた。扉の向こうにいる何者かが、ドアを激しく叩いている。そう気がついた瞬間、私は鳥肌が立って動けなくなった。代わりにドアノブががちゃがちゃと激しく動き、小さく向こう側へと引っ張られるのが見える。
相手は力尽くで入り込もうとしている。ここにきてやっと体を動かせるようになった私は、へたりながらも懸命に玄関から離れた。今この家には私一人しかいない。このままドアが壊されてしまったら逃げることはできない。ドアが大丈夫でも、庭の窓の方に回り込まれたら? ぞっとしながらとにかく手にしたのは電話だった。
当時はまだケータイが普及し始めたばかりだったものの、幸い私の母はケータイを持っていてその電話番号を私に覚えさせていた。震える指でナンバーを押す間にも、ドアを殴りつけるように叩く音が響き続けている。なんとか母の番号を押しおえた私はとにかく「ドアの向こうに誰かいるけど知らない人」ということだけを伝え、助けを求めた。
「とにかくドアから離れて、じっとしていないさい」
緊迫した声で母に告げられ、私は台所に避難する。
それからどれぐらいの時間がかかっただろう。あれほどうるさかったドアはいつの間にか静けさを取り戻し、うんともすんとも言わない。さっきまでドアを開けようとしていた何者かは、この家の様子を窺っているのだろうか。まだどうにかしてドアをこじ開けようとしているのか、それとも別の方法で侵入を試みているのだろうか。あれこれ考えながらも、私はフライパンを手に構えた。
よくドラマなどで「家に侵入者がいるかもしれない」というシチュエーションになると必ず男性はゴルフクラブを、女性はフライパンを持っているものだと笑ったが当事者となった今では冗談じゃない。
お母さん、早く帰ってきて。誰か助けて。
ぎゅっと目を瞑り、とにかく祈る。再びチャイムが鳴った時は、心臓が口から飛び出るかと思った。
「希美! 希美!」
ドアの向こうからかかってくる声に、私は泣きそうになりながら「ポケット」と口にする。また返事がなかったらどうしよう、と思っていると母の声で「カツ丼」という単語が返ってきた。ドアを開けた私は心配した顔の母に抱きつき、わっと泣いたのだった。
◇
その後、母はすぐに警察に連絡をした。
「ゴート」の存在を知っていたことやそのチョコチップメロンパンが子どもに人気であること、さらに私が一人でいる時間に来たところを見ると、相手は地元の人間だったのだろう。もしかしたら以前から私の存在に目をつけていたのかもしれない、とのことだった。
警察からそう聞いた母は、私の学校にも連絡を入れた。その後、私の名前を伏せた上で状況を説明したプリントが配られ担任から「知らない人が来ても絶対にドアを開けないように」という注意をされた。クラスメートたちは「怖いね」などと言いながらもさして気にも留めていない様子だったが、私の背には冷や汗が流れたままだった。
母は、こういう状況があるかもしれないことを想定して合言葉を決めていたのだ。少女が一人きりで周りに大人がいない、という状況は思った以上に危険なのだ。薄ら寒い思いをしながら、その後の私は合言葉の習慣をきちんと守るようになったのだった。
◇
それから大人になり、結婚して娘が生まれた今。
春から小学校に通う娘、真奈美の通学時は必ず人目のあるところまで一緒に行く、と宣言した私を夫は「心配しすぎだよ」と笑った。その笑顔に悪気はなく、本気で私がただ神経質になりすぎだとしか思っていないのだろう。私の父も、そうだった。合言葉の件を母が悪いと決めつけ適当に流し、その重要性を理解できないでいた。だが、女として成長し娘を持った私は現実を思い知っていた。
どれだけ女性の社会進出が進んでも、女は女であるというだけで危険にさらされる。まして少女であれば、いつ悪意を持ったオオカミがその牙を向けるかわからない。敵はどこに潜み、どこから攻撃してくるかわからない。少女は少女である、というだけでいつも戦争なのだ。
「とにかく私は行くからね」
まだ笑っている夫に宣言し、私はランドセルに目を輝かせている真奈美を見つめる。
私は母に守られた。だから、私も同じように娘を守ってみせる。そう決意し、まだ幼い真奈美の頭をそっと撫でた。