刀身と葦原
雨がひときわ激しくなった頃、瑞彦は雷雲の光るはざまで黒い大蛇を目にした。
それは身をくねらせながら、はるか彼方へ昇り、その直後には白い稲妻に呑まれて見えなくなった。
その姿を目撃したのは、瑞彦だけではない。お宮につめかけていた里の人々は、黒い大蛇と見える影が雲間で蠢くさまを見て肝をつぶした。
その大蛇を刺し貫いた光は、凄まじい轟音とともに、そのまま稽古場の桜の木に落ちた。樹齢百年を越える荘厳な木の幹は雷火で根元まで裂け、青白い炎をあげると、焼け焦げて無残なありさまに成り果てた。
そして桜の木のかたわらには、未だ稲光を走らせる黒い燃え滓があった。それは桜子が大蛇に突き刺した剣だった。
『水神の剣』は雨に打たれながら、打ち砕かれた刀身を静かにさらしていた。
***
優は、荒小屋の先にある葦原で、『水神の剣』の力が解かれたことを知った。
それは、もともと備わっている審神者の血がそうさせるのだろう。打ち砕かれた刀身のありさまが、ありありと目に浮かぶようだった。
水脈筋にとらわれていた、撫子の魂が天に昇ったことも。袖をひるがえして舞う様子が、雲の合間に見えたような気がした。
——ようやく終わったのか。
優は、どす黒く渦巻く叢雲を見あげながら思った。
——俺は、撫子を水脈筋から解放したかっただけなのかもしれない。
この葦原なら、護身は強力だった。
そのために、桜子をここに呼んだのだ。
薫が桜子を守りきれるかどうかは、大きな賭けだった。水脈の大蛇に手をかければどういう事態になるか、優自身も知らないわけではなかった。
それでも薫に桜子をゆだねたのは——きっと、最後には撫子が、手を貸してくれると思ったからだ。
誰も届かない、はるかな高みから。
際どい判断だったが、優はその予想が当たったことを感じとっていた。葦原に吹きすさぶ風を受けながら。
次に気がかりなのは、『月読』の出方だった。
今頃、京に斥候の密使が遣わされているに違いない。
『月読』のあるじの正体を、優は知っていた。
代替わりの際、清涼殿を焼き払った怨霊の祟りに加え、皇女二ノ宮を失った帝の心痛を懸念したのが、大后である『桔梗の方』だった。
そして二ノ宮の祟りは、撫子が水脈筋に隠れたことにより、『水神の剣』の効力が途絶えたことが一番の原因なのだ。
一時的ではあるが、大蛇の荒御魂はニノ宮に取り憑いた。
皇に奪われた剣を取り戻すために。
水脈筋がふさがれたとあらば、ここにい続けるのは得策ではなかった。
——大蛇の分霊は、山の社にもいる。
いずれ審神者は深山に分け入るだろう。
はるか昔、皇に斬られた大蛇は、分散して自然のなかに宿り、その御魂を巫女が鎮めてきた。その神意を汲み、巫女を守るのが審神者の務めなのだ。
道のりはこれからも続く。
時に、皇の統治が及ばないような場所で。
『月読』のあるじにとって、未だ審神者は目障りなものでしかない。その追跡を逃れられるかは、今動くかどうかにかかっていた。
そして、もうひとつ——薫の気配が絶えていることも、優は気になった。
——薫は、水脈筋に深く潜りすぎた。
すでに人ではないものになっているのかもしれず、薫の行方を『月読』が捜し当てたとしても、生きた状態で逃がすとは思えなかった。
その行く末を見守る役目が、自分にはあるのだろう。
ずっと優は、戻らないつもりだった。気が変わったのは、いつも薫を気にかけていた桜子の面影が、撫子のそれと重なるからかもしれない。 里に戻っても瑞彦に許されるとは思えないが、まだやれることがありそうだった。
灰色にうねる雲の割れ目から、いくつもの光が乱立し始める。葦原のただなかで、優はしばらくの間、その光の底に佇んでいた。